王党派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 16:30 UTC 版)
王党派(おうとうは、英: royalist)は、王制を支持する政治党派である。フランスのように王制(ブルボン朝)支持派と帝制(ボナパルト朝)支持派が対立するケースもあり狭義にはあくまで王制のみの支持派を意味するが、広義には帝制などを含めた君主制支持派を王党派と呼ぶ。共和派とは当然対立する。また君主親政を支持する勢力のみを指し、議院内閣制を前提とする立憲君主制の支持勢力を含まない場合もある。
- ^ "王党派", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-01-15)
- ^ Oskar Aanmoen (2018年12月10日). “French royalists involved in the “Yellow Vest” riots in Paris”. Royal Central. 2024年7月2日閲覧。
王党派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:29 UTC 版)
詳細は「レジティミスト」および「オルレアニスト」を参照 こうして新たに大統領になったマクマオン、首相のブロイ公ともに王党派の立場をとっていたが、議会では共和派が勢力を伸ばしており王政復古を牽制していた。 第二帝政崩壊後のボナパルティストはナポレオン3世の皇太子であったナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)に望みを賭けたが、同じような保守派でも、立憲君主制を志向し人民主権や自然権は認めるオルレアン家のルイ・フィリップ1世の一族を推すオルレアニスト(オルレアン派)や、革命も帝政も否定しアンシャン・レジームへの復帰を求め、シャルル10世の直系、その断絶後はスペイン・ブルボン家の王族を推すレジティミスト(正統派)と競合することになった(オルレアニストとレジティミストは王党派と総称されるが、共にカペー家の流れを汲む一族を支持しており、歴史的正統性は高かった)。自由主義者からはレジティミストのような極端な王党派は嫌悪されたが、その一方でボナパルティストも民主主義を標榜しながら結局は政治的自由を抑圧する独裁体制を正当化するものとみなされた。 議会の多数を王党派が占めていたが、レジティミストとオルレアニストに二分されていた。しかし、王政復古を実現するために交渉が行われた結果、シャンボール伯アンリがオルレアン家のパリ伯フィリップ(ルイ・フィリップ1世の孫)よりも継承順位が上位であるという合意がなされた。 かくして、1873年にアンリ即位は必至の情勢となっており、意気揚々とパリ入市を果たした。アンリは王党派のマクマオン大統領に先導されて議会に入り、王として歓呼で迎えられることを思い描いていたが、彼自身の頑迷さがそれらを水泡に帰させた。アンリは王になるに当たり、復古王政期の国旗である白旗を棄てて三色旗を受け入れることを求められたが、断固として拒否した。彼にとってそれを受け入れることは、フランス革命の精神を継承することに繋がったからである。こうして王政復古の最大の好機は去った。
※この「王党派」の解説は、「フランス第三共和政」の解説の一部です。
「王党派」を含む「フランス第三共和政」の記事については、「フランス第三共和政」の概要を参照ください。
王党派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 14:28 UTC 版)
チャールズ1世 イングランド王。政権を奪還しようとクロムウェルと敵対する。 ウィンター卿 チャールズ1世に仕える。『三銃士』でダルタニャンと仲良くなる。モードントの叔父。
※この「王党派」の解説は、「二十年後」の解説の一部です。
「王党派」を含む「二十年後」の記事については、「二十年後」の概要を参照ください。
「王党派」の例文・使い方・用例・文例
- 王党派のページへのリンク