パリ‐コミューン【Paris Commune】
パリ・コミューン
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パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris Commune)は、フランス・パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対して同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(仏: la Commune)のうち、普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した1871年のパリのコミューン(仏: La Commune de Paris 1871)について説明する。
- 1 パリ・コミューンとは
- 2 パリ・コミューンの概要
パリ・コミューン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
詳細は「パリ・コミューン」を参照 ひとまず対外からの平和を確保したティエールは、パリに対して苛烈な政策を打ち出す。これらはパリ市民の要求が普仏戦争の終結を長引かせ、仮条約にも反対していたこと、またオルレアン派であった背景から、将来的な王政復古のためにも、歴史的に何度も玉座を転覆させてきた背景のあるパリを牽制する必要があったからである。そうした背景から、ティエールは首都をパリからヴェルサイユへと移す。 3月18日、ティエールはパリの武装解除を解くため、パリの国民衛兵の大砲を奪取する。こうした武力行使は、ただでさえドイツ軍による戦勝パレードなどで激昂していたパリ市民を刺激させ、パリの民衆の蜂起を誘発させた。ティエールやパリ市長ジュール・フェリーはこの蜂起によってヴェルサイユに逃れたことにより、パリに政治的空白が生まれた。パリはヴェルサイユ政府に対抗する形で、コミューンを宣言する。26日にはコミューン評議会選挙が行われ、28日はパリ・コミューンの樹立宣言がなされた。 パリ・コミューンはしばし「史上初の社会主義革命」と呼ばれるが、20世紀のロシア革命のような社会主義組織による指導的な革命ではなく、これまでのそうした歴史的経緯から生まれたパリの政治的空白の中で噴出した、自然発生的な運動であり、それを構成する人々も医者や法律家やジャーナリストといった小ブルジョワから、ブランキ派やプルードン派の労働者など、さまざまな階級や思想が混在していた。パリ・コミューンは国防政府の敗北主義的な政策に対する愛国心を原動力とし、社会主義的な共和制の樹立に腐心した。またコミューンは徴兵制と常備軍を廃止し、武装した民衆によって国防がなされた。またその過程で共和暦が再採用され、政教分離を評決し、初等教育の世俗化、義務化、無償化を推し進めた。 コミューンの蜂起に対してティエールはコミューン側とのあらゆる妥協を拒否し、ビスマルクの了解のもと軍隊を再建し、徹底的な弾圧を行った。これらは5月21日から28日にかけての「血の一週間」によって一連の反乱はコミューン側は万人以上の犠牲者を出して鎮静化した。 パリ・コミューン鎮圧後、1871年8月、ティエールの友人でもあったジャン・シャルル・リヴェ(フランス語版)が可決した憲法によってティエールは共和国大統領に就任した。その後、ティエールは王政復古を目指す王党派議会と距離を取っていく。当時の王党派は、内部でブルボン家とオルレアン家という歴史上の2つの王家のどちらを擁立するかで分裂を抱えていた。オルレアン家は7月革命によって復古王政であるブルボン朝のシャルル10世を打倒する形でルイ・フィリップ王位を得た背景や、シャルル10世の孫で、ブルボン家の王位継承者であったシャンボール伯の頑迷な反動的な態度がこうした分裂をより深刻化させた。またこれら2つの王党派に覆い被さるように普仏戦争敗戦の影響から勢力こそ弱まっていたものの、ボナパルト派も依然として存在していた。これらブルボン、オルレアン、ボナパルトの足並みの不揃いが王党派の勢力の後退を招いていた。 一方で国内世論は議会与党では王党派が占められていたが、実情は王政復古でも社会主義的共和政でもなく、中道的な穏健共和制を支持していた。これらは上述したように、普仏戦争の終戦過程の動乱によるもので、フランクフルト講和条約の締結やパリ・コミューンの鎮圧などを経た1871年7月の補欠選挙では共和政支持の動向がすでに見受けられるようになっていた。 1873年3月15日に賠償金の最後の支払い分が支払われたことを受け、ティエールはドイツの宰相ビスマルクとドイツ軍撤退条約が調印したが、ビスマルクはフランスの対独復讐主義を指摘し、再戦争の可能性から独仏関係は再度、緊張が走りつつあった。当時、ドイツは1873年の世界恐慌の煽りを受け、恐慌克服策として新しい戦争を起こすかまたは参加する、ないしはフランスの賠償金取得かのいずれかの選択肢に頼ることが考えられていた。そうした背景から、ドイツの新聞も反仏的な論調へと変化していき、ドイツ軍も撤退要求に対して、しぶりを見せていた。敗戦国であるフランスが政治的に国力を回復し、ブルボン朝の王政復古が果たされることは元来、ビスマルクにとって阻止しなければならないことであった。 ドイツ撤退条約を受け、将来的な対外危機が去ると、王党派議会はティエールの厄介払いの好機を待ち望んだ。4月の補欠選挙では、教会に敵対的であった急進派の候補が保守的共和派に勝利したことから、いよいよティエールの支持基盤であったブルジョワジー層にも疑義の念を与え始めた。5月の選挙ではついにティエールは敗れ失脚し、王党派議会は後任にブルボン派でパリ・コミューンの鎮圧を指揮したマクマオン元帥が大統領に、同じくブルボン派のブロイ公爵を首相に就任させる。マクマオンとブロイによる内閣は「道徳的秩序内閣」と呼ばれ、支持基盤であったカトリックなどの影響から、キリスト教的な道徳的権威による統治を目指した。しかし相変わらず反動主義的な態度を改めないブルボン家のシャンボール伯とあくまで立憲君主制を志向するオルレアン家のルイ=フィリップの孫であるパリ伯との折衝は国旗問題で特に難航し、王党派はついにシャンボール伯の存命中の王政復古は諦めざるを得なくなった。