戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 04:23 UTC 版)
フリードリヒ1世のアレッサンドリア包囲の挫折、モンテベッロの合意の失敗、いとこのハインリヒ獅子公支援の拒絶のあと、彼はとうとうドイツから良い知らせと支援を受け取った。ドイツの増援軍は1176年4月にルコマーニョ峠を横断しコモ湖地域に入った。「バルバロッサ」フリードリヒ1世、ケルン大司教フィリップ1世と大司教マグデブルクのヴィッヒマンとひそかにパヴィアからティチーノ川沿いに増援軍に会いに行き、これを率いて本隊と合流させた。フリードリヒ1世は1000の騎士と1000の歩兵を16のドイツ諸侯から受け取ったコモ湖においてロンバルディアの帝国軍は増援軍を増やし3000の騎士と3000の歩兵となった。しかし帝国軍は主としてドイツ人騎士からなる騎兵であった。 ミラノ市民はフリードリヒ1世の計画を知らされ、戦闘の準備をした。「カロッキオ」(Carroccio。牛によって曳かれた神聖な戦車。イタリア都市国家の象徴であった)が組み立てられ、ミラノの大司教アリベルトの十字架の祭壇や市旗で飾られた。1138年大司教アリベルトは神聖ローマ皇帝コンラート2世に対してミラノ防衛を勝利に導いた。したがって「アリベルトの十字」は神聖ローマ皇帝に対する勝利の象徴である。ミラノの年代記作家ミラノのラルフ(シレ・ラオウル(en:Sire Raoul))によれば、900の騎士がミラノからやって来て、550ほどの騎士が3つの町からやって来た。同盟軍の残りは歩兵である。伝説的な「死の中隊("Compagnia della Morte")」は歩兵から成っており、ロンバルディア同盟軍の歩兵の中核を形成していた。後世の年代記の記述では「死の中隊」はアルベルト・ダ・ジュッサーノによって率いられていたとされるが、ジュッサーノは架空の人物である 。ロンバルディア同盟軍を実際に率いていたのは、ギー・ダ・ランドリアーノであった。 フリードリヒ1世と彼の増援軍がパヴィアへと戻る途中で帝国軍の本隊と合流する間に、ロンバルディア同盟軍は3500の兵力をオロナ川の西岸近くに配置した。歩兵、ミラノの戦車、カロッキオはボルサーノのにわか作りの要塞に配置された。ロンバルディア同盟軍はフリードリヒ1世がまさにこの地域を幾重にも取り囲んでいることを知っていた、しかしどのように彼がしているかはわかっていなかった。5月29日の夜明け、ロンバルディア同盟軍は700の騎馬からなる偵察隊をセプリオ地域に派遣した。同時に、皇帝はオロナ川を渡り、カイラーテから南、ブスト・アルシーツィオ北東8キロのところを行軍していた。
※この「戦闘前」の解説は、「レニャーノの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「レニャーノの戦い」の記事については、「レニャーノの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 08:05 UTC 版)
1688年の名誉革命で王座から追放されたジェームズ2世は、フランス王ルイ14世を頼りフランスへ亡命、代わりにジェームズ2世の甥でオランダ総督のオラニエ公ウィレム3世がイングランド貴族に招聘され、妻であるジェームズ2世の娘メアリーと共にイングランド王および女王に即位、イングランドはウィリアム3世・メアリー2世の共同統治となり、翌1689年に権利章典が採択され新政権が誕生した。 しかし、スコットランドではジェームズ2世を支持するジャコバイトのダンディー子爵ジョン・グラハムが反乱を起こし、討伐に向かった政府軍の戦いでダンディーは戦死、反乱は終息したが、アイルランドでもティアコネル伯リチャード・タルボットを始めとするジャコバイトが新政権を認めずジェームズ2世を支援する方針を採ったため、イングランドは不安定な状態に置かれていた。フランス王ルイ14世も大同盟戦争で大陸侵略を行う上でイングランドを釘付けにするためジェームズ2世を援助してフランス艦隊を派遣、王位奪還を狙うジェームズ2世が3月にアイルランドへ渡海してジャコバイトがウィリアマイト(ウィリアム3世支持者)の勢力圏に侵攻すると、イングランドもアイルランド出兵に踏み切りウィリアマイト戦争が始まった。 