決起
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黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。その功により中山国安熹県の尉に任命された。 しかし、郡の督郵(監察官の職)が公務で安熹にやって来た際に面会を断られたのに腹を立ててそのまま押し入ると、縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。 あるとき、大将軍の何進が都尉の毌丘毅を丹陽郡に派遣した。劉備は毌丘毅の従事として従軍して下邳に向かい、敵軍と戦い、軍功を残し下密県の丞に任じられたが、短期間で官職を辞した。後に、高唐県の尉となり昇進して県令となった。 191年(初平2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬に任じられ、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦った。そこで戦功を立てたので、公孫瓚の推薦により平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。劉備は賊の侵入を防ぎ、民に経済的な恩恵を与え、身分の低い士人を差別しなかったので、大勢の人々に心を寄せられた。 公孫瓚は袁術と手を結んでおり、初平3年(192年)、袁術と袁紹が決裂すると、袁術の要請で劉備を高唐に、単経を平原に、徐州牧の陶謙を発干に駐屯させ、袁紹を圧迫した。 この頃、平原の人劉平は劉備の配下になるのを不快に感じて、刺客を派遣した。そうとは知らずに劉備は、刺客を手厚くもてなした。刺客は殺すのが忍びなくなり、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。 初平4年(193年)、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めて来たので、田楷は劉備を補佐として陶謙の元へと向かった。陶謙は劉備を評価して4000人の丹陽兵を与えた。そのため劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。 興平元年(194年)、曹操が退いた後、陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕となった。 曹操に敗北した呂布が徐州へやって来たので、迎え入れた。その後、かつての盟主であった袁術が攻めて来たのでこれと対峙し、1ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。苦境に陥った劉備を援助したのは、徐州の大地主であった糜竺であり、劉備は後々まで彼を重用することになる。
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決起
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午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。 井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部で第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。 井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。井田中佐はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。 入れ替わりに師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。 畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。 森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田少佐が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである。
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決起
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司馬冏は事の手筈を整え終えると、管襲を捕えて殺害し、豫州刺史何勗・龍驤将軍董艾らと共に挙兵した。同時に、成都王司馬穎・河間王司馬顒・常山王司馬乂・南中郎将・新野公司馬歆に使者を送って協力を呼びかけ、各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようではないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎はこれに応じて20万余りの大軍を率いて参戦し、司馬乂は太原内史劉暾と共に兵を率いて司馬穎の後援に回り、司馬歆もまた司馬冏を補佐した。