決起とは? わかりやすく解説

けっ‐き【決起/×蹶起】

読み方:けっき

[名](スル)ある目的のために、決意固めて行動起こすこと。「圧政国民が—する」「—集会


決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)

劉備」の記事における「決起」の解説

黄巾の乱発生すると、関羽・張飛簡雍田豫と共に義勇軍結成し校尉鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された。 しかし、郡の督郵監察官の職)が公務安熹にやって来た際に面会断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて200叩き、官の印綬督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。 あるとき、大将軍何進都尉の毌丘毅を丹陽郡派遣した劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳向かい敵軍戦い軍功残し下密県の丞に任じられたが、短期間官職辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった191年初平2年)、敵軍敗れて昔なじみ中郎将公孫瓚元へ身を寄せ公孫瓚から別部司馬任じられ青州刺史田楷助けて袁紹軍戦った。そこで戦功立てたので、公孫瓚推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった劉備は賊の侵入防ぎ、民に経済的な恩恵与え身分の低い士人差別しなかったので、大勢人々心を寄せられた。 公孫瓚袁術手を結んでおり、初平3年192年)、袁術袁紹決裂すると、袁術要請劉備高唐に、単経平原に、徐州牧の陶謙発干駐屯させ、袁紹圧迫したこの頃平原の人劉平劉備配下になるのを不快に感じて刺客派遣したそうとは知らず劉備は、刺客手厚くもてなした刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務劉備告げて帰ってしまった。 初平4年193年)、徐州陶謙曹操攻められ田楷救援求めて来たので、田楷劉備補佐として陶謙元へ向かった陶謙劉備評価して4000人の丹陽兵を与えた。そのため劉備田楷の元を離れて陶謙身を寄せるようになった興平元年194年)、曹操退いた後、陶謙劉備豫州刺史推挙して認められた。その後陶謙は病が重くなり、徐州劉備に託そうとした。劉備初め断ったものの、親交があった陳登孔融らの説得受けて徐州領した。この時に鄭玄推薦で、北海郡の人の孫乾従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙推挙豫州刺史任じられた時とする)。陳到劉備豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣劉備豫州刺史任じられ時に登用され別駕となった曹操敗北した呂布徐州へやって来たので、迎え入れたその後、かつての盟主であった袁術攻めて来たのでこれと対峙し、1ヶ月経過した頃、下邳の守将の曹豹裏切って呂布城内迎え入れ劉備妻子囚われてしまった。劉備徐州帰って呂布和睦し、自らは小沛へと移った苦境陥った劉備援助したのは、徐州大地主であった糜竺であり、劉備後々まで彼を重用することになる。

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決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 14:18 UTC 版)

宮城事件」の記事における「決起」の解説

午前0時過ぎ、玉音放送録音終了して宮城退出しようとしていた下村宏情報局総裁放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤弘大尉により身柄拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ付近守衛隊司令部の建物内監禁された。 井田中佐椎崎中佐は、近衛第一師団司令部第二総軍参謀白石通教中佐師団長義弟)と会談であった師団長森赳中将面会強要しクーデターへの参加求めた井田記録によると、師団長否定的な態度堅持していたが、「明治神宮参拝した上で再度決断する」と約束したとされる井田中佐はこの言葉聞き一時部屋退出した述べている。 入れ替わり師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部訪れていた航空士官学校の上重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校窪田兼三少佐引き連れ再度入室した。 畑中少佐無言のまま師団長拳銃撃ち、さらに上原大尉軍刀斬殺した。同席していた白石中佐上原大尉窪田少佐によって斬殺された。 師団長白石中佐殺害の詳しい経緯については、窪田少佐東部憲兵隊聴取受けた際の聴取記録残っており、概ね明らかである。

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決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)

司馬冏」の記事における「決起」の解説

司馬冏は事の手筈を整え終えると、管襲を捕えて殺害し豫州刺史何勗・龍驤将軍と共に挙兵した。同時に成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将・新野公司馬歆に使者送って協力呼びかけ各地将軍や州郡県国にも決起の檄文送り逆臣孫秀趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族誅す」と宣言した司馬穎はこれに応じて20万余りの大軍率いて参戦し司馬乂太原内史劉暾と共に兵を率いて司馬穎後援回り司馬歆もまた司馬冏補佐した司馬顒だけはこれに従わず、振武将張方派遣して司馬倫援護させたが、後に司馬冏司馬穎優勢である事を知ると、張方撤退させて司馬冏側に寝返った揚州刺史郗隆(郗鑒叔父)は承ったが、どちらにも加担しようとしなかったので、参軍であった王邃は郗隆を斬って首を司馬冏送り、これに呼応した司馬冏当初劣勢に立たされたが、成都王司馬穎の軍が黄にて司馬倫軍の孫会・士猗・許超らの軍3撃破すると、司馬冏はこれに乗じて攻勢移り司馬倫軍の閭和の軍を破ったこの頃洛陽百官諸将司馬倫殺害して天下謝罪しようと思い、その機会窺うようになっていた。かくして4月7日、左衛将軍王輿尚書広陵公司馬漼が政変起こし司馬倫廃位して恵帝復位させた。司馬穎は軍を進めて洛陽入城すると、趙驤と石超派遣して司馬冏援護に当たり、共に司馬倫軍の張泓らを攻めた。張泓は司馬倫の死を聞く司馬冏投降し張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から軍を撤退させたが、司馬冏はこれらを尽く討伐する捕縛したまた、司馬冏襄陽郡太守宗岱に命じて孫旂を討ち、永饒冶県令空機を宛に派遣して孟観捕らえて処断した。

