ドイツ騎士団国とは? わかりやすく解説

ドイツ騎士団国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/01 12:01 UTC 版)

ドイツ騎士団国
Staat des Deutschen Ordens (ドイツ語)
Civitas Ordinis Theutonici (ラテン語)


1224年 - 1525年


(国旗) (国章)

1410年のドイツ騎士団国およびリヴォニアプロイセン司教領
言語 プロシア語低地ドイツ語ラテン語バルト語派エストニア語リヴォニア語ポーランド語
宗教 カトリック
首都 マルボルク(1308年 - 1454年)
ケーニヒスベルク(1454年 - 1525年)
ドイツ騎士団総長
1210年 - 1239年 ヘルマン・フォン・ザルツァ
1511年 - 1525年アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク
変遷
北方十字軍 1224年
リヴォニア帯剣騎士団を吸収1237年
ハンザ同盟諸都市が離脱し、プロイセン同盟を結成1440年
世俗化1525年
通貨マルク

ブランデンブルクプロイセンの歴史
ノルトマルク
965年 - 983年
プルーセン
先史 - 13世紀
リューティチ族英語版
983年 - 12世紀
ブランデンブルク辺境伯領
1157年 - 1618年(1806年)
ドイツ騎士団国
1224年 - 1525年
プロイセン公国
1525年 - 1618年(1701年)
王領プロイセン
1454年 / 1466年 - 1772年
ブランデンブルク=プロイセン
1618年 - 1701年
プロイセン王国
1701年 - 1772年
プロイセン王国
1772年 - 1918年
プロイセン自由州
1918年 - 1947年
クライペダ地方
1920年 - 1939年 / 1945年 - 現在
回復領
1918年 / 1945年 - 現在
ブランデンブルク州
1947年 - 1952年 / 1990年 - 現在
カリーニングラード州
1945年 - 現在

ドイツ騎士団国(ドイツきしだんこく、ドイツ語: Deutschordensstaat発音: [ˈdɔʏtʃ ɔɐdənsˌʃtaːt]、Staat des Deutschen Ordens、ラテン語: Civitas Ordinis Theutonici)は、13世紀にバルト海沿いで北方十字軍の期間、ドイツ騎士団により建国された十字軍国家である。

ドイツ騎士団領、ドイツ騎士修道会領などとも呼ばれ、ドイツ語ではOrdensstaat(騎士団国)[1]とも呼ばれる。また、ドイツ騎士団の別訳であるチュートン騎士団からチュートン騎士団国とも呼ばれる。

ドイツ騎士団が、1230年に異教徒古プロイセン人を征服した後、故地を基盤に作った国である。その後、ゴットランド島クールラントリヴォニア、ノイマルク、ポメレリアジェマイティヤまで拡大した。領土は現在のエストニアラトビアポーランドリトアニアロシアにおよぶ。

歴史

テッラ・マリアナ

1237年テッラ・マリアナを支配していたリヴォニア帯剣騎士団ドイツ騎士団が吸収し、リヴォニアにおけるドイツ騎士団の自治的な分団であるリヴォニア騎士団とした[2]

1346年には、デンマーク王エストニア公国を19,000ケルンマルクでドイツ騎士団に売却した。デンマークからドイツ騎士団へのエストニア公国の統治権の移譲は1346年11月1日に行われた[3]

ドイツ騎士団国家(1260年)
ドイツ騎士団国家(1410年)

1410年タンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニアに敗北後、ドイツ騎士団は衰退し、分団のリヴォニア騎士団が1422年 - 1435年に結成されたリヴォニア連盟に加わったことで、現在のエストニアとラトビアに渡る領地を失った[4]

東の修道会の国は、1525年プロテスタント宗教改革の時期にホーエンツォレルン家が政権を握るプロイセン公国として世俗化された。リヴォニア支部は、リヴォニア同盟となって消滅する1561年まで続いた。

脚注



ドイツ騎士団国

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東方植民」の記事における「ドイツ騎士団国」の解説

1226年ポーランドコンラト1世 (マゾフシェ公)異教徒プルーセン人対す征討教化手を焼いて、クルムラント領有権引き換え当時ハンガリーにいたドイツ騎士団招聘した。騎士団プロイセン征服騎士団国となった13世紀、全ヨーロッパ震撼させたモンゴルヨーロッパ侵攻英語版)で。グレゴリウス9世は、全キリスト教徒対し異教徒襲来と戦うべしという詔書発した騎士修道会防衛をするよう命じられるモンゴルのポーランド侵攻ポーランド内戦東方植民進めた国王による都市化促進政策一環としてユダヤ人ドイツ商人一緒に招聘された。 植民地各地ドイツ都市法のマクデブルク法採用され東方植民目的として都市工房建設各地に市を形成し国の近代化遂行された。 1308年ポメレリアまで領地拡大した1346年デンマーク王は、エストニア王国騎士団売却した

※この「ドイツ騎士団国」の解説は、「東方植民」の解説の一部です。
「ドイツ騎士団国」を含む「東方植民」の記事については、「東方植民」の概要を参照ください。

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