東ゴート王国
東ゴート王国 (イタリア)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「東ゴート王国 (イタリア)」の解説
「東ゴート王国」を参照 ゼノン皇帝は、人質としてコンスタンティノープルに18歳まで過ごした東ゴート族王家のテオドリックを東ローマ軍最高司令官、続いて執政官に任命し、さらに485年に皇帝家の養子として皇帝家の象徴である添名のフラウィウス(Flavius)を名乗ることを許し、オドアケルを討伐するためにイタリアへ派遣した。テオドリックはイゾンツォの戦いで勝利し、493年にオドアケルを殺すと、テオドリックは東ローマ帝国に戻らずに、そのままイタリアの支配者となり、ラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建国した。東ローマ帝国にとっても、東ゴート族が西にいることは、東ゴート族の脅威から解放されることでもあった。 こうして東ゴート族は東ローマ帝国に臣従する形でイタリアの支配民族となった。ただし、その数は10万ほどでイタリア総人口の2%にも満たなかった。テオドリック王は、ローマ文人を起用したり、帝国の既存の制度を尊重した。テオドリック王率いる東ゴート族はアリウス派キリスト教徒であったが、宗教寛容政策をとって、ローマカトリックとの友好関係に努力し、カトリック貴族のボエティウスも王に仕え、テオドリック王の善政は30年ほど続き、535年に東ローマ皇帝ユスティヌスによって東ゴート王国が滅ぼされるまでイタリアは安定した。
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