王党派議会はそうした経緯から将来的な王政復古のための過渡的な措置として、11月にマクマオンの任期を7年とする「セプテナ法(フランス語版)」を成立させる。 ドイツ撤退条約に基づいて、ブロイ内閣は同年6月から9月にかけて、毎月5日に支払いを行い、9月5日、最後の2億5000万フランの支払いが完遂し、ドイツ軍は9月13日にヴェルダンを撤退、16日には最後のドイツ兵がフランスから去った。 1874年5月、ニエヴル県の選挙で大方の予想を裏切ってボナパルト派の候補者が当選したことがきっかけとなり、翌1875年2月に至るまで、5度の選挙でボナパルト派が勝利を重ね、ボナパルト派の復活の傾向が再燃する。こうした背景を受け、共和派と王政復古を半ば諦めていたオルレアン派などの穏健王党派が提携を結び、1月の国民議会でワロン修正案が賛成353、反対352の1票差で可決する。この修正案によって共和政の存在が法的に明記された。しかしこの法律によって共和政が決定したわけではなく、共和国大統領は「明日の国王たる」という接頭辞が付与され、7年という長い任期や、上院との一致が見れれば下院を解散させることができたり、上下両院と並んだ法律発議権や軍の統帥権など、非常に強大な権利を有する、王政復古の可能性を十分に持った法律であった。 このワロン修正案と同年に成立した2つの法律が第3共和政の憲法的法律として「1875年憲法」を構成するようになる。
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パリ・コミューン
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「パリ・コミューン」も参照 パリ・コミューンは、1871年3月18日から同年5月28日までの短期間パリを支配した政権である。3月28日にパリ・コミューンが宣言されたが、プロイセンの支援を得たヴェルサイユ政府軍により5月28日に鎮圧された。パリ・コミューンはフランス敗戦後のパリにおける決起の結果として成立した。この決起は主に戦災とフランス労働者の間の不満が鬱積した結果であった。産業革命時代で労働者階級が初めて政権を取った事例と認められている。
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パリ・コミューン
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「フランス第三共和政」の記事における「パリ・コミューン」の解説
詳細は「パリ・コミューン」を参照 こうした政府の弱腰な姿勢やプロイセン軍の祝勝パレード、3月3日のパリ占領はパリ市民の憤激を招いた。3月18日にティエールはパリの治安回復を目的とする国民衛兵の武装解除を図るも兵士の一群が抵抗した。軍の一部がコミューンに合流し、ティエールは軍と政府関係者と共にヴェルサイユに待避した。一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じたが、市民は独自の議会選挙を行い、3月28日に革命的自治政府パリ・コミューンの成立が宣言された。これは世界史上初の自治政府でもあった。コミューンの政策には労働条件の改善など社会政策的な要素が含まれており、晩年のカール・マルクスなどがこれを高く評価したが、実際には「社会主義政権」と評価できるほどの政策もさほど見られず、あまりにも統治期間が短すぎた。また、内部対立を収拾できずにいる間、ヴェルサイユ政府はビスマルクと交渉し、捕虜となっていたフランス正規兵17万人を返還させコミューンの国民衛兵4万に対して数的優位を築くことに成功した。5月21日に始まった『血の週間』の1週間の間に新政府のヴェルサイユ軍によって鎮圧された。コミューン参加者の多くが射殺ないしは軍事法廷によって処刑された。
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パリ・コミューン
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「ルイーズ・ミシェル」の記事における「パリ・コミューン」の解説
ミシェル40歳のときパリ・コミューンが勃発、彼女はこれに非常に積極的に参画した。1871年1月22日には国民兵の軍装に身を包み市庁舎広場で発砲したという逸話が伝わっている。宣伝員・モンマルトル第62大隊親衛隊員・救護員・戦闘員など活動は多岐に渡り、サン=ベルナール・ド・ラ・シャペル教会(fr:Église Saint-Bernard de la Chapelle)の革命クラブにも参加した。3月17日から18日にかけてはモンマルトルの丘での砲撃戦に参加した。 ヴェルサイユ政府がコミューンに攻勢をかけた4月から5月にかけてはクラマール、イシー=レ=ムリノー、ヌイイでの戦闘に参加している。5月のクリニャンクールのバリケード戦では市街戦に参加し、これが彼女にとって最後の前線における戦闘となった。これはその場で拘束された彼女の母親を解放するために投降したためである。このときミシェルは同士の処刑に立ち合っているが、この中に恋人テオフィル・フェレがおり、彼女は『赤いカーネーション』(Les Œillets rouges)と題した別れの詩を彼に届けている。フェレはコミューン戦の指導者であったルイ・ロセル(fr:Louis Rossel)とともに処刑された。裁判において彼女は自らの死を要求し、この報せを受けたユゴーは彼女に捧げた詩『ヴィロ・マジョール』(Viro Major)を書いたといわれる。1871年から1873年にかけてミシェルは牢獄に転用されていたオブリヴ修道院(Abbaye d'Auberive)に20ヶ月に渡って拘禁され、国外追放処分が決定された。ヴェルサイユ政権が広報において彼女を「血に飢えた雌オオカミ」あるいは「あきれたルイーズ」(la bonne Louise)などと呼ぶようになるのはこのころである。
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