ネーデルラント連邦共和国とは? わかりやすく解説

ネーデルラント連邦共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/11 04:38 UTC 版)

ネーデルラント連邦共和国
Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden
1579年 - 1795年
国旗国章
国の標語: Eendracht maakt macht
団結は力なり
Concordia res parvæ crescunt
団結により小さなものも大きくなる

ネーデルラント連邦共和国の位置(1789年)
公用語 オランダ語
国教 オランダ改革派
宗教 カトリック
ユダヤ教
ルター派
首都 ハーグ(事実上)
総督(統領)
1581年 - 1584年 オラニエ公ウィレム1世
1625年 - 1647年オラニエ公フレデリック・ヘンドリック
1672年 - 1702年オラニエ公ウィレム3世
1747年 - 1751年オラニエ公ウィレム4世
1766年 - 1795年オラニエ公ウィレム5世
人口
1795年[1]1,880,500人
変遷
ユトレヒト同盟結成 1579年1月23日
Plakkaat van Verlatinghe
(一般的には独立宣言とみなされている)
1581年7月26日
ミュンスター条約
(スペインが独立を承認)
1648年1月30日
滅亡1795年1月19日
通貨ギルダー
現在 オランダ
ベルギー
オランダの歴史
古代
ローマ帝国 58-476
民族大移動時代
中世
フランク王国 481-950
神聖ローマ帝国 962-1648
  ブルゴーニュ公爵領 1384-1482
  ネーデルラント17州 1477-1556
  オーストリア領 1482-1581
ネーデルラント連邦共和国 1581-1795
近代
バタヴィア共和国 1795-1806
ホラント王国 1806-1810
フランス第一帝政 1810-1815
ネーデルラント連合王国 1815-1830
現代
ネーデルラント王国 1830-現在
ネーデルラントの歴史
フリーシー族英語版 ベルガエ族
カナネファテス族英語版 カマウィ族英語版
トゥバンテス族英語版

ガリア・ベルギカ
(紀元前55年 - 5世紀ごろ)
ゲルマニア・インフェリオル
(83年 - 5世紀ごろ)
サリ・フランク族 バタウィ族
無人
(4世紀 - 5世紀ごろ)
ザクセン族 サリ・フランク族
(4世紀 - 5世紀ごろ)
フリースラント王国
(6世紀ごろ - 734年)
フランク王国(481年 - 843年)
カロリング帝国 (800年 - 843年)
アウストラシア(511年 - 687年)
中部フランク王国(843年 - 855年) 西フランク王国
(843年 - 987年)
ロタリンギア王国(855年 - 959年)
下ロタリンギア公国英語版(959年 - 1190年)
フリースラント


フリースラントの自由英語版
(11世紀 - 16世紀)

ホラント伯国英語版
(880年 - 1432年)

ユトレヒト司教領英語版
(695年 - 1456年)

ブラバント公国
(1183年 - 1430年)

ゲルデルン公国
(1046年 - 1543年)

フランドル伯国英語版
(862年 - 1384年)

エノー伯国英語版
(1071年 - 1432年)

ナミュール伯国英語版
(981年 - 1421年)

リエージュ司教領

(980年 - 1794年)

ルクセンブルク公国
(1059年 - 1443年)
 
ブルゴーニュ領ネーデルラント(1384年 - 1482年)

ハプスブルク領ネーデルラント(1482年 - 1795年)
ネーデルラント17州1543年以降
 

ネーデルラント連邦共和国
(1581年 - 1795年)

スペイン領ネーデルラント
(1556年 - 1714年)
 
 
オーストリア領ネーデルラント
(1714年 - 1795年)
 
ベルギー合衆国
(1790年)

リエージュ共和国英語版
(1789年 - 1791年)
     

バタヴィア共和国(1795年 - 1806年)
ホラント王国(1806年 - 1810年)

フランス第一共和政(1795年 - 1804年)
フランス第一帝政(1804年 - 1815年)
   

ネーデルラント連合公国英語版(1813年 - 1815年)
 
ネーデルラント連合王国(1815年 - 1830年)
ルクセンブルク
大公国

(同君連合、1815年 - )


オランダ王国(1839年 - )

ベルギー王国(1830年 - )
ルクセンブルク大公国
(1890年 - )

ネーデルラント連邦共和国(ネーデルラントれんぽうきょうわこく、オランダ語: Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden英語: Republic of the Seven United Netherlands)は、16世紀から18世紀にかけて現在のオランダおよびベルギー北部(フランデレン地域)に存在した国家である。現在のオランダ王国の原型であり、そのことからオランダ共和国などと呼ばれることもある。

