オランダ総督
オランダ総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:03 UTC 版)
「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「オランダ総督」の解説
オランダとフランスは1662年から同盟を結んでいたが、貿易上の対立とルイ14世のスペイン領ネーデルラント併合の野望から起こったネーデルラント継承戦争で危機感を抱いたデ・ウィットは、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルと組んで1668年にイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、戦争を終結させた。しかし、1670年にルイ14世はチャールズ2世とドーヴァーの密約を結び、神聖ローマ帝国の諸侯のほとんどとも同盟・中立関係を築き、1672年にスウェーデンとも仏瑞同盟を結んでオランダ包囲網を築いたため、オランダは孤立した。また、ウィレム3世の支持者による突き上げから、デ・ウィットはウィレム3世を陸軍総司令官に任命したが、総督への就任は認められないままであった。 1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダの大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任、デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それまでオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3世であったが、就任後の1673年にオーストリアやスペインと同盟を結んで逆にフランスを包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで合流し、フランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させた。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となる。 戦争はスペイン領ネーデルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦った。コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねたり(スネッフの戦い、カッセルの戦い、サン=ドニの戦い)、ネーデルラントの都市を奪われたりしているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった。 フランスと組んで戦ったイングランドは海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活躍でオランダ上陸を阻止、1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは似合いの夫婦ではなかった。夫婦仲は良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあったが、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。 戦後、ルイ14世が領土拡大を狙い、ナイメーヘンの和約で獲得した領土に付随すると過去の書類に記録された領土を併合する動きに出ると、迎撃に出ようとしたが諸国の出だしが遅れ、アムステルダムの出兵反対にも遭ったため、1681年から1684年にかけてルクセンブルク・ストラスブールなどライン川沿岸の領土をフランスに占領されてしまい、反省からアムステルダムをはじめ国内の宥和に努めた。一方、イングランドが王位継承問題で揺れるとイングランドの一部の政治家がオランダを訪問するようになり、イングランドとの関わりが深まっていった。 1685年にチャールズ2世が亡くなりヨーク公ジェームズが即位すると、チャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットがイングランドで挙兵したが、短期間でジェームズ2世に鎮圧された(モンマスの反乱)。ウィレム3世は王位継承問題で亡命していた従兄のモンマス公をしばしば歓待していたが、反乱に際してはジェームズ2世に援軍を送っている。
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