テオドリック_(東ゴート王)とは? わかりやすく解説

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テオドリック (東ゴート王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 00:28 UTC 版)

テオドリック(Theodoric、ゴート語: 𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃、454年 - 526年8月30日)は、東ローマ帝国軍人および政治家484年執政官ローマ帝国副帝としてローマ帝国の西半分を統治した[5]。また、497年イタリア王の称号を認められ、東ゴート王国を成立させた[6]。表記は他にテオデリック(Theoderic, Theoderik)、テオドリクス: Theodoricus)、 テオドーリコ: Teodorico)など。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。


注釈

  1. ^ ゴート人が共通して推戴する王や王家といったものはなかった[10]。同時期にはティウディミールやウァラメールらの他にもビゲリスポルトガル語版アンダギスポルトガル語版などのゴート人の王に率いられた複数の集団があったことが知られている[10]。王とは集団によって認められたカリスマ的な指導者であり、集団の成員構成が変わるたびに歓呼による推戴の繰り返しが必要だった[9]
  2. ^ レオ1世の妻ウェリナ英語版やレオ1世の義弟バシリスクスらを中心とした反乱[16]。翌476年中には鎮圧された[16]
  3. ^ レオ1世の娘レオンティア英語版やレオンティアの夫マルキアヌス英語版らを中心とした反乱[22]
  4. ^ すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(グルトゥンギ英語版)と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである[28][29]。これは西ゴート人と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的にイスパニアに定着した西ゴート人とアラリック1世が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(テルウィンギ英語版)は異なる集団だった[28]
  5. ^ 西ゴート人の指導者は王(rex)と呼ばれることを嫌い、代わりに「ローマ帝国の判官」と認められることを好んだ。部族内の有力者は皆が対等とみなされ、王を絶対視する風潮もなかった[45]。これはゴート人の伝統と考えられ、ドナウ渡河時のアタナリック英語版もローマ皇帝との交渉において王と呼ばれることを拒否している[45]
  6. ^ 西ゴート王国では伝統的に選挙君主制が採用され[47]、血筋による世襲王朝観念は形成されなかった[47]。そのため実力者による指導者の交代劇は特に強い抵抗なく受け入れられた[47]
  7. ^ 特に当時はゼノンが482年に発布した『信仰統一勅令』ヘノティコン英語版によって引き起こされたアカキオスの分離英語版と呼ばれるローマ教会とビザンティン教会の断交期だった[50]
  8. ^ 『銀文字聖書』[51] や『銀の手写本』[52] とも呼ばれる。
  9. ^ この時代に起こったローマ文化の興隆は、歴史学では「東ゴート・ルネサンス」と呼ばれている[57]
  10. ^ コンスタンティノープルの宮廷ではユスティヌス1世に影響の大きかったユスティニアヌス1世がローマ帝国をオルトドクス(ギリシャ正教)で統一しようとしていたので、あながちテオドリックの警戒は間違いでもなかった[59][60]
  11. ^ 522年にはユスティヌス1世がボエティウスの2人の息子ボエティウス英語版(父と同名)とシュンマクス英語版(父ボエティウスの義父と同名)を執政官に任命しているが、これはテオドリックの推薦によるものだった[58]
  12. ^ ボエティウスの著作『哲学の慰め』は、このとき獄中で書かれたものである[61]
  13. ^ 東ローマ帝国では聖職者(通常はコンスタンティノープル総主教)による戴冠が皇帝即位の条件だった[64][65]

