アルヘンティーナとは?

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アルヘンティーナ [La Argentina]

(1890頃-1936) スペイン舞踊家民族舞踊芸術昇華させスペイン舞踊復興をもたらした。主にスペイン近代音楽踊り、「カスタネット女王」と呼ばれた。


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アルゼンチン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/11 00:05 UTC 版)

(アルヘンティーナ から転送)

アルゼンチン共和国[1](アルゼンチンきょうわこく、スペイン語: República Argentina)、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。西と南にチリ、北にボリビアパラグアイ、北東にブラジルウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス2009年GDPは約3100億ドル(約27兆円)であり[2]神奈川県よりやや小さい経済規模である[3]

チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張しており、またチリ、イギリスと同様にアルゼンチン領南極として知られる南極の1,000,000 km²の領有権も主張している。

目次

国名

Argentinaの語の初出とされる1602年の書物。

正式名称は、República Argentinaスペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称、Argentinaアルヘンティーナ)。e で終わる形の英単語 Argentine(アージェンタイン)は形容詞であり、名詞としては英語でも Argentina(アージェンティーナ)であることに要注意。

日本語の表記はアルゼンチン共和国。通称アルゼンチン。他にアルゼンティンとも表記され、漢字で亜尓然丁亜爾然丁阿根廷のように表記される。近年では、原語にしたがってアルヘンティーナと表記されることも少なくない。

独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)と呼ばれていた。 リオ・デ・ラ・プラタ(Río de la Plata)=ラ・プラタ川は、スペイン語で「銀の川」を意味し、1516年、フアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人の一行がこの地を踏んだときに、銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈」(Sierra del Plata)があると信じたことから名づけたとされる。

アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「」を意味する Argentum に拠って、地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。スペイン語の「ラ・プラタ」からラテン語由来の名へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵掠を契機として、フランス風の呼称であるアルジャンティーヌ(Argentine)に倣ったものでもあるという。

1602年にはマルティン・デ・バルコ・センテネラの叙事詩『アルゼンチンとラ・プラタ河の征服』(La Argentina y conquista del Río de la Plata)にこの語が現れている。公式に国名をアルヘンティーナ(アルゼンチン)としたのは1825年のことであった。とはいえ現在でも、憲法により、「リオ・デ・ラ・プラタ連合州」(Provincias Unidas del Río de la Plata)や「アルゼンチン連合」(Confederación Argentina)などの歴史的国名は、「アルゼンチン共和国」(República Argentina)とともに、同国の正式名称として位置づけられている。

歴史

先コロンビア期

アイマラ人が15世紀に築いた、アルゼンチン北西部ティルカラにあるティルカラのプカラ(石壁)。フフイ州

アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。彼らは現在パタゴニアに残る「手の洞窟」を描いた人々であった。

その後15世紀後半に現ペルークスコを中心に発展したケチュア人の国家、タワンティンスーユ(インカ帝国)の皇帝トゥパック・インカ・ユパンキワイナ・カパックの征服によって北西部のアンデス山脈地域はタワンティンスーユに編入され、征服された地域はタワンティンスーユ内の四州の内の一州、コジャスーユの辺境の地となり、30万人ほどのケチュア人やアイマラ人が住むようになった。アルゼンチンにおけるコジャスーユの領域は北は現在のフフイ州から南はメンドーサ州、東はサンティアゴ・デル・エステロ州の北部にまで広がっていた。その一方でインカ帝国の権威が及ばなかったチャコパンパパタゴニアには、チャルーア人のような狩猟インディヘナが主に居住しており、パンパやチャコにもグアラニー人のような粗放な農耕を営むインディヘナがいたが、全般的にこの地域に住む人間の数は少なかった。

16世紀に入ると、1516年スペイン探検家フアン・ディアス・デ・ソリスが最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れたが、すぐに先住民と諍いを起こし、まもなく殺害された。

スペイン植民地時代

その後もスペインによってこの地域の植民地化は進められた。1536年にラ・プラタ川の上流にあると思われた「銀の山」を攻めるために、バスク人貴族のペドロ・デ・メンドーサ率いる植民団によって、ラ・プラタ川の河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが、まもなくインディヘナの激しい攻撃に遭って放棄され、以後200年ほどラ・プラタ地域の中心は、1559年にアウディエンシアの設置されたパラグアイアスンシオンとなった。

