英蘭戦争とは? わかりやすく解説

えいらん‐せんそう〔‐センサウ〕【英蘭戦争】

読み方:えいらんせんそう

イギリスオランダ戦争


英蘭戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/30 09:53 UTC 版)

英蘭戦争(えいらんせんそう、: Anglo-Dutch Wars)は、17世紀後半の3次にわたるイングランドネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)の戦争を言う。さらに、状況が変わった18世紀の戦争も同様に英蘭戦争と呼ばれている。また、イギリス・オランダ戦争とも呼ばれる。


  1. ^ チューリップ・バブル1637年)の解説も参照。
  2. ^ 友清、P22 - P24、小林、P174 - P187。
  3. ^ 友清、P55 - P80、小林、P199 - P210。
  4. ^ 友清、P158 - P177、小林、P211 - P220。



英蘭戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)

近世における世界の一体化」の記事における「英蘭戦争」の解説

イングランドではエリザベス1世後継者がいなかったことから、スコットランドよりスチュアート家ジェームズ6世イングランド王ジェームズ1世として招いた。しかし、王権神授説信奉者である王と議会はしばし対立し1621年には「議会の大抗議」が起こっている。なお、1623年アンボイナ事件によってマラッカ以東アジアイングランド勢力オランダ勢力によって駆逐され、同年平戸商館閉鎖して日本との交易からも撤退している。こののちイングランドインドへの進出専念するうになる次のチャールズ1世の代になって権利の請願1628年)、スコットランド反乱1639年)、議会の大諫奏1641年)など政治混迷続き、王と議会対立はついに内戦へ発展ピューリタン革命)、1649年には国王チャールズ1世処刑されオリバー・クロムウェルによる共和政始まったクロムウェル様々な特権産業統制廃止しオランダ金融政策財政政策学んで商工業発展努力し1651年には仲介貿易におけるオランダ優位性打倒企図して航海条例発布第1次英蘭戦争1652年-1653年)を引き起こしてオランダ海上権打撃与えた王政復古後イングランド軍が北米オランダ植民地ニューアムステルダム占領したことを発端として、チャールズ2世戴くイングランドヨハン・デ・ウィット率いオランダとの間で第2次英蘭戦争(1665年-1667年)が起こった戦争の結果イングランド勝利しニューアムステルダムイングランドとなってオランダ北米における拠点を失うこととなった。 これにより、オランダ大西洋海上権失い転落傾向をみせるが、その理由背景としては以下の諸点考えられるオランダ主力商品だったアジア香辛料人気落ちたこイギリス主力商品だったインド産の綿布キャラコ)が大流行しはじめたこと。香辛料消費需要限られていた。綿製品潜在的需要はるかに高かったのみならず粗布輸入して加工再輸出するという産業興す基盤にもなった。もっとも、イギリス東インド会社初めから長期的展望あてこんでキャラコ選んだわけではなく香辛料買い付けから締め出され船倉満たすためにやむを得ず持ち帰ったキャラコ当たった3次にわたる英蘭戦争とフランスによるネーデルラント継承戦争南ネーデルラント継承戦争オランダ戦争)で国力消耗したこと 依然として豊かなオランダ資金イングランド産業投資されるようになったこと 1640年ポルトガルスペインとの同君連合解消しオランダ政府休戦条約結んだため、オランダ勢力ポルトガル植民地食い込むことが不可能になったこと(詳細オランダ西インド会社参照第3次英蘭戦争(1672年-1674年)はフランス始めたオランダ侵略戦争1672年-1678年)にイングランド協力するかたちで始まった1673年イングランドとフランス大艦隊を組織してオランダ襲ったが、オランダの名提督ミヒール・デ・ロイテル撃退された。この後オランダ総督ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)はオーストリア・スペインと同盟結んでフランス包囲フランス軍撤退させた。戦局ふるわず財政危機陥ったフランスは、1675年多額戦争資金募りスウェーデン参戦促した。しかしスウェーデンドイツ侵攻ドイツ諸侯反感を買い、その最前線にあったブランデンブルク選帝侯オランダ同盟結んで対抗したブランデンブルク=プロイセン興隆は、後の英仏関係にも大きく影響をおよぼすこととなった。 さらに、イングランド議会では、オランダフランスの手落ちればイングランドフランス重商主義によって経済的に屈服させられるという声が高まりチャールズ2世親仏路線撤回求めたこのため1677年チャールズ2世は弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の娘メアリ(後のメアリー2世)をウィレムに嫁がせて同盟結んだ

※この「英蘭戦争」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「英蘭戦争」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。


英蘭戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 03:03 UTC 版)

マールテン・トロンプ」の記事における「英蘭戦争」の解説

詳細は「英蘭戦争」を参照 第一次英蘭戦争では1652年5月29日ドーバー沖でトロンプ提督オランダ艦隊ロバート・ブレイク提督イングランド艦隊衝突して開戦口火切られるが(ドーバー海戦英語版))、この時は引き分け終わりトロンプ一時司令官職を解任され後任としてウィット提督任命されたが、ケンティッシュ・ノックの海戦英語版)でブレイク敗北喫したことでトロンプ復職した同年12月のダンジュネスの海戦英語版)ではブレイク艦隊再戦して勝利しオランダに制海権取り戻した。 しかし、1653年2月から3月にかけて生じたポートランド海戦英語版)で、ジョージ・マンク提督率いイギリス艦隊前にトロンプ大敗しオランダ制海権失った6月のガッバードの海戦英語版)(ノースフォアランドの海戦)でもブレイクに代わって指揮を執ったマンク艦隊に再び敗れてオランダ沿岸封鎖を許すこととなった。更に8月には再建途中オランダ艦隊マンク艦隊発見されシェヴェニンゲンの海戦英語版)(テル・ヘイデの海戦)が起こり激戦の末にオランダ艦隊大きな被害出しトロンプ戦死したが、イギリス艦隊損害大きく沿岸封鎖続けることは出来なくなったトロンプ死後の1654年ウェストミンスター条約成立し第一次英蘭戦争終結したオランダ艦隊トロンプの下で戦歴積んだミヒール・デ・ロイテル引き継ぎ次の戦争迎えることとなった

※この「英蘭戦争」の解説は、「マールテン・トロンプ」の解説の一部です。
「英蘭戦争」を含む「マールテン・トロンプ」の記事については、「マールテン・トロンプ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「英蘭戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英蘭戦争と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「英蘭戦争」の関連用語

英蘭戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



英蘭戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの英蘭戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの近世における世界の一体化 (改訂履歴)、マールテン・トロンプ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS