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ヴィシー政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/13 20:38 UTC 版)

フランス国
État français
フランス第三共和政 1940年 - 1944年 フランス共和国臨時政府
フランスの国旗 フランスの国章
国旗 国章
国の標語: Travail, famille, patrie
(フランス語:勤労、家族、祖国)
フランスの位置
公用語 フランス語
首都 ヴィシー
主席
1940年 - 1944年 フィリップ・ペタン
首相
1940年 - 1942年 フィリップ・ペタン
1942年 - 1944年 ピエール・ラヴァル
変遷
成立 1940年6月22日
崩壊 1944年8月25日
通貨 フラン
時間帯 UTC +1(DST: +2)

ヴィシー政権(ヴィシーせいけん、:Régime de Vichy)は、第二次世界大戦中のフランス南部の政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシー首都を置いたことからそう呼ばれた。「ヴィシー政府」、「ヴィシー・フランス」ともいい、この政権下の体制を「ヴィシー体制」と呼ぶ。正式国名はフランス国(État français、エタ・フランセ)。

目次

歴史

成立

1940年6月にナチス・ドイツのフランス侵攻フランスは敗北した。ポール・レノー首相ら抗戦派にかわって和平派が政権を握り、6月17日に副首相であったフィリップ・ペタン元帥が首相となった。6月21日、ペタンの政府はドイツイタリアに対し休戦を申し入れた。6月22日には独仏休戦協定が締結され、フランス北部などの地域の占領が決まった。レノーやアルベール・ルブラン大統領は抗戦継続のためにカサブランカに逃亡しようとしたが身柄を拘束された[1]。一方でレノー政権の国防次官でペタンの部下でもあったシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、「自由フランス」を結成した。

フランス政府は1940年7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府主席兼首相には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦の英雄であったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。ラヴァルはヒトラーから好意的な扱いを受けるためには、「堕落した民主主義」を廃して「絶対的権力を持つ権威国家」を樹立する必要があると考え、熱心にロビー活動を行った。6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」[2]。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」[3]と演説している。7月2日、フランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。このことはラヴァルの工作をより容易にした。

後にこの動きを知ったヒトラーは、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」[4]

7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は圧倒的多数で新憲法制定までの憲法的法律を制定した。その内容は「『フランス国(État français)』の新しい憲法を公布することを目的として、ペタン元帥の権威のおよび署名の元にある共和国の政府に全ての権限を与える」というものであった[5]。ペタンは強大な権限を持つこととなったが、実際の政治は副首相であるラヴァルが大半を行っていた。

モントワール精神

1940年10月24日のモントワール駅でのペタンとヒトラー。中央の制服姿の人物は、ヒトラーの通訳官パウル・シュミット、ヒトラーの後方の制服姿の人物は、ドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップ

成立したヴィシー政府の課題は国民革命(en)と呼ばれる「新秩序」建設と、ドイツとの協調であった。休戦協定による占領経費負担は莫大なものであり、さらに占領者の権限を使った搾取が横行した。たとえばフランとマルクの為替レートは12フラン=1マルクが相場であったが、一方的に20フラン=1マルクに決めた取引を押しつけることもあった[6]。この苛烈な搾取を緩和しようと、ヴィシー政府はさらなる対独協力姿勢を見せた。10月24日にはペタンとヒトラーがロワール=エ=シェール県のモントワールで会談した(fr:Entrevue de Montoire)。ヒトラーはこの席でヴィシー政府の対英宣戦を求めたが、ペタンはそれには応じなかった。しかしペタンは会談後にラジオ演説を行い、さらなる誠実な対独協力をするべきであると声明した。この会見で強調された「モントワール精神」はドイツにとってさらなる負担をフランスに求める理由となり、ラヴァルのような親独派の勢力拡大のもととなった[7]。また10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法(en:Statute on Jews)が成立している。

国民革命はフランス革命以前の古いフランスへの復帰を求めるイデオロギーであり、アクション・フランセーズシャルル・モーラスがイデオローグであった[8]。すなわち農業国としてのフランスが求められ、「土地に帰れ」というスローガンが叫ばれた[9]。しかしこの国民革命も、ドイツの利益を優先したものにならざるを得なかった。

ダルラン時代

パリの凱旋門でフランスの警官がドイツの将校に敬礼する様子(1941年)