出典

  1. ^ 『世界大百科事典 第2版』平凡社, テオドリック[大王]
  2. ^ 『日本大百科全書』小学館, テオドリック(大王)
  3. ^ 『百科事典マイペディア』日立ソリューションズ, テオドリック[大王]
  4. ^ 松谷、p.63。
  5. ^ a b c d 「テオドリック(テオドリクス)大王」『西洋中世史事典
  6. ^ 「テオドリック」『西洋古典学事典』。
  7. ^ 岡地1995、p.76。
  8. ^ 岡地1995、p.79。
  9. ^ a b 岡地1995、p.80。
  10. ^ a b 岡地1995、pp.73-76。
  11. ^ a b 尚樹1999、p.125。
  12. ^ a b c 岡地1995、p.82。
  13. ^ a b 岡地1995、p.83。
  14. ^ a b 尚樹1999、pp.125-126。
  15. ^ 岡地1995、p.72。
  16. ^ a b 尚樹1999、pp.127-128。
  17. ^ a b c d e 尚樹1999、p.128。
  18. ^ a b c 岡地1995、pp.82-83。
  19. ^ 尚樹1999、pp.128-129。
  20. ^ a b 尚樹1999、p.129。
  21. ^ 尚樹1999、pp.129-130。
  22. ^ a b 尚樹1999、pp.130-131。
  23. ^ a b c d e f g h 尚樹1999、p.131。
  24. ^ ミシュレ2016、p.193
  25. ^ 佐藤2008、pp.54-55
  26. ^ a b c d e 尚樹1999、p.132。
  27. ^ a b c 岡地1995、p.81。
  28. ^ a b 南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波書店、2013年、159-161頁。ISBN 9784004314264 
  29. ^ 岡地1995、pp.80-81。
  30. ^ 尚樹1999、pp.134-135。
  31. ^ オストロゴルスキー2001、p.86-90。
  32. ^ グラール2000、p.77。
  33. ^ マラヴァル2005、pp.84-85。
  34. ^ a b オストロゴルスキー2001、p.120。
  35. ^ 尚樹1999、p.137。
  36. ^ 岡地1995、p.86。
  37. ^ a b c d マラヴァル2005、p.84。
  38. ^ 「アナスタシウス1世」『西洋古典学事典』。
  39. ^ a b c d e f g 尚樹1999、p.157。
  40. ^ リシェ1974、p.117。
  41. ^ a b ピレンヌ1960、pp.48-49。
  42. ^ 岡地1995、p.71。
  43. ^ クメール、デュメジル2019、p.127。
  44. ^ a b 岡地1995、pp.71-72。
  45. ^ a b 玉置2008、p.43。
  46. ^ a b 玉置2008、pp.42-44。
  47. ^ a b c 玉置2008、pp.43-44。
  48. ^ 尚樹1999、pp.159-160。
  49. ^ リシェ1974、p.116。
  50. ^ a b c マラヴァル2005、p.85。
  51. ^ 小塩節『銀文字聖書の謎』新潮社、2008年。ISBN 9784106035999 
  52. ^ 桑原俊一「交錯することば:地中海文明と文字の伝播(<特集>共同研究報告:欧米諸国における多文化の問題と日本の課題(続))」『北海学園大学人文論集』北海学園大学人文学会、2001年。 
  53. ^ "Codex Argenteus", Uppsala University Library
  54. ^ ピレンヌ1960、p.49。
  55. ^ Ernst Stein, "Historie du Bas-Empire"
  56. ^ エドワード・ギボン 著、村山勇三 訳『ローマ帝国衰亡史 6』岩波書店、1955年、36頁。ISBN 4003340965 
  57. ^ クメール、デュメジル2019、p.108。
  58. ^ a b c d 尚樹1999、p.158。
  59. ^ a b 尚樹1999、pp.158-159。
  60. ^ a b マラヴァル2005、p.86。
  61. ^ a b c d e f g 尚樹1999、p.159。
  62. ^ a b マラヴァル2005、pp.86-87。
  63. ^ a b c d 尚樹1999、p.155。
  64. ^ オストロゴルスキー2001、p.85。
  65. ^ マラヴァル2005、p.12。
  66. ^ 尚樹1999、pp.155-156。
  67. ^ a b c 尚樹1999、p.156。
  68. ^ リシェ1974、p.118。
  69. ^ WORLD HERITAGE LIST Ravenna No 788
  70. ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Dietrich of Bern" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 8 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 221–222.
  71. ^ Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982
  72. ^ See, for example, the critical review by Henry Kratz, in The German Quarterly 56/4 (November 1983), p. 636-638.


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