ジャコバイトはアイルランドの大半を制圧していて(西部のコノート・南部のマンスター・東部のレンスター)、北部アルスターの都市ロンドンデリーとエニスキレンで抵抗していたウィリアマイトを討つべく北上したが、4月から始まったロンドンデリー包囲戦は8月に切り上げて失敗、7月31日のニュータウンバトラーの戦いに敗れてアルスターはウィリアマイトが平定した。イングランドは8月にフレデリック・ションバーグ率いる遠征軍をアイルランドへ送り出しベルファストから南下したが、疫病の流行で無駄に兵を失う羽目になりベルファストへ撤退、戦線はそれ以上広がらなかった。 状況が打開したのは翌1690年になってからで、ウィリアム3世は自らアイルランドへ向かうことを決めて6月にイングランドから出航、ベルファストに到着してションバーグと合流、ダブリンを目指して南下を開始した。ジェームズ2世も迎撃の姿勢を取りボイン河畔のドラハダで待ち受けて7月1日に戦闘開始となった。
※この「戦闘前」の解説は、「ボイン川の戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「ボイン川の戦い」の記事については、「ボイン川の戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:26 UTC 版)
1704年にブレンハイムの戦いでイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルはオーストリア(神聖ローマ帝国)の将軍プリンツ・オイゲンと共にフランス・バイエルン連合軍を撃破してドナウ川・ライン川流域を奪還、ドイツ戦線を立て直したが、翌1705年、フランスからヴィラール公がモーゼル川方面に派遣され、モーゼル川に向かったマールバラ公の進軍を妨害、6月にヴィルロワ公が南ネーデルラント(ベルギー)からオランダを襲撃したためマールバラ公はモーゼル川から引き返さざるを得なかった。ネーデルラントではアントワープからナミュールに広がる防衛線を突破(エリクセムの戦い)、退却するヴィルロワを追撃しながらブラバントを転戦していたが、決戦という時に同盟国オランダが回避を主張したため止むを得ず攻撃を中止、成果を出せなかった。 モーゼル川からライン川に南下したヴィラールはライン川支流のモーデル川流域の都市アグノーを同盟側の将軍バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムに奪われアルザスに後退したが、イタリア戦線はヴァンドーム公が攻勢に出てミランドラを陥とし、カッサーノの戦いでオイゲン率いるオーストリア軍に勝利、オイゲンの動きを封じて優位に立ったため、1705年は総じて同盟軍に不利な状況となった。 1706年になると状況は悪化、4月にヴァンドームがカルチナートの戦いでオーストリア軍を破りチロル付近に追い込み、5月にヴィラールも行動を起こし、アグノーを奪還して他のモーデル川流域の都市も奪いモーデル河畔を平定、北上してライン川支流のラウテル川流域も奪い、ドイツ戦線もフランス側有利に転じた。 ネーデルラントでもヴィルロワがフランス王ルイ14世の指示で攻勢に移り、5月19日にルーヴェンからデイレ川を渡り東のティーネンに向かった。マールバラ公は9日にハーグを出発、17日にトンゲレンで待機したが、ヴィルロワのこの動きを知るとすぐに迎え撃つ方針を固め、南西に向かい、先にフランス軍がブラバントのラミイに布陣したことを知るとすぐさま戦闘を開始した。 両軍は小ヘート川を挟んで対峙、フランス軍左翼は小ヘート川左岸の村オートル・エグリーズに配置、中央はオフュという村にヴィルロワとバイエルン選帝侯マクシミリアン2世が待機、右翼は小ヘート川源流付近のラミイから更に南のムエーニュ川北岸の村タヴィエールまで広範囲に布陣した。対するイングランド・オランダ連合軍も小ヘート川右岸からムエーニュ川北岸まで軍を広げ、左翼はデンマーク騎兵・オランダ歩兵がタヴィエールから東のフランクネー付近に布陣、ムエーニュ川と小ヘート川源流の間の街道はオランダの部将アウウェルケルク卿がオランダ騎兵を率いて待機していた。中央はマールバラ公が、右翼はイングランドの部将オークニー卿、ラムリーが布陣していた。 開戦前にマールバラ公は左右両翼に騎兵を配置したが、部将達は反対した。左翼は障害物の無い平原なので問題ないが、右翼の小ヘート川両岸は湿地帯で馬の通行が出来ないことが理由だったが、マールバラ公は聞き入れず配置を変更しなかった。