植民地政策の伸展に伴ってペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、ペルー方面からアンデス地域を軸に開拓が進み、1553年には現存するアルゼンチン最古の都市サンティアゴ・デル・エステロが建設された。アスンシオンからの内陸部開発も盛んになり、1580年には放棄されたブエノスアイレスが再建されたが、それでもこの地域はベネズエラなどと並んでイスパノアメリカでは最も開発の遅れた地域だった。また、1541年に放された12頭の馬がパンパの牧草を食べて自然に大繁殖したこととも併せ、いつしかガウチョが現れるようになっていった。こうして繁殖した牛は19世紀の始めにはラ・プラタ地域全体で2000万頭ほどいたといわれている(ちなみにこの頃の人口はアルゼンチン・ウルグアイ・パラグアイを併せても100万人を越えないほどだった)。植民地政策の経過により、当初は大西洋岸よりも内陸部の発展が早かった。1613年には内陸のコルドバコルドバ大学が建設され、以降19世紀までコルドバは南米南部の学問の中心となった。18世紀にはグアラニー戦争等に代表されるように、ブラジル方面から攻撃を続けるポルトガルとの小競り合いが続き、スペイン当局がバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)を防衛するためもあって、1776年にペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、ブエノスアイレスは副王領の首府となって正式に開港され、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との密貿易により空前の繁栄を遂げた。しかし、この時点においてアルゼンチンの産業の中心は北西部のトゥクマンや中央部のコルドバであり、リトラル地域やブエノスアイレスには見るべき工業はなかった。このブエノスアイレス港の正式開港は、後に植民地時代に繁栄していた内陸部諸州に恐ろしい打撃をもたらすことになった。

独立戦争と内戦

五月革命の実行者の一人となったブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノアルゼンチンの国旗の制定者でもある。

1806年、1807年の二度に渡るイギリス軍の侵略を打ち破った後、スペインからの解放と自由貿易を求めたポルテーニョは1810年5月25日五月革命を起こし、ブエノスアイレスは自治を宣言したが、ラ・プラタ副王領のパラグアイバンダ・オリエンタルアルト・ペルーコルドバはブエノスアイレス主導の自治に賛成しなかった。このためブエノスアイレス政府は各地に軍を送り、コルドバを併合することには成功したが、1811年のマヌエル・ベルグラーノ将軍のパラグアイ攻略は失敗した。1813年のサンロレンソの戦いにも勝利するとスペイン王党派軍との戦いが本格化するが、しかし王党派の支配していたアルト・ペルー攻略は失敗した。

スペイン語ケチュア語で書かれた南アメリカ連合州の独立宣言。

独立戦争が難航する中、1816年7月9日にはトゥクマンの議会で正式に独立を宣言したが、まだこの時点では独立の方向も定まっておらず、インカ皇帝を復活させて立憲君主制を導入しようとしていたベルグラーノ将軍のような人物から、ホセ・ヘルバシオ・アルティーガスのようにアメリカ合衆国のような連邦共和制を求める勢力もあり、ブエノスアイレスは自由貿易、貿易独占を求めるなど、独立諸派の意見は全く一致しなかった。ベルグラーノ将軍が三度目のアルト・ペルー攻撃に失敗し、北部軍司令官を辞任すると、後を継いだアンデス軍司令官のホセ・デ・サン=マルティン将軍がアンデスを越えて王党派の牙城リマを攻略するために遠征を重ね、王党派軍を破ってチリペルーを解放していったが、本国ではブエノスアイレスの貿易独占に反対する東方州リトラル三州のアルティーガス派(連邦同盟)とブエノスアイレス(トゥクマン議会派)の対立が激しさを増し、内戦が続いた。内戦の末、1821年にプエイレドンが失脚すると中央政府は崩壊したが、中央政府が存在しないことは外交上不利であったため、各州の妥協により1825年にブエノスアイレス州が連合州の外交権を持つことを認められた。

その後、ブエノスイアレスと敵対していた東方州がポルトガル・ブラジル連合王国に併合されたことをブエノスアイレスが見過ごしたことへの批判が強まり、33人の東方人を率いて独立運動を開始したフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍のバンダ・オリエンタル潜入から、かの地を巡って1825年ブラジル帝国との間にブラジル戦争が始まった。この戦争に際して挙国一致が図られ、ベルナルディーノ・リバダビアを首班とした中央政府が一時的に成立し、この時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名したが、戦争の最中に制定された中央集権憲法と、ブエノスアイレスを正式に首都と定める首都令が国内の全ての層の反発を受けると、リバダビアは失脚し再び中央政府は消滅した。戦局はアルゼンチン有利に進んだが内政の混乱が災いしたため、最終的にはイギリスの介入によってバンダ・オリエンタルを独立国とするモンテビデオ条約が結ばれ、1828年ウルグアイ東方共和国が独立した。そしてこの地を以後再びアルゼンチンが奪回することはなかった。