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決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:45 UTC 版)

機動警察パトレイバー 2 the Movie」の記事における「決起」の解説

翌朝東京湾埋立地運び込まれ輸送用コンテナから、陸上自衛隊塗装施された3機の戦闘ヘリ飛び立つ戦闘ヘリ陸自偵察ヘリから呼び掛け無視して散開し特車二課格納庫皮切りに都内官民通信施設橋梁警視庁本部庁舎などに銃爆撃加えていく。地下通信ケーブル網も仕掛けられ爆弾によって破壊され、さらに松井刑事張り込んでいた航空会社から離陸した3機の無人飛行船が、東京上空回遊しながら高出力電波妨害開始し自衛隊治安部隊通信交通寸断され孤立していく。警察によって無人飛行船のうち1機のECMポッド狙撃されるが、直後その飛行船は自動的に墜落し大量着色ガス放出して副都心一帯パニックに陥らせた。放出されガス自体はほぼ完全に無害なものであり、混乱を招くためだけの状況演出だったが、一方で機内からは本物毒ガス入ったボンベ発見され残り飛行船への対処封じられてしまう。仮想戦争は、いまや現実のものとなりつつあった。 同じ朝、後藤南雲は緊急招集され警備部幹部会議に召喚されていた。独断他県レイバー隊に出動要請した南雲警視庁上層部との対立決定的となる中、脱出した松井刑事からの連絡特車二課壊滅悟った後藤は、この期に及んでもなお権力闘争責任転嫁汲々とする上層部見限り南雲と共に自らの手事態収拾する覚悟固める。警視庁本部襲撃混乱乗じ逃走した後藤は、特車二課整備班と、旧第2小隊メンバー招集をかけ、篠原重工八王子工場保管されていた「AV-98 イングラム」の再始動始める。旧第2小隊それぞれのキャリア捨て最後の出撃のため八王子へ向かう。 荒川後藤に、埋立地位置する柘植一派野戦本部情報と、役目終えた戦闘ヘリ爆破処分され衛星写真、そしてアメリカ政府日本政府に対して翌朝軍事介入するとの通告行ったことを伝える。特車二課第2小隊南雲指揮の下、柘植逮捕するべく、かつて湾岸開発工事利用され地下鉄廃線から海底トンネル侵入し埋立地目指す荒川と彼らを見送った後藤は、提供され情報迅速・正確すぎたことと、柘植を自ら確保することに最後までこだわった姿勢理由に、荒川柘植一味だったと断定し逮捕する後藤荒川に「なぜ柘植の隣にいないのか」と問いかけるが、荒川無言のまま松井刑事連行されのだった。 旧第2小隊海底トンネル無人レイバー抗戦遭い南雲は後を部下たちに託して埋立地単身突入する。ついに柘植対峙した南雲は、かつての感情葛藤しながら彼に手錠をかける。南雲からの合図受けて後藤松井刑事入手したコード発信して電波妨害解除するヘリ埋立地到着した後藤トンネルか上がってきた旧第2小隊出迎え一方柘植松井刑事南雲ヘリ連行され柘植部下たちは治安部隊投降した松井刑事になぜ自決しなかったのかを問われ柘植は「もう少し見ていたかったのかもしれないな。この街未来を」と応え平穏取り戻そうとする都市静かに下ろすのだった

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決起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 08:03 UTC 版)