※この「戦闘前」の解説は、「ラミイの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「ラミイの戦い」の記事については、「ラミイの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:57 UTC 版)
3月26日未明、クレタ島北岸のスダ湾(ドイツ語版、イタリア語版)に停泊していた連合軍艦隊に、イタリア王立海軍の特別攻撃艇(英語版、イタリア語版)が特殊作戦を決行、タンカー1隻と英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) を航行不能とした(スダ湾襲撃)。 イギリス軍は通信傍受や暗号解読などにより、イタリア王立海軍による船団攻撃を予期した。航行中であったAG9船団(エジプトからギリシャへ向かう船団)は引き返させ、3月27日にギリシャから出発予定であったGA8船団 (GA 8 convoy) はギリシャに留め置いた。ショート サンダーランド飛行艇が進撃中のイタリア艦隊を発見したので、イギリス側も対応策を講じる。同27日夕方以降、アレクサンドリアからアンドルー・カニンガム提督率いるイギリス地中海艦隊が出撃した。さらに、エーゲ海で行動中であったウィッペル中将指揮下の巡洋艦部隊(Force B)にも地中海艦隊本隊(A部隊)への合流が命じられた。
※この「戦闘前」の解説は、「マタパン岬沖海戦」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「マタパン岬沖海戦」の記事については、「マタパン岬沖海戦」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 02:16 UTC 版)
1792年7月にはオーストリア軍がフランスに侵攻。フランス政府は「祖国危機」を宣言。続いてプロイセン軍もフランスに侵入。「国王夫妻に危害を加れば、パリを壊滅させる」と通告し、フランス市民を憤激させる。両国軍は破竹の進撃を続け、8月23日にはロンウィが陥落。9月2日にはヴェルダンが降伏した。この事態にパリは動揺する。 しかし、9月19日にメッス県からのケラーマン軍とスダン県からのデュムリエ軍が合流し、フランス軍は5万の兵力となった。対するプロイセン軍は3万4000で、初めて兵力でフランスが優勢になった。ただし、フランス軍のほとんどの兵士は募集されたばかりの「1792年のボランティアたち」であったから、素人対プロの戦いでもあった。
※この「戦闘前」の解説は、「ヴァルミーの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「ヴァルミーの戦い」の記事については、「ヴァルミーの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 14:32 UTC 版)
ネーデルラント継承戦争でフランス王ルイ14世はスペイン領ネーデルラントに侵攻したが、オランダがイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、フランスに圧力をかけたため領有に失敗した。ルイ14世はこの時のオランダの行為を不快視し、オランダ侵攻の意志を露わにした。そのために三国同盟の切り崩しを図り、イングランドに接近した。 1670年にイングランド王チャールズ2世とルイ14世との間でドーヴァーの密約が成立、同年にロレーヌ公国を占拠してシャルル4世を追放、1671年までに神聖ローマ帝国諸侯のほとんどと同盟・中立関係を結び、スウェーデンとも1672年に仏瑞同盟を締結してオランダを包囲した。そして同年3月にイングランドがオランダに宣戦布告して第三次英蘭戦争を始めるとフランスも4月に宣戦布告、係争中のオランダに侵攻した。
