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ベルギー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/10 17:23 UTC 版)

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。欧州連合の原加盟国であり、その主要機関の多くが首都ブリュッセルに置かれているため、ブリュッセルEUの首都とも言われている。

19世紀にネーデルラント連合王国(オランダ)から独立した国で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフラマン行政政府とワロン行政政府からなる連邦制に移行した(#地方行政区分参照)。

目次

国名

正式名称は、

  • オランダ語 Koninkrijk België(コーニンクレイク・ベルヒエ)
  • フランス語 Royaume de Belgique/rwajom də bɛlʒik/ ロワイヨーム・ドゥ・ベルジック)
  • ドイツ語 Königreich Belgien[ˈkøːnɪçraɪç ˈbɛlɡiən] ケーニヒライヒ・ベルギエン)

公式の英語表記は、Kingdom of Belgium(キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞はBelgian(ベルジャン)。ラテン語表記もBelgium(ベルギウム)である。

日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー。漢字による当て字で白耳義と表記され、と略される。

ベルギーという名称はガリアに住んでいたベルガエ人から取られたといわれている。

歴史

古代から中世

ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[1]新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住をはじめ、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[2]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年頃まで続き、社会的組織の構築や金、銅、錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[2]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[2]。紀元前6世紀ごろになるとケルト人ライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[2]

カエサルが著した『ガリア戦記』。

紀元前後になるとローマ人との接触がはじまり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[2][3]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[2]

ベルガエ族は多数の部族にわかれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[3]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンヘレントゥルネーアルロンといった植民都市が築かれた[3]

アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[4]

3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住をはじめた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入をはじめ、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[3]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[5][6]

カールの戴冠。

フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクロヴィス1世トゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[6]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族、ルクセンブルク南部のアレマン族ブルグンド王国西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[6]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[7]

7世紀中盤ごろになるとアウストラシア宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年、テルトリー会戦でネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナ教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[8]

カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[8]800年サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[9]

カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国西フランク王国ロタリンギアに分けられた。さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収された。この結果ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[10]

また、9世紀初頭よりはじまったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領ブラバント伯領リエージュ伯領エノー伯領ナミュール伯領リンブルグ伯領ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[10]。なかでもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブリュッヘヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[11]

10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[12]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[13]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[14]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[15]

14世紀以降

1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドの王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブリュッヘが征服されてしまう。この結果フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[16]

フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[17]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公1477年ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアンに救援を要請し、結婚した[18]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

同家がスペイン系とオーストリア系に分かれるとスペイン領となった。16世紀にはスペインの支配に対して反乱 (八十年戦争) を起こし、ネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペインの支配下に留まった。この南ネーデルラントが現在のベルギー王国の起源である。

18世紀のスペイン継承戦争の後にオーストリア領となる。1789年にハプスブルク家の支配に対して革命を起こし、1790年には独立国家であるベルギー合衆国を建国する。ベルギー合衆国は短期間で滅ぼされ再びハプスブルク家の支配下に戻るが、フランス革命戦争によりフランス軍に占領され、1797年のカンポ・フォルミオ条約によってリエージュ司教領と共にフランスに併合された。ナポレオン戦争の終結後、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダと共にネーデルラント連合王国として再編された。1830年にネーデルラント国王ヴィレム1世の支配に対して独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。1831年にはドイツ領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた。1839年、オランダはベルギーの独立を承認し、ベルギーは領有していたルクセンブルク大公国とリンブルフを、オランダと分割した。

ベルギー植民地帝国の最大版図。

1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカコンゴ自由国を領有する。コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取されコンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されている。国際的な非難を呼んだため、1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配した。第一次世界大戦では、1914年にドイツ帝国により中立を犯されて占領されるが、1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダブルンジを獲得した。第二次世界大戦では、1940年にナチス・ドイツにより再び占領された。第二次世界大戦後は欧州経済共同体の創設に参加するなど、欧州統合に向けての中心的役割を果たすようになる。一方、1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立したが、独立に際してのベルギーの拙劣な対応はコンゴ動乱モブツ体制の確立など、コンゴの不安定化に大きく寄与した。

現在、首都ブリュッセル欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」的な性格を帯びている。

ベルギーの永世中立国への道

カトリック国家ベルギーは、もともとカトリックのハプスブルク=ロートリンゲン家(オーストリア・ハプスブルク家)の飛び地領土ネーデルランドであった。フランス革命ジャコバン派フランス革命国民義勇軍を主導した。その国民義勇軍の、将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエール恐怖政治中の1793年10月神聖ローマ皇帝(ハプスブルク=ロートリンゲン朝、オーストリア大公)隷下のオーストリア軍を殲滅。同恐怖政治中の1794年6月ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。

この後、ハプスブルク領ネーデルランド(ベルギーとルクセンブルク)を、フランス革命総裁政府のフランス軍は占領した。同総裁政府の軍司令官ナポレオン将軍(当時28歳、第一統領就任以前)とオーストリア・ハプスブルク家は、1797年10月『カンポ・フォルミオ条約』を結んだ。オーストリア・ハプスブルク家は、その中でベルギーとルクセンブルクをフランスへ正式に割譲した。

ナポレオン戦争後、ウィーン会議の取り決めであった1815年の『ウィーン議定書』にもとづき、同年ルクセンブルク大公国ドイツ連邦に加盟した。住民がオランダ系とフランス系からなるカトリックのベルギーは、新教徒のオランダの国王ウィレム1世に、同議定書によって同年併合された。だが1830年ベルギーは独立宣言、1831年ベルギー憲法を制定し、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。

ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。これは旧教国カトリックのベルギーが、外から連れてくる新教徒の国王へ対抗するためのものであった。ザクセン王家傍系の貴族でナポレオン戦争中ロシア帝国軍ドイツ人傭兵士官として戦い、ナポレオン戦争終結の翌年である1816年イギリスに帰化し、イギリス国王ジョージ4世(ビクトリア女王の叔父)の娘を妻にめとった、レオポルド1世が立憲君主として1831年即位した。彼は新教徒であったが、新教国オランダから独立したカトリックのベルギーの初代国王に、外から連れてこられ即位したのであった。

1839年オランダとベルギーとの平和条約(ロンドン条約)が締結された。そこにはオランダがベルギーの独立を認める見返りに、ベルギーは永世中立国の宣言をせよということになっていた。これは新教国オランダにとって、旧教国フランスとベルギーとの同盟による軍事的脅威をなくすものであった。このようにベルギーの永世中立国化はオランダの安全保障が関わっていた。

初代ベルギー国王レオポルド1世(在位1831年~1865年)の次妻は、フランス国王ルイ・フイリップの娘で、その間にできた子が、次王レオポルド2世に即位した。だが彼の甥アルベール1世(在位1909年~1934年)がベルギー国王を継ぎ、第一次世界大戦に遭遇した[19]。以上のように1830年のベルギーのオランダからの独立の翌年に生じた新興ベルギー王家はイギリスやフランスに近く、第一次大戦でアルベール1世がドイツ軍に徹底抗戦したのはこれが一因であった。

政治

ベルギーは立憲君主制を採用している。国家元首である国王は、立法権を連邦議会と共に行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。1990年妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行する事により、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。

連邦議会両院制である。上院である元老院は、40議席を直接選挙、31議席を間接選挙によって選出する。左記の71議席に加えて、元老院議員には国王の子女が名を連ねる。下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。

連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。もしも、この後に下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。

政治空白

前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった[20]。これは正式な政権が存在しない世界最長記録である[21]。この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党イヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。

2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。国王アルベール2世は、ワロン系社会党エリオ・ディルポ党首に組閣を指示[22]。12月5日、ディルポを新首相に任命し[23][24]、政権は12月6日に発足した。

主な政党

自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。

オランダ語系政党
フランス語系政党



ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
ベルギーの国旗 ベルギーの国章
国旗 国章
国の標語:
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌: ブラバントの歌
ベルギーの位置
公用語 オランダ語(60%)、フランス語(39%)、ドイツ語(1%)
首都 ブリュッセル
最大の都市 ブリュッセル
政府
国王 アルベール2世
首相 エリオ・ディルポ
面積
総計 30,528km2136位
水面積率 0.8%
人口
総計(2008年 10,647,000人(77位
人口密度 339人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3,440億[1]ユーロ (€)
GDPMER
合計(2008年 5,063億[1]ドル(17位
GDPPPP
合計(2008年 3,895億[1]ドル(27位
1人あたり 36,235[1]ドル
独立
宣言 1830年10月4日
承認 1839年
通貨 ユーロ (€)(EUR[2][3]
時間帯 UTC +1(DST: +2)
ISO 3166-1 BE / BEL
ccTLD .be
国際電話番号 32
  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 1999年までの通貨はベルギー・フラン
  3. ^ ベルギーのユーロ硬貨も参照。
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  1. ^ ベルギー観光局、1.古代とケルト人 - ローマ人・4世紀頃。
  2. ^ a b c d e f 森田1998、p.169。
  3. ^ a b c d 小川2009、p.38。
  4. ^ 森田1998、p.172。
  5. ^ 小川2009、p.39。
  6. ^ a b c 森田1998、p.176。
  7. ^ 小川2009、p.40。
  8. ^ a b 小川2009、p.41。
  9. ^ 小川2009、p.42。
  10. ^ a b ベルギー観光局、2.1.中世・5世紀 - 14世紀。
  11. ^ 小川2009、pp.43-44。
  12. ^ 森田1998、p.202。
  13. ^ 森田1998、p.203。
  14. ^ 森田1998、p.205。
  15. ^ 小川2009、p.44。
  16. ^ 小川2009、p.45。
  17. ^ 小川2009、p.46。
  18. ^ 小川2009、p.47。
  19. ^ 参照『MSN百科事典エンカルタ』フランス革命史、ベルギー史、第一次世界大戦史など
  20. ^ “ベルギー政治空白541日で幕…連立政権発足”. 読売新聞. (2011年12月6日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111205-OYT1T01030.htm 2011年12月7日閲覧。 
  21. ^ “内閣不在249日、ベルギーが世界最長記録を達成”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年2月18日). http://www.afpbb.com/article/politics/2785988/6832699 2011年12月6日閲覧。 
  22. ^ 算案で合意のベルギー、1週間以内に組閣=政党党首 朝日新聞 2011年11月28日
  23. ^ 「世界最長」政治空白に終止符=新首相任命-ベルギー 時事ドットコム 2011年12月6日
  24. ^ ベルギーで新政権発足へ、総選挙から1年半ぶり ロイター 2011年 12月 6日
  25. ^ 以下は、世界気象機関による1971年から2000年までの30年平均値。出典は、「理科年表 平成19年」、東京天文台編、丸善、ISBN 4-621-07763-5
  26. ^ かつてはサベナ・ベルギー航空が直行便を運航していたが、2001年に同社が倒産してしまったために廃止されてしまった。
  27. ^ 以下の工業統計値は、United Nations Statisstical Yearbook 2004、「世界国勢図会 2005/06」、矢野恒太記念会、ISBN 4-87549-435-1 による。


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