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パラグアイ [Paraguay]
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パラグアイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 18:25 UTC 版)
- パラグアイ共和国
- República del Paraguay(スペイン語)
Tetã Paraguái(グアラニー語) -


(国旗) (国章) - 国の標語: Paz y justicia
(スペイン語: 平和と正義) - 国歌: パラグアイ人達よ、共和国か死か

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公用語 スペイン語、グアラニー語 首都 アスンシオン 最大の都市 アスンシオン 独立 スペインから
1811年5月14日通貨 グアラニー(PYG) 時間帯 UTC -4(DST: なし) ISO 3166-1 PY / PRY ccTLD .py 国際電話番号 595
パラグアイ共和国(パラグアイきょうわこく)、通称パラグアイは、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。
パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なる。(パラグアイの国旗を参照。他にはモルドバの国旗とサウジアラビアの国旗で異なる。)
目次 |
国名
正式名称はスペイン語で República del Paraguay (レプーブリカ・デル・パラグアイ)である。通称は Paraguay。グアラニー語表記は Tetã Paraguái (テタ・パラグアイ)である。通称は Paraguái。
公式の英語表記は Republic of Paraguay(リパブリック・オブ・パラグアイ)。
日本語の表記はパラグアイ共和国。同国の在日大使館の正式呼称はパラグァイ。日本では通常パラグアイ、パラグワイなどと表記され、漢字では巴拉圭、または巴羅貝となる。
パラグアイ(Paraguay)とは元々グアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。その他にも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。
歴史
詳細は「パラグアイの歴史」を参照
先コロンブス期
元々この地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多く人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。
スペイン植民地時代
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。
チャルーア人のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していた他のインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたので両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。
1617年にアスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこの時に建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチと呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後も他の地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。
1750年代以降は、グアラニー戦争により、 バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人達はスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイは余り大きな発展もしないまま月日が流れていった。
独立とカウディージョの専制統治
「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョが五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどと共にブエノスアイレス主導の独立を認めず、1811年に共和国として、ラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアが執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。
農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人(クリオージョ)の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米においてチリを除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残す程だった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取り掛かった。