司馬顒だけはこれに従わず、振武将軍張方を派遣して司馬倫を援護させたが、後に司馬冏と司馬穎が優勢である事を知ると、張方を撤退させて司馬冏側に寝返った。揚州刺史郗隆(郗鑒の叔父)は檄を承ったが、どちらにも加担しようとしなかったので、参軍であった王邃は郗隆を斬って首を司馬冏に送り、これに呼応した。 司馬冏は当初劣勢に立たされたが、成都王司馬穎の軍が黄橋にて司馬倫軍の孫会・士猗・許超らの軍3万を撃破すると、司馬冏はこれに乗じて攻勢に移り、司馬倫軍の閭和の軍を破った。この頃洛陽の百官・諸将は司馬倫を殺害して天下に謝罪しようと思い、その機会を窺うようになっていた。かくして4月7日、左衛将軍王輿・尚書・広陵公司馬漼が政変を起こし、司馬倫を廃位して恵帝を復位させた。司馬穎は軍を進めて洛陽に入城すると、趙驤と石超を派遣して司馬冏を援護に当たり、共に司馬倫軍の張泓らを攻めた。張泓は司馬倫の死を聞くと司馬冏に投降し、張衡・閭和・孫髦・高越は陽翟から軍を撤退させたが、司馬冏はこれらを尽く討伐するか捕縛した。また、司馬冏は襄陽郡太守宗岱に命じて孫旂を討ち、永饒冶県令空桐機を宛に派遣して孟観を捕らえて処断した。
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決起
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「機動警察パトレイバー 2 the Movie」の記事における「決起」の解説
翌朝、東京湾の埋立地に運び込まれた輸送用コンテナから、陸上自衛隊の塗装が施された3機の戦闘ヘリが飛び立つ。戦闘ヘリは陸自偵察ヘリから呼び掛けを無視して散開し、特車二課格納庫を皮切りに、都内の官民の通信施設、橋梁、警視庁本部庁舎などに銃爆撃を加えていく。地下の通信ケーブル網も仕掛けられた爆弾によって破壊され、さらに松井刑事が張り込んでいた航空会社から離陸した3機の無人飛行船が、東京上空を回遊しながら高出力の電波妨害を開始し、自衛隊治安部隊は通信と交通を寸断され孤立していく。警察によって無人飛行船のうち1機のECMポッドが狙撃されるが、直後にその飛行船は自動的に墜落し、大量の着色ガスを放出して副都心一帯をパニックに陥らせた。放出されたガス自体はほぼ完全に無害なものであり、混乱を招くためだけの状況演出だったが、一方で機内からは本物の毒ガスが入ったボンベも発見され、残りの飛行船への対処を封じられてしまう。仮想の戦争は、いまや現実のものとなりつつあった。 同じ朝、後藤と南雲は緊急招集された警備部の幹部会議に召喚されていた。独断で他県レイバー隊に出動を要請した南雲と警視庁上層部との対立が決定的となる中、脱出した松井刑事からの連絡で特車二課壊滅を悟った後藤は、この期に及んでもなお権力闘争と責任転嫁に汲々とする上層部を見限り、南雲と共に自らの手で事態を収拾する覚悟を固める。警視庁本部襲撃の混乱に乗じ逃走した後藤は、特車二課整備班と、旧第2小隊メンバーに招集をかけ、篠原重工八王子工場で保管されていた「AV-98 イングラム」の再始動を始める。旧第2小隊はそれぞれのキャリアを捨て、最後の出撃のため八王子へ向かう。 荒川は後藤に、埋立地に位置する柘植一派の野戦本部の情報と、役目を終えた戦闘ヘリが爆破処分された衛星写真、そしてアメリカ政府が日本政府に対して翌朝軍事介入するとの通告を行ったことを伝える。特車二課旧第2小隊は南雲の指揮の下、柘植を逮捕するべく、かつて湾岸開発工事に利用された地下鉄の廃線から海底トンネルへ侵入し、埋立地を目指す。荒川と彼らを見送った後藤は、提供された情報が迅速・正確すぎたことと、柘植を自ら確保することに最後までこだわった姿勢を理由に、荒川が柘植の一味だったと断定し、逮捕する。後藤は荒川に「なぜ柘植の隣にいないのか」と問いかけるが、荒川は無言のまま松井刑事に連行されるのだった。 旧第2小隊は海底トンネルで無人レイバーの抗戦に遭い、南雲は後を部下たちに託して埋立地へ単身突入する。ついに柘植と対峙した南雲は、かつての感情に葛藤しながらも彼に手錠をかける。南雲からの合図を受けて、後藤は松井刑事が入手したコードを発信して電波妨害を解除する。ヘリで埋立地に到着した後藤がトンネルから上がってきた旧第2小隊を出迎える一方、柘植は松井刑事と南雲にヘリで連行され、柘植の部下たちは治安部隊に投降した。松井刑事になぜ自決しなかったのかを問われた柘植は「もう少し、見ていたかったのかもしれないな。この街の未来を」と応え、平穏を取り戻そうとする都市を静かに見下ろすのだった。
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決起
