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フランク-おうこく ―わう― 【―王国】



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フランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/19 09:13 UTC 版)

フランク王国
西ローマ帝国 481年 - 987年[1] 東フランク王国
西フランク王国
中フランク王国
ナバラ王国
フランク王国の位置
フランク王国の時代別の領土
公用語 不明
首都 パリアーヘン
皇帝
481年 - 511年 クロヴィス1世(メロヴィング朝初代)
743年 - 751年 キルデリク3世(メロヴィング朝最後)
751年 - 768年 ピピン3世(カロリング朝初代)
768年 - 814年 カール1世(カロリング朝第2代、フランク・ローマ皇帝)
884年 - 887年 カール3世(最後の統一、フランク・ローマ皇帝)
変遷
メロヴィング朝成立 481年
カロリング朝成立 751年
カール大帝の戴冠 800年
ヴェルダン条約による三国分裂 843年
最後の統一終焉 887年

フランク王国(フランクおうこく、フランス語: Royaumes francsドイツ語: Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国を統一したのは、この王国の後、EUの成立までない。

ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランスイタリア北部・ドイツ西部・オランダベルギールクセンブルク及びスロベニアを領土とした。首都は508年にパリに置かれた。カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれて事実上の首都となった。

目次

成立と発展

フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する(ゲルマン民族の大移動)。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍として、シカンブリ人など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜は、シカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。

メロヴィング朝時代

サリー支族から出たクローヴィス王は、フランク人を統一して覇権的地位を得た。その上でランス司教のレミギウス洗礼によりカトリックを受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた在地勢力からの支持を得る上でも有益であった。その後もゲルマン諸勢力に対して遠征を敢行し、507年にはヴイエの戦いで西ゴート王国からガリア南部を奪い、ガリア支配を確立させた。

フランク王国では分割相続がとられた。そのため、クローヴィスの死後に王国はテウデリヒ1世、クロドメール、ヒルデベルト、クロタール1世の4人によって分割された。これらの分王国は、6世紀半ばのクロタール1世や、7世紀初頭のクロタール2世によって再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰(王宮の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、アウストラシア分王国ではカロリング家が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰ピピン2世(中ピピン)は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕を求めることで、その地位を強化していった。

カロリング朝時代

こうして、既にカロリング家はフランク王国における事実上の支配者となっていたが、当時においてはメロヴィング家の血統が権威化されていたため、王位にはメロヴィング家がふさわしいとする考えが有力であった。そのため、カロリング家はローマ教皇との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正統化しようとした。当時はローマ教皇もビザンツ皇帝との対立を深めていた時期で、新たな政治的保護者を求めていた。こうして両者の思惑も一致し、751年にローマ教皇の支持下でピピン3世(小ピピン)がフランク国王となった。これによってカロリング朝が創始された。756年にはピピンが北イタリアのランゴバルド王国に遠征し、征服したラヴェンナ地方をローマ教皇に献上することでその連携を深めた。

ピピンの息子で後継者となったカール大帝(シャルルマーニュ)とその弟カールマンはフランク族の習慣に従って国土を分割した形で統治を開始したが、カールマンは771年に早世したため、カールは単独の国王として長く君臨し、精力的に各地に遠征、ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させるなど、彼の治世にフランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。このような功績によってカール大帝は「ヨーロッパの父」、「最初のヨーロッパ人」と呼ばれた。

  

カール大帝の戴冠

800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。これはカールの王国が、理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立し、独自性を得たことを意味する象徴的事件だった。


  1. ^ 表記年はフランク王国継承政権の最後のカロリング朝政権(西フランク王国)断絶年。843年-884年は分裂期間。884年-887年カール3世による一時的統一したが、これより後は統一されることなし。962年に東フランク王国が神聖ローマ帝国になり、987年に西フランク王国ではカロリング朝が断絶しカペー朝フランス王国となる。


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