連邦共和国はヘルダーラント州ホラント州ゼーラント州ユトレヒト州フリースラント州オーファーアイセル州フローニンゲン州のネーデルラント北部7州からなり、これにドレンテ準州、国境地帯の連邦直轄領ブラーバントリンブルフフランデレンなどが加わっていた。中でもホラント州が連邦の経費の半分以上を負担し、人口、富、対外関係の面で他の6州より抜きんでていた。そのため、この州の名がそのまま連邦共和国、さらに今日の王国の通称となった。日本語名の「オランダ」もホラントのポルトガル語名に由来する。

歴史

成立

1579年ユトレヒト同盟が基礎となって成立したが、建国宣言や独立宣言のようなものはなかったので、成立年は明確ではない。1795年フランス革命軍の侵攻によって崩壊した。

歴史教科書などでは、宗主国スペインフェリペ2世の統治権を否定した1581年の宣言を独立宣言とするものも多い。ただし、この時点では独立国家の樹立や共和制国家の成立を目指していたわけではないので注意を要する。

終焉

1794年9月、フランス軍はオランダへの侵攻を開始し、10月2日ルール川を渡り、1795年1月にはフランスの傀儡国家バタヴィア共和国が宣言される。1795年5月16日、オランダはハーグでフランスと講和条約を結び、500万フローリンの賠償金支払いを約束させられた[2]

国旗

国旗は橙・白・青の横三色旗だったが、1630年代以降は色褪せしやすい等の理由で、現在のオランダの国旗と同じ赤・白・青の配色へと変えられた。なお、オランダからの移民であるアフリカーナーをルーツの一つとする南アフリカ共和国では、1927年から1994年まで国旗の地色に橙・白・青の横三色を用いていた(南アフリカの国旗を参照)。

脚注

  1. ^ Demographics of the Netherlands, Jan Lahmeyer. 2017年5月26日閲覧
  2. ^ ソブール 下144-146

参考文献

関連項目


ネーデルラント連邦共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:16 UTC 版)

オランダの歴史」の記事における「ネーデルラント連邦共和国」の解説

詳細は「南ネーデルラント」および「ネーデルラント連邦共和国」を参照 1585年ホラント州およびゼーラント州総督任命されたマウリッツ・ファン・ナッサウは、1591年までに更にユトレヒト州ヘルダーラント州オーファーアイセル州総督にも就任し反乱側の指導者としての地位確立する1596年にはフランスイングランド北部7州を国家として事実上認め条約グリニッジ条約)を締結しうやむやのうちにネーデルラント連邦共和国が成立していたことになった共和国成立してスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント諸州は1602年アムステルダム証券取引所とともに連合東インド会社オランダ東インド会社)を設立してアジア進出しポルトガルから香料貿易奪取し世界の海に覇権称えたこのため貿易の富がアムステルダム流入して17世紀共和国黄金時代迎えることとなる(オランダ海上帝国)。1609年にはスペインとの12年停戦協定結ばれたが、1621年停戦が終わると、独立戦争ヨーロッパ全体巻き込んだ三十年戦争にもつれ込んだ1648年三十年戦争終結させたヴェストファーレン条約一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立正式に承認し80年にわたる戦争八十年戦争)は終結したオランダ東インド会社は、アジアだけでなく南北アメリカにも植民地築いた。しかし各地植民地イギリス東インド会社衝突しついには3次にわたる英蘭戦争となったオランダ政府1656年、のちにライクスヴェルフ(英語版)となる兵器製造所・戦艦造船所創設した1672年イングランドオランダに宣戦布告し第三次英蘭戦争)、続いてフランス王国宣戦布告したオランダ侵略戦争)。この国家的危機のため、1672年は「災厄の年(英語版)」と呼ばれるオラニエ派(英語版)と共和派対立深まりついには1653年以来共和制指導者であったヨハン・デ・ウィット兄弟倒されウィレム3世総督職に就いた1688年ウィレム3世イングランドへ侵攻しジェームズ2世国外へ逃れた名誉革命)。ウィレム3世は妻メアリー2世とともにイングランド共同統治者ウィリアム3世)となり、イングランド(およびスコットランドアイルランド)とネーデルラント1702年までの20年余、ともに同じ元首を頂くことになった18世紀始め勃発したスペイン継承戦争ではネーデルラントフランス・スペイン相手イギリスとともに戦った1747年オーストリア継承戦争最中フランス侵攻されたが、なんとか撃退した18世紀末になるとフランス啓蒙思想共和国にも流入したが、オランダ総督ウィレム5世優柔不断な態度取っていたため、統領職を代々世襲するオラニエ=ナッサウ家対す反感高まった。さらにアメリカ独立戦争イギリス対立し第四次英蘭戦争起こして敗北(ただし、アメリカ独立戦争ではイギリス敗北したため、オランダ損失植民地ナーガパッティナムのみ)、1785年愛国派(パトリオッテン)が蜂起する結果になった

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