前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖を巡ってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米で最も強大な軍隊を組織した。
三国同盟戦争
1862年にカルロス・ロペスが死に、長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが後を継いで大統領になると、1864年にブラジルとアルゼンチンの内政干渉に悩むウルグアイのブランコ党政権から救援を求められたことをきっかけに、ソラノ・ロペスはパラグアイと似たような立場で悩むウルグアイの救援を決意した。ロペスはブラジル領内に侵攻し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となった三国同盟戦争が始まった。この時ロペスは、アルゼンチンの反体制派の首領フスト・ホセ・デ・ウルキーサらの協力を得ることが出来ず、アルゼンチンとウルグアイを味方につけることに失敗する事となった。そしてさらに、かねてからパラグアイの発展を好ましく思っていなかった イギリス資本の支援を受け、 ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三国同盟を結ぶと、同盟軍はパラグアイに侵攻した。三方から攻められたパラグアイ軍は全滅するまで勇敢に戦い、アメリカ合衆国の公使がその勇気と愛国心を褒め称えたほどであった。途中でアルゼンチン北西部でロペスに共感したカウディージョ、フェリペ・バレーラが反乱を起こすと、その鎮圧のためにアルゼンチン軍が離脱し、同国でバルトロメ・ミトレが大統領を辞任したことによって、付き合いで参戦していたウルグアイ軍が離脱するという事態も起きたが、ブラジル軍は追撃を重ね、1870年3月、パラグアイ人の一団を率いて敗走中のロペス大統領は戦死し、パラグアイの敗北を持ってこの戦争は終結した。パラグアイはブラジルとアルゼンチンに国土の4分の1にあたる14万km² を割譲し、開戦前の52万人の人口は21万人にまで減少した。成人男性に至っては3分の2以上(9割とも言われる)を失った。さらに敗戦と共にイギリスから借款が押し付けられ、パラグアイが誇った公有地を中心とした土地制度はアルゼンチン人などによって買い取られ、この国でも他のラテンアメリカ諸国と同じように大土地所有制が確立した。こうしてパラグアイは国民のみならず、国土、関税率、工場、経済的独立の全てを失い、これ以後50年に渡り国勢は停滞し、現在に至るまで傷跡は残っている。
停滞とチャコ戦争
アルゼンチンとブラジル、特に経済的には前者の、政治的には後者の衛星国として再スタートしたパラグアイだったが、戦争の代償はあまりにも大きかった。1879年にはアルゼンチン軍が撤退し、1880年代には自由党とコロラド党が設立されたが、不正選挙が横行し民主主義からは程遠い状態にあった。軍事独裁政権の下で人口を補うために移民が導入され、スイス、ドイツ、イタリアなどから農業移民がやってきたが、その数は周辺国と比べると遥かに少なかった。その後20世紀に入ると、自由党政権の下で多少なりとも改革が行われたが、政情は未だに不安定なまま、次第にグラン・チャコを巡るボリビアとの対立は大きくなっていった。
1932年、グラン・チャコ地方を巡ってボリビアがパラグアイに宣戦布告し、チャコ戦争が始まった。パラグアイ軍は貧弱な装備ながらも辛うじてこの戦いに勝利し、1938年のブエノスイアレス講和条約では植民地時代からチャルカスとアスンシオンの間で争われていた広大なグラン・チャコ地方の領有権を獲得したが、この戦争による経済的な打撃と4万人にも及ぶ死者は社会を疲弊させ、その後社会改革を求めて社会主義や国家社会主義を掲げた軍人が政治を動かしていくことになった。また、こうして生まれた政権はナショナリズムを称揚し、1936年にパラグアイ共産党などと結んで大統領になっていたチャコ戦争の英雄ラファエル・フランコ大佐によってフランシスコ・ソラーノ・ロペスの完全な名誉回復がなされた。しかし、フランコの急進的過ぎる改革は寡頭支配層に嫌われ、1937年には一年足らずで追放された。
1947年の内戦
フランコの後はチャコ戦争の英雄エスティガリビア将軍が後を継ぎ、1940年にエスティガリビアが事故死するとイヒニオ・モリニゴ将軍は第二次世界大戦を連合国側で参戦して乗り切ったが、民主化の要求のために部分的に民主主義的な改革を余儀なくされた。しかし、こうした政策は二月党とコロラド党の対立を招き、遂には1947年に内戦に至って結局軍は内戦に勝利したものの(パラグアイ内戦)、20万人以上のパラグアイ人が国外に亡命することになった。その後大統領になったフェデリコ・チャベスが政権を握り混乱を収めたが、フアン・ペロンの影響を受けた経済政策への批判に対応を誤り、軍部からのクーデターでチャベスは追放された。
ストロエスネル時代
1954年にブラジル軍の後押しを受けたクーデターによりチャベスは追放され、アルフレド・ストロエスネル政権が誕生し、以後30年以上親ブラジル的独裁政権が続いた。軍とコロラド党を掌握して長期政権を可能にしたストロエスネルは、治安を回復し、経済も成長したものの、一方で少数民族となっていたインディヘナの虐殺、反政府運動の弾圧などを重ね、一時はアメリカ合衆国からも経済制裁を受けた。ストロエスネルの時代に独裁体制は完成したが、1989年2月、突如としてストロエスネルの腹心だったロドリゲス将軍が決起し、チリ以外の周辺国の民政移管が完了した後も権力を握っていたストロエスネルが市街戦を終えた後失脚し、ブラジルに追放された。こうして35年に及んだ、ラテンアメリカでも稀に見る長期独裁は終わった。