11月にはアルザス・ロレーヌのドイツへの割譲が決まり、ラヴァルに国民の非難が集まった。12月13日にペタンはラヴァルを解任し、ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)を副首相とした。また年末にはスペインマドリードにルイ・ルージェ教授を派遣し、イギリスとの間で交渉を行っていた。しかし対独抗戦継続を求めるイギリスと、中立を求めるヴィシー政府の溝は埋まらなかった[10]。しかしドイツの介入があり、1941年2月9日フランソワ・ダルラン海軍大将が新たな副首相となった。ダルランは「ラヴァルに卵をくれというと卵しかくれなかったが、ダルランはニワトリをくれた」と言われるほど好意的な対独協力を行った[11]。5月21日には独仏軍事協定が結ばれ、親独政権が成立していたイラクに対してフランス委任統治領シリアにある軍需物資の4分の3を譲渡する契約が成立した(en:Paris Protocols)。しかしこれはシリア・レバノン戦役en:Syria-Lebanon Campaign)によってシリアが連合国の手に落ち、イラクの親独派政権も倒れたため実行はされなかった。また北アフリカ戦線のドイツ軍が撤退した場合にはチュニジアを避難地として提供することも約束した。これは占領経費の負担軽減やフランス人捕虜の解放を求めたものであったが、ドイツ側は一切譲歩しなかった[11]

一方でダルランは警察国家化を推し進め、保安部隊(fr:Service d'ordre légionnaire、略称SOL)を組織してレジスタンスを弾圧し、共産党フリーメーソン、ユダヤ人の弾圧も行った[12]。さらに1942年2月19日からはエドゥアール・ダラディエポール・レノーといった戦争に敗北した際の政治家を裁判(リオン裁判(en))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。しかし敗戦責任はペタンにも及ぶ可能性があったため、4月15日に裁判は中止された。こうした強権的な姿勢や積極的な対独協力は、国民革命に対する国民の信頼を失わせる元となり、1941年末にはほとんど支持する者もいなくなった[12]

ラヴァル時代

ラヴァルとカール・オーベルク親衛隊大将。1943年5月1日
1943年の1フラン貨幣。表:"フランス国" 裏:"勤労、家庭、祖国"と刻まれている。

この状況でペタンはさらにドイツの歓心を得る必要があると感じ、ダルランを解任してラヴァルを再度起用することにした[13]。1942年4月18日、憲法行為11号によって国家元首と首相の役割が明確化され、首相には強い独裁権力が認められた。これは、首相に就任したラヴァルの要求によるものであり、ペタンは首相を退いて国家元首専任となり、事実上引退状態となった[13]。ラヴァルは6月22日に「ボルシェヴィズム(共産主義)」を阻止するためにドイツの勝利を支持する声明を行い、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ることとした。

11月8日トーチ作戦が始まり、フランス領アルジェリアに連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であり、たまたま北アフリカにいたダルラン大将が英米軍と休戦条約を結んで北アフリカのヴィシー政府軍を降伏させたため、11月10日ドイツは自由地区を占領を開始し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた(アントン作戦)。ドイツの頽勢を悟ったペタン元帥とラヴァル首相は、連合国とドイツの調停を行おうとしたが失敗した[14]。11月17日にはラヴァルをペタンの後継者とする憲法的法規が成立した[15]

ドイツの要求はますます苛烈になり、1943年1月にはさらに25万人の労働者が要求された。ラヴァルは捕虜送還でも譲歩した上にこの要求を達成し、労働力配置総監フリッツ・ザウケルに「フランスだけがプログラムを100%履行した」といわしめた[16]。しかしこれはフランス国民に強い不満を与え、徴用忌避者によるマキが組織される元となった。

11月、ペタンは廃止した第三共和制議会を再開させようとし、憲法案を制定した。さらに親独派のラヴァルを遠ざけることを考え、11月27日にラヴァルの後継者指定を取り消した[15]。しかしこれらの動きはドイツ側の介入によって失敗した。ペタンの側近数名が逮捕され、ドイツからは「顧問」が送り込まれた上にミリス(民兵団)の指導者ジョゼフ・ダルナンらが入閣するなどドイツ支配はさらに強化された[17]。1944年1月にはドイツがさらに労働者100万人を要求し、7月21日までに72万人が送り込まれた[18]