ヴェルサイユ行進」の記事における「決起」の解説

1789年10月5日早朝パリ広場集まった約7,000人の主婦らが「パン寄越せ」などと叫びながら、国王議会窮乏訴えるため、ヴェルサイユ向かって行進開始した。この行進先導したのはパリ市女性達であったため、ラファイエット率いる2軍隊ヴェルサイユ行進する群衆止めることが出来ず群衆の後をついて行くことしかできなかった。ヴェルサイユへ向かう群衆バスティーユ牢獄襲撃事件功労者マイヤールを先頭に、降りしきるの中、約20kmの道のり6時間かけて行進したヴェルサイユ近づくにつれ、人々はさらに多くなり、群衆多く武器持ちついには大砲まで持ち出したといわれる。 この時、王妃マリーアントワネット子供たちプチ・トリアノン王妃村里散策行っていたが、小姓による報告受けて大急ぎ宮殿戻っていった。これを機に彼女がプチ・トリアノンに戻ることは無かった国王ルイ16世はこの日も狩猟出ており、ヴェルサイユ宮殿では残され貴族によって迫り来る群衆対処を行うことになったヴェルサイユ宮殿では国防大臣サン・プリースト伯爵提案によって群衆ヴェルサイユ宮殿包囲する前に途中にあるサン・クルーセーヴルヌイイなどの軍隊占拠させ、国王800人の衛兵と共に群衆向かいその間王妃はじめとする国王一家ランブイエ城避難し国王は後から城に向かうという案が立てられたものの、マリーアントワネットがこれを拒否し狩猟から帰還したルイ16世宮殿に残る意向示した降りしきる中、午後3時頃にヴェルサイユ宮殿門前群衆到着し宮殿を守る近衛兵たちと騒動起こすなど殺気立っていた。女性たち国民議会押し入り、「パンを!パンを!」と要求し数名女性達代表としてルイ16世宮殿面会することとなったルイ16世代表団面会しヴェルサイユ食料庫解放することを許可したものの、宮殿包囲する群衆らはこれに納得せず、「王妃出せ!」などとさらに殺気立っていった。 サン・プリースト伯爵らは国王一家の安全を確保する為、国王一家ヴェルサイユからランブイエ避難させようしたものの、馬車群衆囲まれて動かなくなっているとの報告受けた。これを知ったルイ16世は「宮殿に残る。」と力なく伝え8月決めた人権宣言』にも国民議会希望署名した。この直後ラファイエット率い軍隊ヴェルサイユ到着し国王一家宮殿守備申し出たことで事態一時的に収まった。 しかし翌6日未明武装した市民一部宮殿乱入し、これを阻止しようとしたスイス傭兵近衛兵数名殺害した民衆暴徒化して宮殿雪崩れ込んで略奪行ったマリーアントワネット隠し通路使ってルイ16世元へ避難した群衆ルイ16世バルコニーに出ることを要求しルイ16世がこれに応えると、「国王万歳!」との声が挙がった。しかし興奮した暴徒たちは次にマリーアントワネットバルコニーへ出ることを要求したパリ市民らを中心に多く誹謗中傷晒されていたマリーアントワネットバルコニーに出ることは危険と思われたものの、アントワネットラファイエット接吻されると群衆たちから王妃歳!」との声が挙がった群衆次に国王パリへ帰れ!」と要求しルイ16世意気消沈して民衆要求呑みその日午後に国王一家民衆によってヴェルサイユからパリへ連行されそれ以降パリテュイルリー宮殿に住むこととなった。 なお、王位簒奪を狙うオルレアン公ルイ・フィリップが、この事件煽動したともいわれる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/17 17:49 UTC 版)

アミガサ事件」の記事における「決起」の解説

大正時代に入ると大洪水連続して発生し上平間住んでいた御幸村選出橘樹郡会議員であり、土木常任委員でもあった秋元四郎は、1914年大正3年8月洪水で命の危険に直面した秋元土木委員として洪水における水防陣頭指揮を執っていたが、足を滑らせ濁流飲み込まれる丸太しがみつきながらも流されていたところ、近隣の者が助けようとして投げた縄が丸太をとらえ、九死に一生得た秋元もまた県庁請願出したものの要望受け入れられなかった住民一人であった住民全員による直接的な行動でしか現状打破できない考えた秋元は、小倉鹿島田北加瀬はじめとする代表者集めて協議の場を設けた協議結果羽織着用せず、草鞋を履き、代わりに目印として編み笠被って同年9月16日午前2時から出発し警察の目を避けるようにして県庁集合することとなった。今でいうところのデモ活動である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:51 UTC 版)

カーネーション革命」の記事における「決起」の解説

1974年4月25日早朝カルヴァーリョ大尉指揮されMFAは、首都リスボン決起し市内要所占拠した逃げ込んだ共和国警備隊本部包囲されたカエターノは為す術もなく投降しスピノラ大将権力委譲した流血ほとんどない無血革命だった。カエターノとアメリコ・トマス大統領は、翌26日飛行機マデイラ島移送された。その後MFA中核とする救国軍事評議会結成されスピノラ大将近く臨時政府組織する発表した。こうして革命の成功知ったリスボン街角花束飾られ市民たちはカーネーションを手に兵士たち交歓した。革命軍兵士たち銃口カーネーションの花を挿した(現在ポルトガルでは4月25日は「自由の日」として国民の祝日となっている)。

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