再征服
再征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「再征服」の解説
詳細は「軍事上の業績」の節で後述する 国内の危機を乗り切ったユスティニアヌスは再征服に乗り出すことになる。532年6月にサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させると、翌533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服させた。 535年、ゲルマン人国家東ゴート王国の内紛に乗じてベリサリウスをイタリアへ派遣した。翌年末にローマを奪回したものの、東ゴート側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。 537年12月、ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了した。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることになる。完成時の奉献式で、祭壇に立って手をさしのべ、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ! ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる。 540年にベリサリウスが東ゴート王国の首都ラヴェンナを攻略し、東ゴート王ウィティギスを捕らえてコンスタンティノポリスへ帰還したものの、イタリア半島では依然として東ゴートの残党が勢力を保っていた。同年にサーサーン朝との抗争を再開し、帝国の東西に敵を抱えることになる。 541年、共和政ローマ以来の執政官制度を廃止する。543年、黒死病が大流行し多くの死者が出て政府も機能不全に陥る(ユスティニアヌスのペスト(英語版))。ユスティニアヌスも感染したが回復している。これにより帝国の人的資源は大打撃を受け、ユスティニアヌスのローマ帝国再興事業は衰退に向かうことになる。548年に皇后テオドラが、おそらく癌によって比較的若くして崩御した。
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