ドイツ騎士団国
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- ドイツ騎士団国
- Staat des Deutschen Ordens (ドイツ語)
Civitas Ordinis Theutonici (ラテン語) -
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←1224年 - 1525年 →
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→(国旗) (国章)
1410年のドイツ騎士団国およびリヴォニアとプロイセンの司教領-
言語 プロシア語、低地ドイツ語、ラテン語、バルト語派、エストニア語、リヴォニア語、ポーランド語 宗教 カトリック 首都 マルボルク(1308年 - 1454年)
ケーニヒスベルク(1454年 - 1525年)- ドイツ騎士団総長
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1210年 - 1239年 ヘルマン・フォン・ザルツァ 1511年 - 1525年 アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク - 変遷
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北方十字軍 1224年 リヴォニア帯剣騎士団を吸収 1237年 ハンザ同盟諸都市が離脱し、プロイセン同盟を結成 1440年 世俗化 1525年
通貨 マルク
ブランデンブルクとプロイセンの歴史 | ||||
ノルトマルク 965年 - 983年 | プルーセン 先史 - 13世紀 | |||
リューティチ族 983年 - 12世紀 | ||||
ブランデンブルク辺境伯領 1157年 - 1618年(1806年) | ドイツ騎士団国 1224年 - 1525年 | |||
プロイセン公国 1525年 - 1618年(1701年) | 王領プロイセン 1454年 / 1466年 - 1772年 | |||
ブランデンブルク=プロイセン 1618年 - 1701年 | ||||
プロイセン王国 1701年 - 1772年 | ||||
プロイセン王国 1772年 - 1918年 | ||||
プロイセン自由州 1918年 - 1947年 | クライペダ地方 1920年 - 1939年 / 1945年 - 現在 | 回復領 1918年 / 1945年 - 現在 | ||
ブランデンブルク州 1947年 - 1952年 / 1990年 - 現在 | カリーニングラード州 1945年 - 現在 |
ドイツ騎士団国(ドイツきしだんこく、ドイツ語: Deutschordensstaat、発音: [ˈdɔʏtʃ ɔɐdənsˌʃtaːt]、Staat des Deutschen Ordens、ラテン語: Civitas Ordinis Theutonici)は、13世紀にバルト海沿いで北方十字軍の期間、ドイツ騎士団により建国された十字軍国家である。
ドイツ騎士団領、ドイツ騎士修道会領などとも呼ばれ、ドイツ語ではOrdensstaat(騎士団国)[1]とも呼ばれる。また、ドイツ騎士団の別訳であるチュートン騎士団からチュートン騎士団国とも呼ばれる。
ドイツ騎士団が、1230年に異教徒古プロイセン人を征服した後、故地を基盤に作った国である。その後、ゴットランド島、クールラント、リヴォニア、ノイマルク、ポメレリア、ジェマイティヤまで拡大した。領土は現在のエストニア、ラトビア、ポーランド、リトアニア、ロシアにおよぶ。
歴史
1237年にテッラ・マリアナを支配していたリヴォニア帯剣騎士団をドイツ騎士団が吸収し、リヴォニアにおけるドイツ騎士団の自治的な分団であるリヴォニア騎士団とした[2]。
1346年には、デンマーク王はエストニア公国を19,000ケルンマルクでドイツ騎士団に売却した。デンマークからドイツ騎士団へのエストニア公国の統治権の移譲は1346年11月1日に行われた[3]。
1410年のタンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニアに敗北後、ドイツ騎士団は衰退し、分団のリヴォニア騎士団が1422年 - 1435年に結成されたリヴォニア連盟に加わったことで、現在のエストニアとラトビアに渡る領地を失った[4]。
東の修道会の国は、1525年プロテスタント宗教改革の時期にホーエンツォレルン家が政権を握るプロイセン公国として世俗化された。リヴォニア支部は、リヴォニア同盟となって消滅する1561年まで続いた。
脚注
- ^ France, John (2005). The Crusades and the Expansion of Catholic Christendom, 1000-1714. New York: Routledge. p. 380. ISBN 0415371287
- ^ Frucht, Richard C. (2005). Eastern Europe: An Introduction to the People, Lands, and Culture. ABC-CLIO. p. 69. ISBN 1576078000
- ^ Skyum-Nielsen, Niels (1981). Danish Medieval History & Saxo Grammaticus. Museum Tusculanum Press. p. 129. ISBN 8788073300
- ^ Housley, Norman (1992). The later Crusades, 1274-1580. p. 371. ISBN 0198221363
ドイツ騎士団国
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1226年、ポーランドのコンラト1世 (マゾフシェ公)は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団はプロイセンを征服、騎士団国領となった。 13世紀、全ヨーロッパを震撼させたモンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)で。グレゴリウス9世は、全キリスト教徒に対し、異教徒襲来と戦うべしという詔書を発した。騎士修道会は防衛をするよう命じられる。 モンゴルのポーランド侵攻とポーランドの内戦も東方植民を進めた。国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ商人と一緒に招聘された。 植民地各地でドイツ都市法のマクデブルク法が採用され、東方植民の目的として都市や工房を建設、各地に市を形成し国の近代化が遂行された。 1308年、ポメレリアまで領地を拡大した。1346年、デンマーク王は、エストニア王国を騎士団に売却した。
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