王党派の軍事力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「王党派の軍事力」の解説
この時期、王党派はヌエバ・グラナダとチリに進軍して、1815年から1819年まで前者を(スペインによるヌエバ・グラナダ再征服(英語版))、1814年から1817年まで後者を支配した(レコンキスタ (チリ)(スペイン語版))。ヌエバ・グラナダでは北東部と南部の王党派地域を除き、1810年以降スペインからの独立を維持していた。一方のベネズエラでは王党派と独立派の支配の入れ替えが繰り返された。ベネズエラの支配を確保し、ヌエバ・グラナダを再支配すべく、スペインは1815年に兵士10,500人と船60隻近くというそれまで米州に派遣した最大の遠征軍を組織した。この軍勢はヌエバ・グラナダのような独立派地域の再占領に不可欠であるが、やがてベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト、ペルーと広範囲にわたって配置されるようになり、熱帯病で弱体化して影響力が薄れた。 さらに、王党派の軍勢の9割が(半島人ではなく)イスパノアメリカ人であり、遠征軍でも半分程度だった。ヨーロッパ人兵士が死傷した場合、その代替となるのがイスパノアメリカ人兵士だったため、時がたつにつれ、遠征軍のイスパノアメリカ人比率がどんどんと上がった。例えば、南米への遠征軍の総指揮官パブロ・モリーヨ(英語版)は1820年に配下のヨーロッパ人兵士が2千人(遠征軍の約半分)しかないと報告した。王党派の軍勢のうちヨーロッパ人が占める比率は1817年のマイプの戦い(英語版)では4分の1程度だったが、1821年のカラボボの戦い(英語版)では5分の1に減り、1824年のアヤクチョの戦い(英語版)では1%に満たなかった。 一方、王党派民兵隊は現地住民の民族比率を反映していた。たとえば、1820年時点のベネズエラでは王党派の軍勢が白人843人、カスタ(英語版)5,378人、先住民980人だった。
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