崩壊

1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。8月9日にラヴァルは第三共和政議会を招集させてヴィシー政府の合法性を認めさせようとパリに向かったが、徒労に終わった。ペタンも8月11日にド・ゴールに使者を送り、臨時政府に政権を譲って引退することで「政権の継続性」が与えられると交渉したが、受け入れられなかった[19]。8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏し、ド・ゴールのフランス共和国臨時政府が帰国した。8月27日、ド・ゴールはペタンが送った使者と面会も拒絶した[20]

ヴィシー政府の閣僚はドイツによって拘束され、ジグマリンゲン(en)に移された[21]。ジグマリンゲンではブリノン侯爵フェルナン・ド・ブリノン(fr:Fernand de Brinon)を代表とし、ダルナンを内相とするフランス政府委員会(fr)が組織されたが、大きな影響を与える存在にはならなかった。

国土

黄はドイツ軍の占領地域、橙は「保留地域」、紫はベルギー占領軍統治下の「禁止地域」、赤が禁止地域のうち、沿岸防備地域。青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白はヴィシー政府の支配地域である「自由地域」。

かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲されたものの、それ以外の地域には一応ヴィシー政府の主権が認められた。しかしパリを含む北部と西部はドイツ、グルノーブルニースを含むイタリア国境から50kmのエリアはイタリアによって占領された(イタリア南仏進駐領域)。この地域はフランスの主権が認められたものの、占領地域(fr:Zone occupée)として扱われ、政府の施政権は及ばなかった。また、フランシュ・コンテなどアルザス・ロレーヌの隣接区域は「保留地域」(Zone fermée)とされ占領地区とは別に扱われた。また北海イギリス海峡大西洋沿岸から数マイルのエリアと、ベルギー国境に近い現在のノール=パ・ド・カレー地域圏付近は「禁止地域」(fr:Zone interdite)とされて分離された。沿岸地域にはドイツ軍やトート機関が「大西洋の壁」と呼ばれる防御設備を設置した。またベルギー国境付近はベルギーの占領軍の統治下に置かれた。この占領地域の占領コストはフランス側が支払うこととなっており、一日あたり4億フラン[22]という莫大な出費となった。

フランス政府が統治できるのは占領地域を除いた自由地域(fr:Zone libre)と海外植民地であった。しかし自由地域においてもドイツとイタリアの軍事物資搬送や、ドイツが指定するドイツ人を引き渡す義務を負った。また自由地域と占領地域の間には境界線(fr:Ligne de démarcation)が配置され、検問が行われた。しかし1942年11月のアントン作戦以降は全土が占領下に置かれた。

ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。


  1. ^ 大井、770-771p
  2. ^ 児島、190P
  3. ^ 児島、193P-194P
  4. ^ 児島、194P。ただし、ナチズムは蔑称であり、原語は「Nationalsozialismus」と見られる。
  5. ^ 村田、一、177-178p
  6. ^ 村田、二、130-131p
  7. ^ 村田、二、131p
  8. ^ 村田、二、131-133p
  9. ^ 村田、二、133p
  10. ^ 大井、1071p
  11. ^ a b 村田、二、134p
  12. ^ a b 村田、二、135p
  13. ^ a b 村田、二、136p
  14. ^ 大井、955p
  15. ^ a b 大井、957p
  16. ^ 村田、二、137p
  17. ^ 大井、956-957p
  18. ^ 大井、958-959p
  19. ^ 大井、965p
  20. ^ 大井、972p
  21. ^ 大井、952p
  22. ^ 村田、二、130p
  23. ^ 村田、一、178p
  24. ^ a b 村田、一、179p
  25. ^ a b 村田、一、176p
  26. ^ a b 大井、1080p
  27. ^ 村田、三、125-126p
  28. ^ 村田、三、127p
  29. ^ 村田、三、128p
  30. ^ 対独協力の観点から見た戦後フランスの政治と文化
  31. ^ 大井、1034-1035p
  32. ^ 大井、1070-1071p
  33. ^ 大井、1073p
  34. ^ a b 大井、1076p
  35. ^ 大井、1074p
  36. ^ 大井、1074p
  37. ^ 大井、1081-1083p


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