フランス第三共和政
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フランス第三共和政(フランスだいさんきょうわせい、フランス語: Troisième République)は、普仏戦争さなかの1870年に樹立されたフランスの共和政体である。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。
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フランス第三共和政
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フランス第三共和政(1870年 - 1940年)が1881年に出版の自由法を成立させると、フランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった。1881年7月、カトリックの機関誌『同時代人』はロシアのポグロム、そしてドイツとルーマニアでも反ユダヤキャンペーンが猛威を振るっているが、カリクスト・ド・ウォルスキのユダヤ人の今回の不幸は自分の責を問うよりほかに仕方がないのであり、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じ、その典拠はゲートシュの小説『ビアリッツ』(1868)に求められ、これは『シオン賢者の議定書』で取り入れられた。同じく1881年、パリで『反ユダヤ人(L'Anti-juif) 民族防衛機関誌』が週間で出版された。 1881年末にフランスのカトリック資本系の大手銀行ユニオン・ジェネラル(Union générale)銀行が破綻すると、同銀行の創始者ボントゥーは破綻の原因をロスチャイルドによる金融操作と述べた。カトリック聖母被昇天修道会のバイイ兄弟が発刊した『クロワ』紙や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥のロスチャイルド家の策謀によるものであるというユダヤ陰謀論が繰り広げられ、財産を失ったカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった。この騒動はモーパッサンの『モントリオル』(1887)、ゾラの『金』(1891)、ポール・ブールジェの『コスモポリス』(1893)などの小説で描かれた。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』やシラクの『共和国の王』など、ユダヤ資本主義論が登場した。 左翼のウジェーヌ・ジェリオン=ダングラールは、1882年に刊行した『セム人とセム主義』で、歴史学者ミシュレの『人類の聖書』での昼の民族と夜の民族の区分を引いて、アーリア民族あるいはインド・ヨーロッパ民族だけが偉大な文明と正義と美を持ち、セム人は退化と退廃にあるとし「セムの血と教義がアーリアを本質とする住民と文明に浸透していくのではないか」と懸念し、セム主義(ユダヤ主義)を「真の国家内国家。これこそは考えうる限りの唯一の社会悪、もっとも恐ろしい国際的災厄である」と主張した。 プルードン派社会主義者のオーギュスト・シラクはフランス第三共和政の背後にロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系銀行家の策謀をみて、1883年に『共和国の王者たち、ユダヤ金融の歴史』を発表した。 1882年には、反ユダヤ主義の週刊誌『反セム主義 我らが敵、ユダヤ人!』、1883年には週刊誌『L'Antisémitique(反セム)』が創刊された。 1884年、革命家ブランキの右腕でパリ・コミューン政府のコミューン評議会議員をつとめた革命的社会主義者のギュスタヴ・トリドンは『ユダヤのモロク主義』を出版した。トリドンは同書で、劣等人種セム族は文明の闇、地球の悪であり、ペストをもたらすとして、セム族との戦争は貴種アーリア人の使命であるとした。古代パレスチナのモロク神信仰での人身御供を批判した。なお、レビ記ではモロク神に子供を儀式で捧げることを禁止している。 このように第三共和政では、反ユダヤ主義は反教権主義の左翼によって担われた。しかし、1880年代になると、フランスの反ユダヤ主義を主導するのは、社会主義からカトリック陣営に引き継がれた。 1879年から1881年にかけて、シャボティー神父、クローディオ・ジャネ、ダルゾン神父などが反フリーメイソンと反ユダヤの思想を展開した。エマニュエル・シャボティー神父は1880年には偽名サン=タンドレで『フリーメイソンとユダヤ人』を発表していたが、出版自由法施行後の1882年には本名で『われらが主人、ユダヤ人』を刊行した。 1882年4月、『歴史問題評論』は「ユダヤ人が世界を牛耳っている。必然的に結論づけられるのは、フリーメイソンがユダヤ化を果たし、ユダヤ人がフリーメイソン化を果たしたという事実である」と報じた。イエズス会は隔月の教皇庁機関誌『チヴィルタ・カトリカ』で中世以来の儀式殺人を取り上げて、ユダヤ攻撃を開始、19世紀末まで間断なく続けられた。 1884年、クローディオ・ジャネとルイ・デスタンプは共著『フリーメイソンとフランス革命』を発表した。ジャネは1892年の『19世紀における資本、投機、金融』では、反ユダヤ運動は元来宗教運動であり、反資本主義闘争として反ユダヤを掲げる社会主義は、キリスト教から本質を奪おうとする扇動であると論じた。 カトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、フランス革命以来の反キリスト教化運動と政教分離の過程があり、第三共和政政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、フリーメイソンのジュール・フェリーや、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、1886年には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが差別的な言辞を受けた。 1880年代当時、フランスのユダヤ人の人口は8万人弱であり、全体の約0.2%であったが、実業や文学、芸術で活躍するユダヤ人が目立った。 1880年代に多くの著作でコレージュ・ド・フランス心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした。
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