ロサス時代

ブエノスアイレス州知事にして「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス。批判されることが多いが、パンパを代表とするアルゼンチンのもう一つの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた。
ロサス時代の国旗。

ブラジルに対しての実質的な敗戦の影響もあって連邦派と統一派の戦いは激しさを増したが、1829年に統一派のブエノスアイレス州知事フアン・ラバージェを打倒した連邦派のフアン・マヌエル・デ・ロサスが州知事になると、ロサスはリトラル三州のカウディージョと同盟を結んで1831年11月に中央集権同盟を破り、ほぼ全アルゼンチンの指導者となった。この時期には中央政府こそ作られなかったもののアルゼンチン連合が成立し、以降内戦はしばらくの小康状態に入った。ロサスは1832年に州知事を辞すると、「荒野の征服作戦」で敵対していたパンパのインディヘナを今日のブエノスアイレス州の領域から追い出して征服した土地を部下に分け与え、大土地所有制を強化した。

1835年にラ・リオハ州を中心とした内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再びアルゼンチン全土に内戦の危機が訪れた。この際のロサスの妻のドーニャ・エンカルナシオンのクーデターもあり、最終的にはブエノスアイレス州議会に請われてロサスは1835年に再びブエノスアイレス州知事に返り咲いた。以降のロサスの政治は恐怖政治であり、統一派だと見られた多くの自由主義者や知識人が弾圧、追放され、25,000人にも及ぶ市民が粛清されたが、その一方でロサスはパンパの伝統を守り、自由主義者によって弾圧されていた黒人ガウチョを保護するなどの面もあった。こうした政策でブエノスアイレス州の農民や都市下層民をはじめとする、上流階級以外の各層から支持を得て独裁制は成り立っていた。外交面では国粋主義と大アルゼンチン主義を貫き、移民を禁止するなどの政策をとったロサスは、1833年マルビーナス諸島を売るように要求したイギリス商人の申し出を断ったため、イギリスに島を占領されてしまったものの、ラ・プラタ地域に野心を持っていたイギリスフランスとのウルグアイを巡っての大戦争や、それに続くラ・プラタ川の封鎖、さらにはパタゴニアを植民地化するとのフランスから恫喝、1845年から1846年の戦争となって顕在化したカウディージョの支配するパラグアイとの対立、これらの相次ぐ国難全てからロサスはアルゼンチンを守り抜いた。しかし戦争によって貿易が封鎖され、疲弊したリトラル諸州の怒りは激しく、まもなくブラジル帝国と同盟した腹心のフスト・ホセ・デ・ウルキーサがエントレ・リオス州から反乱を起こすと、1852年にロサスはカセーロスの戦いでロサスは敗れ、失脚した。

国家統一と西欧化

最も代表的な自由主義(欧化主義)者ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント1868年から1874年まで大統領を務めた。
『我が子の遺体を看取るパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・グアルメンディア画。

カセーロスの戦い以後のアルゼンチンは、当時の自由主義知識人の意向により西欧化が進み、土着のスペイン的な伝統や、ガウチョや黒人やインディヘナは近代化の障害として大弾圧された。ウルキーサが設立したアルゼンチン連合の1853年憲法は、事実上の起草者だったアルベルディの意向を反映して極めて自由主義的な憲法であった。ウルキーサがこの自由主義貿易によって自由貿易を導入すると、安い外国製品との競争に耐えられなかった国内産業はほとんど壊滅してしまった。

