キューバとは?

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キューバ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/14 15:28 UTC 版)

キューバ共和国
República de Cuba
キューバの国旗 キューバの国章
国旗 国章
国の標語: Patria y Libertad
(スペイン語: 祖国と自由)
国歌: バヤモの歌
キューバの位置
公用語 スペイン語
首都 ハバナ
最大の都市 ハバナ
政府
国家評議会議長 ラウル・カストロ
閣僚評議会議長 国家評議会議長が兼務
面積
総計 110,860km2103位
水面積率 極僅か
人口
総計(2009年 11,239,363人(75位
人口密度 102人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年 xxx,xxxキューバ・ペソ

兌換ペソ

GDPMER
合計(2008年 551億[1]ドル(69位
GDPPPP
合計(2008年 1,082億[1]ドル(62位
1人あたり 9,500[1]ドル
独立
 - 日付
アメリカ軍軍政より
1902年
通貨 キューバ・ペソ

兌換ペソCUC

時間帯 UTC -5(DST: なし)
ISO 3166-1 CU / CUB
ccTLD .cu
国際電話番号 53

キューバ共和国(キューバきょうわこく、República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海大アンティル諸島に位置するラテンアメリカ共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島ハイチドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島ジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国フロリダ州が存在する。首都はハバナ

フィリピンルソン島ほどの面積を持つ島国である。地理的には北アメリカに含まれるが、広義の中央アメリカにも含まれる。「アメリカ合衆国の裏庭」と俗に呼ばれたりするが、裏庭どころではなく、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパラテンアメリカを結ぶ要路に位置している。また、アメリカ大陸で初めて成立した社会主義政権にちなんで、「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。

目次

国名

正式名称はスペイン語República de Cuba。通称、Cuba(クーバ)

公式の英語表記は、Republic of Cuba。通称、Cuba(キューバ)

日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ(玖瑪、玖馬、久場、古巴)。スペイン語で Cubaクーバと発音するので、クーバと呼ぶ人もいる。

国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオタイノ族)の言葉であるクバナカンCubanacan、現在のオルギン)が由来であるとされている。

歴史

先コロンブス期

ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。

スペイン植民地時代

1591年のキューバとフロリダ半島の地図。

1492年10月27日、キューバ島はクリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンによって「インディオ」(インド人)と呼ばれ、インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。

スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペイン中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、メキシコ市リマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市として発展したハバナには大学要塞が建設された。

19世紀初め、シモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピンプエルトリコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。

また隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、酷い混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。

その後サン・ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルドミニカ共和国にもあった)。

独立戦争(1868年 - 1902年)

「青銅の巨人」アントニオ・マセオ将軍。マセオ将軍はムラートだったが、巧みな戦術により白人も含めた多くのキューバ人の指導者となった。
19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ
キューバ独立の父ホセ・マルティ

最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・セステベスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ十年余りに渡って続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。 しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。

1892年ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティ自身は同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして1898年スペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。

旧共和政時代(1902年 - 1959年)

1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピングアムプエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。

1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。

「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。

不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。

独裁者バティスタ大統領(1952年)。

1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。

1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、フィデル・カストロらの政治犯に恩赦を与えた。フィデル・カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。

メキシコ亡命後、フィデル・カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師エルネスト・“チェ”・ゲバラ (Ernesto "Che" Guevara)と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でフィデル・カストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。

キューバ革命(1959年 - 現在)

マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラカミーロ・シエンフエゴス

革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにフィデル・カストロが首相に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。

バティスタ傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソビエト連邦に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。

1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは1959年の革命の社会主義化宣言を発し、本格的にソ連や東側諸国との結びつきを強めるようになった。

ボリビアに於けるチェ・ゲバラ(1967年)

1962年2月3日にアメリカのジョン・F・ケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジアアフリカラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣してベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニアベン・ベラ政権のアルジェリアなどと関係を深め、コンゴ民主共和国ボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、チェ・ゲバラ=フィデル・カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わった。ゲバラの死後のラテンアメリカ諸国の社会主義運動は、1970年のチリに於けるサルバドール・アジェンデ政権成立のように平和革命路線に移行し、キューバもそれまでの強硬路線に代えてこのような平和的変革を支持した。