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1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始した。この行進を先導したのはパリ市の女性達であったため、ラファイエットの率いる2万の軍隊はヴェルサイユへ行進する群衆を止めることが出来ず、群衆の後をついて行くことしかできなかった。ヴェルサイユへ向かう群衆はバスティーユ牢獄襲撃事件の功労者マイヤールを先頭に、降りしきる雨の中、約20kmの道のりを6時間かけて行進した。ヴェルサイユが近づくにつれ、人々はさらに多くなり、群衆の多くが武器を持ち、ついには大砲まで持ち出したといわれる。 この時、王妃マリーアントワネットは子供たちとプチ・トリアノンの王妃の村里で散策を行っていたが、小姓による報告を受けて大急ぎで宮殿へ戻っていった。これを機に彼女がプチ・トリアノンに戻ることは無かった。国王ルイ16世はこの日も狩猟に出ており、ヴェルサイユ宮殿では残された貴族によって迫り来る群衆の対処を行うことになった。 ヴェルサイユ宮殿では国防大臣サン・プリースト伯爵の提案によって群衆がヴェルサイユ宮殿を包囲する前に、途中にあるサン・クルーやセーヴル、ヌイイなどの橋を軍隊に占拠させ、国王は800人の衛兵と共に群衆に向かい、その間に王妃をはじめとする国王一家はランブイエ城に避難し、国王は後から城に向かうという案が立てられたものの、マリーアントワネットがこれを拒否し、狩猟から帰還したルイ16世も宮殿に残る意向を示した。 雨が降りしきる中、午後3時頃にヴェルサイユ宮殿の門前に群衆が到着し、宮殿を守る近衛兵たちと騒動を起こすなど殺気立っていた。女性たちは国民議会へ押し入り、「パンを!パンを!」と要求し、数名の女性達が代表としてルイ16世と宮殿で面会することとなった。ルイ16世は代表団と面会し、ヴェルサイユの食料庫を解放することを許可したものの、宮殿を包囲する群衆らはこれに納得せず、「王妃を出せ!」などとさらに殺気立っていった。 サン・プリースト伯爵らは国王一家の安全を確保する為、国王一家をヴェルサイユからランブイエへ避難させようとしたものの、馬車が群衆に囲まれて動かなくなっているとの報告を受けた。これを知ったルイ16世は「宮殿に残る。」と力なく伝え、8月に決めた『人権宣言』にも国民議会の希望で署名した。この直後にラファイエット率いる軍隊がヴェルサイユに到着し、国王一家と宮殿の守備を申し出たことで事態は一時的に収まった。 しかし翌6日未明、武装した市民の一部が宮殿に乱入し、これを阻止しようとしたスイス傭兵の近衛兵数名を殺害した。民衆は暴徒と化して宮殿に雪崩れ込んで略奪を行った。マリーアントワネットは隠し通路を使ってルイ16世の元へと避難した。群衆はルイ16世をバルコニーに出ることを要求し、ルイ16世がこれに応えると、「国王万歳!」との声が挙がった。しかし興奮した暴徒たちは次にマリーアントワネットがバルコニーへ出ることを要求した。パリ市民らを中心に多くの誹謗中傷に晒されていたマリーアントワネットがバルコニーに出ることは危険と思われたものの、アントワネットがラファイエットに接吻されると群衆たちから「王妃万歳!」との声が挙がった。群衆は次に「国王よパリへ帰れ!」と要求し、ルイ16世は意気消沈して民衆の要求を呑み、その日の午後に国王一家は民衆によってヴェルサイユからパリへ連行され、それ以降はパリのテュイルリー宮殿に住むこととなった。 なお、王位簒奪を狙うオルレアン公ルイ・フィリップが、この事件を煽動したともいわれる。
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決起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/17 17:49 UTC 版)
大正時代に入ると大洪水が連続して発生し、上平間に住んでいた御幸村選出の橘樹郡会議員であり、土木常任委員でもあった秋元喜四郎は、1914年(大正3年)8月の洪水で命の危険に直面した。秋元は土木委員として洪水における水防の陣頭指揮を執っていたが、足を滑らせ濁流に飲み込まれる。丸太にしがみつきながらも流されていたところ、近隣の者が助けようとして投げた縄が丸太をとらえ、九死に一生を得た。秋元もまた県庁に請願を出したものの要望が受け入れられなかった住民の一人であった。 住民全員による直接的な行動でしか現状を打破できないと考えた秋元は、小倉、鹿島田、北加瀬をはじめとする代表者を集めて協議の場を設けた。協議の結果、羽織を着用せず、草鞋を履き、代わりに目印として編み笠を被って、同年9月16日午前2時から出発し、警察の目を避けるようにして県庁で集合することとなった。今でいうところのデモ活動である。
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決起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:51 UTC 版)
1974年4月25日早朝、カルヴァーリョ大尉に指揮されたMFAは、首都リスボンで決起し、市内の要所を占拠した。逃げ込んだ共和国警備隊本部を包囲されたカエターノは為す術もなく投降し、スピノラ大将に権力を委譲した。流血はほとんどない無血革命だった。カエターノとアメリコ・トマス大統領は、翌26日に飛行機でマデイラ島に移送された。その後、MFAを中核とする救国軍事評議会が結成され、スピノラ大将は近く臨時政府を組織すると発表した。こうして革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓した。革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿した(現在ポルトガルでは4月25日は「自由の日」として国民の祝日となっている)。
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