※この「戦闘前」の解説は、「仏蘭戦争」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「仏蘭戦争」の記事については、「仏蘭戦争」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/21 22:52 UTC 版)
1917年のロシア革命で東部戦線が同盟軍の勝利に終わると、オーストリア軍は全力をイタリア戦線に注ぐ事が出来る様になり、加えて余裕が生まれたドイツ軍からも精鋭の増援部隊を派遣してもらっていた。カポレットの勝利はドイツ軍から派遣された司令官と少数精鋭の突撃師団による浸透戦術と、イタリア軍司令官ルイージ・カドルナ大将の失策によって齎された。イタリア陸軍はそれまでの占領地を失い、30万名の戦力も失ってヴェネト地方へと後退を強いられた。 無能なルイージ・カドルナ大将は解任され、代わって軍司令官の一人だったアルマンド・ディアズ大将が参謀長に抜擢された。ディアズ将軍はヴェネト州西部のピアーヴェ川で独墺軍の攻勢に踏み留まり、同地に川沿いの強固な防衛線を形成した(第一次ピアーヴェ川の戦い)。また政府内でもパオロ・ボセッリ(英語版)政権が責任を取って辞任、新たな首相に選出されたヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドはロンドン条約を活用して援軍を要請、連合軍側もイタリア戦線に援軍を送り込んだ。しかし大部分のフランス軍とイギリス軍は1918年3月の春季攻勢に備えて撤退してしまい、僅かな戦力(全軍の数%)しか増援としては残らず、結局は殆ど独力で独墺軍に対処せねばならなかった。 オーストリア側ではアルトゥール・アーツ・フォン・シュトラウセンブルク(英語版)上級大将が参謀長になったが、彼は早期にイタリア戦線を自らの手で終わらせる事を望んだ。軍司令官に格下げされたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ前参謀長とスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍も攻撃に賛同したが、攻撃場所に関してはピアーヴェ川に沿って攻撃を継続する(ボロイェヴィッチ)か、別の箇所から攻撃する(コンラート)かで意見が二つに分かれた。ボロイェヴィッチとコンラートが犬猿の中であった事も対立に拍車を掛け、シュトラウセンブルク参謀長は二人の将軍に曖昧な仲裁を繰り返した。結果、オーストリアの攻勢は二箇所から戦力を二分して行われる事になった。 ドイツ軍側は攻撃の開始を求め、1918年2月にボルツァーノで作戦が正式に決定された。ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ将軍は西部戦線で日に日に増加しているアメリカ軍師団がイタリア戦線の火消しに回る事を望んでいた。
※この「戦闘前」の解説は、「ピアーヴェ川の戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「ピアーヴェ川の戦い」の記事については、「ピアーヴェ川の戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/28 03:16 UTC 版)
オーストリア軍司令部のフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ将軍は同盟を破棄したかつての同盟国に怒りを抱いて、イタリアとの開戦初期の時点で攻勢に持ち込むつもりでいた。オーストリア軍は山岳地帯という地理的有利を生かしての防戦(これは実際に効果的だった)に徹したが、コンラート将軍は攻勢計画を練り続けた。攻撃は険しく、主戦力の集中するイゾンツォ川を避けて副次的戦線だったトレンティーノ地方に向けて行う予定でいた。攻勢計画はトレンティーノ戦線西部のイタリア第1軍をオーストリア第5軍と第3軍が包囲殲滅、そのままヴェネツィア市まで進んでトレンティーノ戦線東部の第4軍とイゾンツォ川でオーストリア第5軍と対峙するイタリア第2軍と第3軍を孤立させるという大胆な内容だった。 イタリア軍の新たな攻勢が決定された1915年12月にオーストリアもコンラート将軍の計画を承認し、更にドイツ軍にも増援を嘆願した。ドイツ軍のファルケンハイン将軍は要請を受託して東部戦線から一部部隊をチロル地方に派遣した。もっとも当のドイツ軍はオーストリア軍の攻撃成功を疑問視して、援軍を送る代わりに防戦を維持する様に強く要請した。ドイツ軍の反対を知ったコンラートは独断で作戦を発動した。