1970年代に入り、チリ・クーデターを境にラテンアメリカの平和革命路線も失敗に終わってからは、国内の社会主義建設を制度化するために1976年憲法が制定され、社会主義化が法制化された。内政面では医療や教育に重点を置いた国造りが、文化面では映画や美術やアフリカ系文化の復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に軍隊を派遣した。特に南部アフリカのアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、内戦に介入した南アフリカアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には52,000人の兵力を派遣した。

1980年代に入り、エチオピアでのオガデン戦争とアンゴラ内戦は共に膠着状態に陥り、キューバの負担も増加した。そのためまずはエチオピアから撤退し、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いの後、アンゴラからも名誉ある撤退を求めて南アフリカとの間にアメリカ合衆国が提唱していたリンケージ政策を受け入れ、当時南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えに撤退した。

冷戦終結以降(1991年 - 現在)

冷戦が終結し、1991年にソビエト連邦が崩壊すると、それまでキューバ産砂糖とソ連製の石油をバーターで取引してきたキューバの経済構造の基盤は大打撃を受け、経済はかつてない規模の衰退に陥った。経済崩壊状態に陥ったキューバから脱出すべくイカダ(バルサ)でアメリカ合衆国のフロリダ州を目指して亡命を図るバルセーロスと呼ばれる人々が増加し、亡命を希望しなかった人々の間でも1993年に米ドルの所持が解禁されたため、米ドルを持てるものと持たざる者の間に微妙な差異が生まれ、それまでの平等主義体制に亀裂が入った。深刻な経済衰退を受けて政府は私的所有や、国営企業の民営化などの経済競争の面での自由化を部分的に採り入れ、観光業の振興を軸に経済の再生を測った。このような政策は功を奏してフィデル・カストロ政権は1990年代の最も困難な時期を乗り切り、キューバ共産党による一党制体制は維持されたものの、他方で1990年代を通して土地の私的所有や宗教信仰の自由などを認める各種の自由化が進んだ。

アメリカ合衆国下院2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもジョージ・W・ブッシュ大統領の所属する共和党主導で行なわれた。連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問したアメリカ人は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに人権団体、教育関係者、ジャーナリスト、外交官など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、カナダメキシコ経由で違法にキューバ渡航する者も多いと財務省当局はみている。ロナルド・レーガン大統領の時代、罰則は罰金25万ドル・10年の懲役刑へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算。国連総会は11月4日、アメリカの42年間におよぶ対キューバ通商禁止解除を求める決議を可決した(賛成179、反対3、反対はイスラエルとマーシャル諸島、アメリカ合衆国。この決議は今年で12回目)。11月6日、アメリカ上院はさらに、外交委員会で渡航禁止解除を決議した。ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さない。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないというのがブッシュ政権の説明である。

アメリカが農産物を輸出する国として、2年前、キューバは第208位であったが、現在は第35位を占めるまで急上昇している。また、かつては世界で有数の砂糖生産国であったキューバも、現在さとうきび畑の大部分を転作化、先頃開かれていたハバナでの国際貿易フェアで、米国からの参加者に砂糖の輸入を打診した。表向きは経済制裁を継続していたはずのビル・クリントン政権時代にハバナの米国利益代表部は大改築を行ない、現在は巨大なビルへと変貌している。

2006年7月31日、フィデル・カストロ国家評議会議長は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊の多忙な日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。そして権限を数週間、弟のラウル国家評議会第一副議長兼国防相に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領は、フィデル・カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した。

2007年5月、テキサス州エル・パソの連邦地裁は、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放。

2008年2月19日、フィデル・カストロは国家評議会議長(国家元首)・閣僚評議会議長(首相)・軍最高司令官の退任を正式に表明した。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(債務不履行)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した[2]。なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている[3]。国連総会は10月29日、アメリカ合衆国に対し、1961年から継続されている経済制裁の解除と、キューバ民主化・トリチェリ・ヘルムズ=バートンの三法廃止を求める決議を、1992年から17年連続で採択した(賛成185か国、アメリカ合衆国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)[4] [5]。11月には中華人民共和国胡錦濤国家主席が訪問し、ハリケーン被災者へ支援物資贈った。キューバの第二の貿易国は中国であり、中国のラテンアメリカとの関係を強める背景には資源の確保またはアメリカ一極体制の反抗が狙いであると思われる。