民政移管以降
ロドリゲス将軍が臨時大統領になると、ロドリゲス将軍はそれまでの路線を改めて民主化政策をとった。こうして1993年5月にはフアン・カルロス・ワスモシ (Juan Carlos Wasmosy) が大統領就任。パラグアイに39年ぶりに文民大統領が誕生したが、パラグアイの民主主義は前途多難であった。
1996年4月、軍の政治力を削ぐために、大統領は軍の実力者で軍部の政治介入を公言して憚らないリノ・オビエド(Lino Oviedo) を解任し、6月にはオビエドが逮捕されたが、1998年8月にはオビエド派であるラウル・クーバス (Raul Cubas) 大統領が就任し、同月大統領権限でオビエドを釈放した。
釈放されたオビエドは暗躍を重ね、1999年3月、ルイス・マリア・アルガーニャ (Luis Maria Argaña) 副大統領がオビエド派によって暗殺されたとみられる事件が発生し、オビエドとクーバス大統領が亡命した。この後を受けて同月、ルイス・ゴンサレス・マキ (Luis Gonzalez Macchi) 大統領が就任するも、2000年5月にはまたもクーデター未遂事件が発生した。その後2003年4月にニカノル・ドゥアルテ・フルートス (Nicanor Duarte Frutos) 大統領が就任した。
2008年4月に大統領選挙が行われ、野党連合「変革のための愛国同盟」(APC)の進歩派フェルナンド・ルゴが、与党コロラド党のブランカ・オラベル、元陸軍司令官リノ・オビエドを破り、当選した。開票率92%の段階で、ルゴ40.83%、オベラル30.71%、オビエド21.98%。ルゴの選挙母体APCは、中道右派の自民党と左派連合が同盟を結んでいる。1947年から軍政時代も含めて61年間続いたコロラド党の支配は終わった。
政治
詳細は「パラグアイの政治」を参照
国家元首である大統領は、行政府の長として実権を有する。任期は5年で再選禁止。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や罷免により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、大統領が閣議を主宰する。
議会は、両院制。上院は全45議席を全国区で選出、代議院(下院)は全80議席を県単位の18選挙区に分けて選出する。両院とも議員の任期は5年で、大統領選挙と同日選挙される。前回投票は、2003年4月27日に行われ、政党別の獲得議席数は、以下の通り。
- 上院
- 代議院(下院)
- 国民共和協会(通称、コロラド党) 37
- 真正急進自由党 (PLRA) 21
- Movimiento Union Nacional de Colorados Eticos (UNACE) 10
- Movimiento Patria Querida (MPQ) 10
- Partido Pais Solidario (PPS) 2
伝統的に、パラグアイの国政史上殆ど期間が、かつてシモン・ボリーバルが語ったように独裁か無政府状態のどちらかの状態であったが、ストロエスネルの失脚以降は多少風向きも変わってきているようである。しかし、それでも依然として軍の政治力は強く、問題になっている。
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- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 外務省:パラグアイ共和国
- ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/pa.html 2009年3月30日閲覧
固有名詞の分類
「パラグアイ」の用例一覧
在外選挙人名簿の登録申請に関する領事官の管轄区域を定める省令 (e-Gov)
ルゼンチン日本国大使 アルゼンチン共和国(在パラグアイ日本国大使の管轄区域を除く。) 在アンティグア・バーブーダ日本国大使 アンティグア・バーブーダ 在ウルグアイ日本国大使 ウルグアイ東方共和国 在エクアドル日本国大使 エク...
law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11F03302002001.html
在外公館に勤務する外務公務員の休暇帰国に関する省令 (e-Gov)
トオブスペイン(トリニダード・トバゴ) マナグア(ニカラグア) ポルトープランス(ハイチ) パナマ(パナマ) アスンシオン(パラグアイ) ブラジリア(ブラジル) クリチバ(ブラジル) サンパウロ(ブラ...
law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29F03301000003.html
万国著作権条約 (Wikisource)
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パラグアイに関連した本
- パラグアイにかけた夢―豊歳直之・わが人生 豊歳 直之 かまくら春秋社
- パラグアイを知るための50章 (エリアスタディーズ86) (エリア・スタディーズ) 武田 和久編著 明石書店
- パラグアイのサバイバル・ゲーム―“南米のへそ”世界一親日国の秘話 船越 博 創土社
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