ヴェストファーレン条約とは? わかりやすく解説

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ヴェストファーレン条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 01:55 UTC 版)

ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、: Pax Westphalica: Westfälischer Friede)は、1648年に締結された三十年戦争講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である[1]ラテン語英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である[1][2]


注釈

  1. ^ ナポレオン戦争後のヨーロッパ国際秩序は、1814年・1815年のウィーン会議ウィーン議定書)によって決定づけられたため、「ウィーン体制」と称する。

出典

  1. ^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
  2. ^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
  3. ^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
  4. ^ 中嶋(1992)p.190
  5. ^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
  6. ^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
  7. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
  8. ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
  9. ^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
  10. ^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
  12. ^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226


「ヴェストファーレン条約」の続きの解説一覧

ヴェストファーレン条約

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ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ヴェストファーレン条約」の解説

詳細は「ヴェストファーレン条約」および「ヴェストファーレン体制」を参照 1647年10月スペイン王室17世紀入って3度目破産布告発し翌年1月ドイツ西部ヴェストファーレン地方ミュンスターにおいてオランダとの講和条約調印し八十年戦争終結したスペインオランダ独立認めとともに国境線の画定おこなった同年10月にはスウェーデン軍ボヘミア首邑プラハ攻囲された神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が、ミュンスターとそれに約44キロメートル離れたオスナブリュック話し合われてきた三十年戦争講和条約に、ついに応じざるを得なくなった。この話し合いには、1645年からの3年間でヨーロッパ諸国ドイツ諸邦君主194名、全権委任者176名が加わりヨーロッパ初の国際会議となった。こうして1648年10月24日オスナブリュック講和条約通称「ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)」が調印された。 ヴェストファーレン条約の内容は、大きく国際問題にかかわることとドイツ国内問題にかかわることに分けられ前者においては領土変更ないし確定合意された。ロレーヌロートリンゲン)のメスメッツ)、トゥールヴェルダンアルザスエルザス)の一部スンゴー(フランス語版ドイツ語版)(ズントガウ)などがフランス割譲され、フランス勢力一部ではあるがライン川達したスウェーデンシュチェチン(現、ポーランド)を含む西ポンメルンのほか、フェルデンブレーメン大司教領獲得したうえ、神聖ローマ帝国議席得たこのようにフランススウェーデン三十年戦争最大勝利者であり、この条約保証となったまた、スイス連邦ネーデルラント連邦オランダ)は神聖ローマ帝国対す法的な義務から解放され主権をもつ独立共和国として正式に承認された。スイス独立は、三十年戦争通じて終始中立維持してきた結果であった一方スペイン和平対象から外され結果フランススペイン抗争1659年ピレネー条約まで続いたスペインとしてはオランダ単独講和したことにより、フランスとの戦争継続できたわけである。ドイツ諸侯得失フランススウェーデンオーストリア都合次第決定され、西ポンメルン失った代わりにポンメルン得たほか、カミンハルバーシュタットミンデン諸司教領を加えたブンランデンブルクが北ドイツの雄として登場することとなったドイツ国内問題としては、宗教問題帝国国制問題がある。宗教問題に関してアウクスブルクの平和令の有効性再確認された。ただ、宗派的対立の原因のひとつとなった1552年基準とする「聖職者にかんする留保」の条項破棄され代わりに1624年標準年と定めその時点での宗派分布基準とされた。また、カルヴァン派公認されカトリックルター派と並ぶ権利獲得した。さらに、今後宗教問題に関して帝国議会内で福音主義団(プロテスタント会派)とカトリック会派別々に協議したうえで、多数決ではなく両者合意によって決定されることとした。これにより、宗教問題帝国内の紛争の原因となることは原則なくなったまた、ハプスブルク領域以外にあっては公認諸宗派に属さない信徒であっても私的な礼拝良心の自由移住権利認められたが、神聖ローマ帝国においては信教の自由領邦君主にのみ許されるという原理変わらず個人宗派選択の自由認められなかった。 国制にあっては神聖ローマ皇帝権限大きく後退し帝国等族権利強化された。宣戦布告や法の発布など、帝国重要な決定にあたっては必ず帝国等族同意が必要とされた。また、帝国等族従来有していた諸権利改め承認されるとともに皇帝帝国への忠誠反しない限りという留保ともないつつも外国との交戦権条約調印さえ認められた。これにより、諸侯国際法上主権一部認められたことになる。かくして皇帝による一元的支配追求諸侯の側の連邦制への志向の間で起こった1世紀におよぶ闘争歴史終焉し、皇帝帝国等族二元主義帝国等族の側に大きく傾いて「ドイツの自由」が国是となった。ただし、ここにおける自由とは「帝国等族の自由」であり、それをフランススウェーデン強国として保証しようということであったその意味ではドイツ国民国家としての統一権力国家への発展の道が阻害されドイツの政治後進性とハプスブルク家弱体化もたらされた。他方連邦制的な領邦分裂文化教育普及などをもたらしこの面では集権的国家よりむしろ優れたをもっていた。また、ハプスブルク家に関しては、オーストリア固有の領土安定性はこの体制下においてむしろ著しく向上したのであり、こののち南ドイツ最大カトリック国として再出発し、東のオスマン帝国との紛争経て東西勢力バランス逆転成功しヨーロッパ屈指の大国変貌する基となった。 以上、ヴェストファーレン条約によって形成され新し国際秩序を「ヴェストファーレン体制ウェストファリア体制)」と呼ぶことがある。ここでは、ヨーロッパの平和を初め国際会議によって保証し多国間交渉によって勢力均衡視点芽生えたことに画期性が認められる。さらに、世界史文脈では国家における領土主権領域内の法的主権主権国家による相互内政不可侵の諸原理確立され近代外交現代につながる国際法根本原則確立されたとして、「ヴェストファーレン体制=主権国家体制」として高く評価されてきた。ただし、近年ではヴェストファーレン条約によって国際法確立したというのは過大評価であり、「19世紀神話にすぎないという指摘、あるいは北欧に関してはヴェストファーレン条約ではなく1660年オリヴァ条約スペインに関して1659年ピレネー条約もたらした秩序の方がいっそう重要であり、その意味では「未完国際秩序であったという指摘がある。

※この「ヴェストファーレン条約」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ヴェストファーレン条約」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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