独立戦争
独立戦争(1868年 - 1902年)
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「キューバ」の記事における「独立戦争(1868年 - 1902年)」の解説
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・デ・セスペデスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ、10年あまりにわたって続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦した。しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。 1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティは同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまできた。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫った1898年2月15日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして同年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
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独立戦争(1811年-1828年)
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「ウルグアイの歴史」の記事における「独立戦争(1811年-1828年)」の解説
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 ブエノスアイレスから追放されたラ・プラタ副王は、五月革命を認めなかったバンダ・オリエンタルの首都モンテビデオに移転し、ハビエル・エリオが新たに副王となり、1811年2月にブエノスアイレス政府に対して宣戦布告した。 しかし、同年ブエノスアイレスの独立運動と呼応した、バンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス(英語版)が民兵隊を率いて蜂起し、バンダ・オリエンタルでも独立運動が始まった。アルティーガスはモンテビデオを包囲したが、10月にブエノスアイレス政府がアルト・ペルー攻略のために副王と休戦すると、バンダ・オリエンタルとブエノスアイレスの独立運動に相互の齟齬が生じた。1813年6月のリオ・デ・ラ・プラタの憲法制定議会には、アルティーガス派の代表の出席は認められず、ここに来てバンダ・オリエンタルとブエノスアイレスの対立は決定的なものになった。1814年6月にはブエノスアイレス軍が王党派からモンテビデオを攻略したが、これに呼応して同年にアルティーガスは東方州を拠点に、コルドバ州、サンタフェ州、エントレ・リオス州、コリエンテス州と共に連邦同盟を創設し、1815年1月にはアルティーガス派がモンテビデオをブエノスアイレス軍から攻略し、6月29日にスペインからの独立を宣言した。また、同年パイサンドゥーに野営していたアルティーガスによって、東方州ではラテンアメリカ初となる農地改革令が発令された。スペインの哲学者ホベジャーノス(スペイン語版、英語版)の思想的影響を受け、工業化と国民統合の進展を視野に入れた農地改革令によって 、国外に亡命していた不在地主のラティフンディオが没収され、「主たる権利」を有するインディオや貧しい愛国者に分配された。 このように、リオ・デ・ラ・プラタ副王領全域に各州が対等の権利を持ったアメリカ合衆国のような国家を創設し、連邦主義と保護貿易を図るアルティーガス派と、ブエノスアイレスによる中央集権と自由貿易を図るブエノスアイレスの対立は激しさを増し、1816年7月16日にブエノスアイレス主導でリオ・デ・ラ・プラタ連合州の独立が宣言されたトゥクマン議会(英語版)が開かれたが、アルティーガス派の代表は出席せず、8月にポルトガル軍がブラジルから侵攻すると(Invasión luso-brasileña)、アルティーガス軍は厳しい立場に立たされ、ブエノスアイレス軍とポルトガル軍を敵に回してゲリラ戦を続けることになった。1817年にはポルトガルのレコール将軍によってモンテビデオが攻略され、アルティーガス派はその後も抵抗を続けたが、ブエノスアイレスがポルトガル軍の侵攻を黙認したために後が無くなったアルティーガスは、1820年にタクアレンボーの戦い(スペイン語版)で破れ、パラグアイに亡命した。 1820年にアルティーガス軍がポルトガル=ブラジル連合王国軍に敗れると、1821年に東方州はシスプラチナ州(ラ・プラタ川手前の州の意)としてポルトガル・ブラジル連合王国の一部となった。アルティーガスの失脚後、ブラジルと結んだモンテビデオの寡頭支配層によって農地改革や保護貿易は取り消され、バンダ・オリエンタルで大土地所有制度が復活した。 一方、ラ・プラタ川の西側でも1820年に反乱軍と政府軍が激突したセペーダの戦い(スペイン語版)によりラ・プラタ連合州の中央政府は崩壊し、以降暫く無政府状態が続いたが、次第に東方州のブラジルへの編入を見逃したことへの批判と、連合州への奪還の声がリトラル三州を中心にした旧連邦同盟の諸州に上がり、1825年1月に連合州は基本法を制定してブエノスアイレス州に外交権を移譲した。同年、元ブエノスアイレス内務大臣だった中央集権派のベルナルディーノ・リバダビアが連合州の初代大統領に就任し、戦争の準備が整うと、フアン・アントニオ・ラバジェハ(英語版)将軍に率いられてブエノスアイレスから潜入した33人の東方人がブラジル帝国に対してゲリラ戦を展開し、フロリダ会議で東方州の独立と、リオ・デ・ラ・プラタ連合州との合併を宣言した。ブラジル皇帝ペドロ1世は激怒し、同年ブラジルが連合州に宣戦布告したことによりシスプラティーナ戦争が勃発した。 戦争の最中に連合州は国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)に改名していたが、アルゼンチン=東方州連合軍は順調に勝利を重ね、1827年2月のイツサンゴの戦い(スペイン語版)での勝利によりアルゼンチンの優位は決定的になった。しかし、アルゼンチン内での連邦派と統一派の対立、特にリバダビアの採った中央集権憲法とブエノスアイレスの連邦直轄首都化は国内全ての層の猛反対を呼び、とても戦争が継続できる状態ではなくなったため、1828年4月28日にイギリスの仲介でモンテビデオ条約が結ばれた。この条約ではラ・プラタ川の両岸を領有することでアルゼンチンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの意向が強く反映され、その結果1828年8月にバンダ・オリエンタルはウルグアイ東方共和国として独立を果した。 文化面においては、連邦同盟の軍人だったバルトロメ・イダルゴ(スペイン語版)によってガウチョ文学(英語版)が創始された。イダルゴはガウチョを古いヨーロッパを克服しようとする存在として描き、イダルゴによってイスパノアメリカの詩はヨーロッパから分岐した。