2009年10月28日、国連総会はアメリカ合衆国に対し、1961年から継続されている経済制裁の解除と、キューバ民主化・トリチェリ・ヘルムズ=バートンの三法廃止を求める決議を、1992年から18年連続で採択した(賛成187か国、アメリカ合衆国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)[6]

2010年10月26日、経済制裁解除とキューバ介入三法廃止をアメリカ合衆国に求める国連総会の決議が、圧倒的多数の賛成により1992年から19年連続で採択される(反対はアメリカとイスラエルのみ)[7]

略年表

  • 1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
  • 1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)
    • 5月19日 マルティ戦死
  • 1898年 米西戦争(2月)
  • 1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
  • 1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借
  • 1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
  • 1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
  • 1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
  • 1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始
  • 1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
  • 1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
  • 1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
    • 2月17日 フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命
    • 4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否
    • 5月17日 農地改革法公布
  • 1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
  • 1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)
    • 4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃。
    • 4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言
    • 4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)
    • 4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
  • 1962年 キューバ危機10月15日)、ケネディ米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日
    • 10月27日 オリエンテ州北部でU-2機撃墜
    • 10月28日 フルシチョフ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ
  • 1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問
  • 1965年 キューバ共産党結成
  • 1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラボリビアでの死亡を発表
  • 1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
  • 1976年
  • 1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
  • 1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
  • 1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵
  • 1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法[8] 成立、ジョージ・H・ブッシュ大統領が署名
  • 1993年 ドル所有の合法化
    • 12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
  • 1994年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意
  • 1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法[9] 成立、クリントン大統領が署名
  • 1998年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問
  • 1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
  • 2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
  • 2001年 アメリカからへの食糧購入開始
  • 2002年 ジミー・カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
  • 2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権の一つにあげた。 キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される
  • 2008年
    • 2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表
    • 2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出
  • 2009年
    • 6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。
  • 2011年 部分的に市場経済が導入される

政治

  • 政体社会主義共和制
  • 憲法1976年に現行憲法を制定。1992年2002年に一部修正。1992年の憲法修正で、キューバを社会主義国家と定義(第1条)。2002年の修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加。
  • 元首元首職は国家評議会議長。現任はラウル・カストロ(2008年 - )。
  • 国家評議会:人民権力全国会議(議会)の閉会中に、立法機能を果たす集団指導機関。内閣とは別個の存在。首長は国家評議会議長で、国家元首を務める。
  • 議会立法権行使機関として、一院制の人民権力全国会議(1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出。
  • 内閣:内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在。閣僚評議会議長・第一副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名及び各部長官23名によって構成。首相(政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。
  • 政党:合法政党はキューバ共産党(PCC)のみ。憲法第5条でPCCは「社会と国家の最高の指導役」とされている。党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
  • 司法司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出。法律の規定により、下級裁判所は州及び自治体ごとに存在。特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在。
  • 地方自治体:地方自治をおこなう人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在。詳細は地方行政区分を参照。
  • 反政府組織:主要勢力として、対フィデル・カストロ政権強硬派のキューバ系アメリカ人財団(CANF)がアメリカフロリダに存在。
  • 対外関係:非同盟諸国との連帯、反帝国主義、及びに民族解放運動支援が、フィデル・カストロ政権の伝統的な対外政策の最優先課題。1960年の対ソ連接近にともない、アメリカとは1961年1月3日国交を断絶。以後、米国から禁輸措置を受ける。近年ではラテンアメリカ諸国の左派政権との間で外交活動を活発に展開、特にベネスエラウゴ・チャベス政権との間で関係が親密化。キューバ人医師の派遣、医学を志す留学生の受け入れ(条件付きながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。









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