※この「戦闘前」の解説は、「アジアーゴの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「アジアーゴの戦い」の記事については、「アジアーゴの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/28 03:36 UTC 版)
「第七次イゾンツォの戦い」の記事における「戦闘前」の解説
1916年9月14日から17日から戦われた第七次イゾンツォ攻勢は、最初から短期的な作戦として立案された。ルイージ・カドルナ将軍はゴリツィア橋頭堡を強化する為、ゴリツィア市外周部の北東部に対して攻撃を行った。
※この「戦闘前」の解説は、「第七次イゾンツォの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「第七次イゾンツォの戦い」の記事については、「第七次イゾンツォの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/12 03:30 UTC 版)
「第三次イゾンツォの戦い」の記事における「戦闘前」の解説
第一次イゾンツォの戦いと第二次イゾンツォの戦いで山岳地帯に阻まれて苦戦する中、2ヵ月半の兵力補給の間にルイージ・カドルナ大将は、1,200門もの大砲を掻き集めて不利を是正しようとした。3度目の攻勢でカドルナは伊墺国境の要衝ゴリツィアを占領することを望んでいた。しかし2度にわたる大攻勢の不調は、カドルナの単調な指揮(軍を均衡に並べての平押し)による漠然とした全面攻撃にも要因があった。 オーストリアのスヴェトザル・ボロイェヴィッチ将軍らは、戦力を1箇所に集めることで対応した。
※この「戦闘前」の解説は、「第三次イゾンツォの戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「第三次イゾンツォの戦い」の記事については、「第三次イゾンツォの戦い」の概要を参照ください。
戦闘前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 06:22 UTC 版)
「トラシメヌス湖畔の戦い」の記事における「戦闘前」の解説
ティキヌスの戦い、トレビアの戦いと連敗を重ねたローマの元老院は、紀元前217年、執政官にガイウス・フラミニウス、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスの両名を選出し、新たに4個軍団50,000名を動員した。ハンニバルの南下経路が予想できなかったため、両執政官はそれぞれ2個軍団25,000名を率い、セルウィリウスはアレミヌム(現リミニ)へ、フラミニウスはアレティウム(現アレッツォ)へ向かった。 カルタゴ軍はアペニン山脈を越えてフロレンティア(現フィレンツェ)に到着し、ペルシア(現ペルージャ)へ向けて南下した。カルタゴ軍の動きを察知したフラミニウスは、セルウィリウスへ合流の要請を出すとともに、アレティウムを出陣してカルタゴ軍を追った。フラミニウスの意図は、セルウィリウスの軍団とカルタゴ軍を挟撃することにあった。しかし、ハンニバルはこれを予測し、逆に各個撃破の機会を狙っていた。 トラシメヌス湖畔に到達したハンニバルは、ただちに部隊を展開させた。トラシメヌス湖の北岸を通る街道は、丘陵の間を通る隘路であり、迎撃と埋伏に最適な地形だった。ハンニバルは、湖畔の出口側へ重装歩兵を配置し、そこから西へ軽装歩兵、ガリア兵、騎兵の順番で丘陵の陰に隠れるように配置した。重装歩兵が敵の進軍を阻止し、騎兵が退路を遮断、軽装歩兵とガリア兵が敵主力を攻撃して湖へ追い落とすのがハンニバルの意図であった。
※この「戦闘前」の解説は、「トラシメヌス湖畔の戦い」の解説の一部です。
「戦闘前」を含む「トラシメヌス湖畔の戦い」の記事については、「トラシメヌス湖畔の戦い」の概要を参照ください。
- 戦闘前のページへのリンク