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独立戦争(1810年-1824年)
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「ペルーの歴史」の記事における「独立戦争(1810年-1824年)」の解説
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 19世紀に入り、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変によって、スペイン本国でフランス帝国軍の軍事力を背景にフェルナンド7世が廃位され、皇帝ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世として国王に即位すると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否し、キト、ラパス、カラカス、ブエノスアイレス、ボゴタ、サンティアゴ・デ・チレなど各地でクリオーリョによる自治運動が進んだ。しかしペルーでは、ペルーのクリオーリョが、インディオ大衆による社会革命と化したトゥパク・アマルー2世の反乱の恐怖を忘れることが出来なかったために自治運動は進展しなかった。この情勢を幸いとしてペルー副王フェルナンド・アバスカルは、自治派クリオーリョが実権を握っていたアルト・ペルーのラパス、キト、チリのサンティアゴ・デ・チレに遠征軍を送り、在地のクリオーリョの自治政府を鎮圧した。ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョの反乱が鎮圧された後、アルト・ペルーは再びリオ・デ・ラ・プラタ副王領からペルー副王領に編入され、1810年5月25日の五月革命によってポルテーニョが自治政府を樹立したブエノスアイレスは、マヌエル・ベルグラーノ将軍を差し向けてアルト・ペルーを解放しようとしたが、アバスカルはこの解放軍による攻撃をも乗り切った。1814年にクスコからマテオ・ガルシア・プマカワが蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが、プマカワも敗れ、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で独立を果たすことになった。 1816年に独立したリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現在のアルゼンチン)はペルーからスペイン軍を追い出すことが自国の独立を保証すると考え、ホセ・デ・サン・マルティン将軍はこの構想の下にまずアンデスを越えてチリを解放し、チリから海路でリマを攻略することを決定した。サン=マルティン率いる解放軍がリマを解放すると、1821年7月28日にペルーはサン・マルティンの指導の下で独立を宣言したが、副王政府は植民地支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、間もなくサン・マルティンのペルー統治がリマ寡頭支配層間の内紛で行き詰ったため、1822年7月26日にサン・マルティンは、北のベネズエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルとグアヤキルで会談し、この会談によってボリーバルはサン=マルティンからペルー、アルト・ペルーの解放戦争を引き継いだ。1824年8月6日にフニンの戦いでボリーバルはスペイン軍に勝利すると、ボリーバルはリマを再々解放し、一方分遣隊を率いたアントニオ・ホセ・デ・スクレが12月9日にアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ を撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。1826年1月23日にはカヤオ要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ペルーからスペイン勢力は一掃された。こうしてペルーは長く続いたスペインの支配からようやく独立を果たしたのである。 しかし、政治的な主権の獲得が、直ちにインディオ、メスティーソ、黒人、そして女性といった人々の平等と尊厳の獲得に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより財政は疲弊し、農業も鉱業も荒廃しきっており、奴隷制は完全に廃止されず、1826年のペルーの人口約150万人のうち、148,000人と一割にすぎない白人の、さらに男性のみが、以降百数十年以上ペルーの国政を動かすのであった。
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「独立戦争」の例文・使い方・用例・文例
- アメリカ独立戦争の所産
- フランス革命はアメリカ独立戦争より後の出来事である。
- その本の主題はアメリカ独立戦争である。
- 彼らの赤いコートのためにアメリカ独立戦争中の英国兵に対して使用された
- ブリーズヒルで戦ったアメリカの独立戦争(1775年)の最初の重要な闘争
- アメリカ独立戦争中の戦い
- 米国独立戦争(1778)時のニュージャージーにおける互角の激戦で、英国軍の撤退で終わった
- ギリシア独立戦争の決定的な海戦(1827年)
- アメリカ独立戦争中とその直後のアメリカ植民地の、アメリカ独立戦争中とその直後のアメリカ植民地に関する、または、アメリカ独立戦争中とその直後のアメリカ植民地に関する
- アメリカ独立戦争の成功した結末
- 米国独立戦争と米国独立戦争の後に会った反逆者居留地から代表で構成された立法上のアセンブリ
- イスラエルが1948年の独立戦争で勝利した土地の境界を示す国境線
- 米国独立戦争の初戦が戦われたボストン付近の東マサチューセッツの町
- 米国独立戦争の最初の戦いがあったた、ボストンの近くのマサチューセッツ東部の町
- アメリカ独立戦争期に英国側を支持したアメリカ人
- 米国独立戦争の軍人で、その軍がタイコンデロガ砦の英国人からの争奪を助けた(1738年−1789年)
- アメリカ独立戦争における英国の軍司令官で、1777年にタイコンデロガ砦を攻略したがサラトガの戦いで負けた(1722年−1792年)
- アメリカ独立戦争における英国軍の指揮官
- アメリカ独立戦争の兵士で、英国のスパイとして絞首刑にされた
- アメリカ独立戦争の指導者、有名な演説者で、アメリカ植民地への英国の支配に反対した(1736年−1799年)
独立戦争と同じ種類の言葉
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