その後もブエノスアイレスとブエノスアイレス以外の諸州の内戦が続いたが、1861年にブエノスアイレス州がウルキーサを破り、アルゼンチン連合を併合して国家統一が達成された。このため、勝利した元ブエノスアイレス州知事ミトレら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定した。ミトレは周辺国への干渉と中央集権政策を進め、亜伯二大国によるウルグアイへの内政干渉をきっかけにして1864年から始まったパラグアイとの三国同盟戦争を境に、土着勢力の抵抗も整備された連邦軍の軍事力の前に徐々に終わりを迎えて1880年には完全に鎮圧され、国家の近代化、中央集権化が進んだ。この時期に極端な集権化に抵抗した勢力には三国同盟戦争への反対を訴え、ラテンアメリカの連合を求めたフェリペ・バレーラなどが存在する。1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだが、反面土着文化の攻撃は激しさを増し、この時期に多くの黒人が出国してモンテビデオに向かうことになる。一方パンパでは未だに敵対的インディヘナとの対立が続いていたが、1878年にロカ将軍の指揮した砂漠の征服作戦によってパンパからインディヘナが追いやられると、征服された土地は軍人や寡頭支配層の間で再分配され、より一層の大土地所有制拡大が進んだ。

繁栄と民主主義の時代

民主化に努めた急進党のイポリト・イリゴージェン(1916年 - 1922年と1928年 - 1930年に大統領を務めた)。

1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、首都問題が最終的に解決すると、このことが内政の安定につながり、外国資本と移民の流入が一気に加速した。これにより、イギリスの「非公式帝国」の一部として経済の従属化は進んだが、一方で農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだ。こうしてヨーロッパからの大量の移民が「洪水」のようにブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的で「偉大な田舎」に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙にコスモポリタンな大都市の「南米のパリ」に転身し、1914年には実に国民の約30%が外国出身者となるほどであった。同時にこの頃から、移民の流入や都市化以前のアルゼンチンを懐かしむ風潮が生まれ、1874年にはアルゼンチンの国民文学であるガウチョの叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成した。

また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強くなり、1890年の反政府反乱をきっかけに1891年には急進的人民同盟が組織され、これは後の急進市民同盟(急進党)へと発展して行った。急進党は1905年の武装蜂起に失敗したが、この反乱を恐れた保守派のロケ・サエンス・ペーニャ大統領は以降行政による選挙干渉を辞めることを提案し、司法が行政に優越する新選挙法を成立させた。この選挙法が適用された1916年の選挙では急進党からイポリト・イリゴージェン大統領が選出され、寡頭支配が切り崩された。国民主義的な政策を以て政治に望んだイリゴージェンは、第一次世界大戦を中立国として過ごした。民主化の進展によって戦間期には政治も経済も安定に入り、イリゴージェンは1928年に再選され、アルゼンチンは1929年には世界第五位の富裕国となった[4]

混乱と暴力の時代

しかし、1929年の世界恐慌はアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治は急速に不安定化した。世界恐慌に対する対策を持たなかったイリゴージェンは翌1930年に軍事クーデターで追放された。

クーデターによって1930年に大統領に就任したウリブルはアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、この試みは失敗した。ファシズム体制の失敗もあって1932年にフストが大統領に就任すると、伝統的な寡頭支配層の政治が復活した。国際協調を旨としたフスト政権は1933年にイギリスとのロカ=ランシマン協定で、アルゼンチンをイギリスのスターリング・ブロックに組み込んでもらうことに成功したが、見返りに多くの譲歩を強いられてアメリカ市場も失ってしまい、アルゼンチンはまるでイギリスの属国の様相を呈するようになった。1930年代には19世紀の不正選挙の伝統も復活し、1930年代は「忌まわしき10年間」と形容された。このような潮流から次第に国民主義的な意識が国民の間に高まり、第二次世界大戦の最中にイギリスと戦う枢軸国への好意的な中立を標榜した統一将校団(GOU)のフアン・ペロン大佐は徐々に人気を集め、ペロンは戦後1946年の選挙で大統領に就任した。

フアン・ペロン。彼は生涯に三回大統領を務めた(1946年-1952年、1952年-1955年と1973年-1974年)。

大統領に就任したフアン・ペロンは、第二次世界大戦で得た莫大な外貨を梃子に工業化、鉄道などの国有化、労働者保護などの経済的積極国家政策を推し進めた。こうしたポプリスモ的な政策は当初成功したが、すぐに外資を使い果たしてしまい、さらにデスカミサードス[5]から聖母のように崇められていた妻エバ・ペロン(エビータ)が死ぬと政策は傾きだしていった。それまでもラ・プラタ市をエバ・ペロン市に改名するなどの個人崇拝を強要するような行為は批判を浴びていたが、1954年に離婚法を制定したことからカトリック教会との関係も破綻し、支持基盤の労働者からの失望が広まったこともあり、1955年の軍部保守派によるクーデターでペロンは亡命した。

フアン・ペロンの失脚後、重工業化とモノカルチャー経済の産業構造転換に失敗したアルゼンチンの経済は下降期に入り、政治的にもペロニスタ(ペロン主義者)と軍部の対立が国家の混乱に拍車をかけた。1962年には急進党のフロンディシ大統領が軍部のクーデターで失脚させられ、軍部が実権を握ったが、この時の軍事政権は長続きしなかった。しかし、民政移管した急進党のイリア大統領を追放した1966年のクーデターは様子が異なり、フアン・カルロス・オンガニーア将軍はブラジル型の官僚主義的権威主義体制をアルゼンチンにも導入した。軍事政権はは外資導入を基盤に衰退する経済を成長させようとしたが、軍事政権の厳しい統制に反対するペロニスタと軍部の戦いは激しさを増し、ペロニスタから生まれたモントネーロスやペロニスタ武装軍団をはじめとする都市ゲリラと軍部との抗争で多くの犠牲者が出るなど、さながら内戦の様相を呈していった。しかし、1969年にコルドバで起きたコルドバ暴動(コルドバソ)を受けると軍事政権は穏健政策に転じ、テロの応酬を収めるためにペロニスタを議会に戻すことを決断した軍部は自由選挙を行った。1973年のこの選挙では正義党(ペロン党)が勝利し、亡命先からフアン・ペロンが帰国して三度大統領に就任した。しかし、ペロンは翌1974年に病死し、1974年に副大統領から世界初の女性大統領に昇格した妻のイサベル・ペロンは困難な政局を乗り切れないまま拙劣な政策を積み重ね、治安、経済共に悪化の一途を辿った。1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターを起こし、再び官僚主義的権威主義体制がアルゼンチンに生まれた。

汚い戦争」によって「行方不明」になった人々。

ビデラ政権は1966年の軍事政権よりもさらに強い抑圧、弾圧を進め、周辺の軍事政権と協調した「汚い戦争」、コンドル作戦によりペロニスタ左翼を大弾圧したことで治安回復には成功したものの、ブラジル風に外資を導入して経済全体を拡大しようとした経済政策には大失敗し、天文学的なインフレを招いた。軍事政権は行き詰まり、1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが1833年以来実効支配を続けているマルビーナス諸島(英:フォークランド諸島)を奪還しようと軍を派遣して占領したが、当初上手くいくと思われたこの行動はサッチャー首相の決断によりマルビーナス戦争に発展し、イギリスの反撃に遭い失敗した。建国以来初めての敗戦により高まる国民の不満を受けたガルティエリ大統領は失脚し、軍事政権は崩壊した。しかし、この戦争はアルゼンチンと他のラテンアメリカ諸国との絆を強め、ラテンアメリカの一員としてのアルゼンチンのアイデンティティのあり方に影響をも与えた。

民政移管から現在のアルゼンチン

民政移管後初の大統領ラウル・アルフォンシン

1983年に大統領選挙と議員選挙が行われ、急進党が久々に政権に返り咲いた。大統領に就任したラウル・アルフォンシンは、軍政期からのインフレや対外債務問題、マルビーナス戦争による国際的孤立などの厳しい政局の中、アウストラル計画に失敗し、経済面では成功を収めることが出来なかったものの、長年敵対関係が続いていたチリやブラジルとの関係を大幅に改善し、この融和路線は後のメルコスール形成に繋がった。また、アルフォンシンは軍政時代に人権侵害(投獄、拷問など)を行った軍人を裁き、軍の予算や人員、政治力を削減した。こうした政策に対して三度に渡る軍部の反乱もあったもの、アルフォンシンは結果として軍部を文民の統制下に置くことに成功した。アルフォンシンは任期を5ヶ月残して1989年に辞任した。

デモに参加する人々(2001年)。

1989年に就任した正義党(ペロン党)のカルロス・メネムは、1990年の湾岸戦争に南アメリカで唯一軍を派遣し、1991年には非同盟諸国首脳会議から脱退するなど先進国との国際協調路線を標榜し、孤立していたアルゼンチンを国際社会に復帰させた。軍事面でもメネム時代には「汚い戦争」に携わった軍人の恩赦が認められた一方で、核軍縮や徴兵制の廃止など、軍部の権力の制限が更に進んだ。一方経済面では当初公約で掲げていたペロニスモ路線(社会民主主義)とは180度異なる新自由主義政策を取った。社会インフラ年金をも民営化した新自由主義政策は成功したかに見え、メネム特有のネオ・ポプリスモ政策と対ドルペッグ固定相場政策で長年の懸念だったインフレを抑制し、アルゼンチン経済を持ち直したかに見えたが、1997年頃にはこの政策の無理が徐々に明らかになっていった。1999年の大統領選挙では急進党のフェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利したが、既に経済は危険な水準に達しており、IMFからの援助や公務員給与の削減なども効果は無く、最終的にはドルペッグ制の破綻をきっかけに2001年にデ・ラ・ルアはデフォールトを決行した。

経済の崩壊後、アルゼンチンの国際的な評価は地に落ちた。政治面では大統領が次々と入れ替わる大混乱に陥り、社会的にもデモや暴動が多発する異常事態に陥った。しかし、2003年に正義党左派から就任したネストル・キルチネルの下で政治は安定を取り戻し、それまでの新自由主義、市場原理主義と決別。富裕層優遇を止め、国民の大多数を占めている貧困層を減らし中間層へと移行させるなどより公正な社会を目指す政策を実行した。経済的な再建も進んだ。

2007年10月、正義党から、キルチネルの妻のクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが同国史上初の「選挙による」女性大統領に就任した。就任演説で「雇用と工業、輸出、農業を基礎とする新しい多様化した経済基盤」を構築すると述べた。2007年の経済成長率は8%を記録し、近年のアルゼンチンは予断をゆるさないものの、リーマンショック以降の世界的不況とは裏腹に好調を維持している。




アルゼンチン共和国
República Argentina
アルゼンチンの国旗 アルゼンチンの国章
国旗 国章
国の標語: En Unión y Libertad
(スペイン語: 統一と自由において)
国歌: アルゼンチンの国歌
アルゼンチンの位置
公用語 カスティーシャ語[1]
首都 ブエノスアイレス
最大の都市 ブエノスアイレス
政府
大統領 クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル
首相 なし
面積
総計 2,766,890km28位
水面積率 1.1%
人口
総計(2008年 40,276,000人(32位
人口密度 14人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 1兆0,381億[2]アルゼンチン・ペソ($)
GDPMER
合計(2008年 3,264億[2]ドル(36位
GDPPPP
合計(2008年 5,728億[2]ドル(20位
1人あたり 14,413[2]ドル
独立
 - 第一議会
 - 独立宣言
スペインより
1810年5月25日
1816年7月9日[3]
通貨 アルゼンチン・ペソ($)(ARS
時間帯 UTC -3(DST: -3)
ISO 3166-1 AR / ARG
ccTLD .ar
国際電話番号 54
  1. ^ アルゼンチンのスペイン語はEspañol(エスパニョール)ではなく、Castellano(カスティシャーノ)と呼ばれる。コリエンテス州のみグアラニー語もまた公用語となっている。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  3. ^ 連邦同盟1815年6月29日に独立を宣言した。

アルゼンチン政府は南極の1,000,000 km²およびマルビーナス諸島の領有を主張している。

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  1. ^ 現行憲法第35条によると、リオ・デ・ラ・プラタ連合州アルゼンチン連合といった歴史的な国名もまた正式な国名とされている。
  2. ^ IMF
  3. ^ 国民経済計算
  4. ^ 増田義郎『略奪の海 カリブ』岩波文庫(岩波新書新赤版75)、1989年6月 p.214
  5. ^ 貧民を指す。直訳すれば「シャツ無し」だが、ここでは「上着無し」の意
  6. ^ IMF
  7. ^ 国民経済計算
  8. ^ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.202
  9. ^ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.199
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  23. ^ 国本伊代「近代ヨーロッパ移民とラテンアメリカ」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子 :編、新評論、1995年10月
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  25. ^ 奥山恭子「家族と国家-法制度からみたラテンアメリカの家族」『ラテンアメリカ家族と社会』(新評論、1992年)
  26. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ar.html 2009年3月30日閲覧
  27. ^ 『アルゼンチン、全面的危機に突入』ル・モンド・ディプロマティーク日本語版2002年1月号 カルロス・ガベッタ(Carlos Gabetta) ル・モンド・ディプロマティーク南米南部版編集長/北浦春香訳 2009年3月30日閲覧
  28. ^ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 pp.158-164
  29. ^ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 pp.165-170
  30. ^ Radio With a Past in Argentina Don Moore
  31. ^ Homes with Cable TV in Latin America Trends in Latin American networking







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