王位継承問題
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「トーリー党 (イギリス)」の記事における「王位継承問題」の解説
1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したイングランド王チャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズが目されていた。しかしジェームズはカトリックであり、プロテスタントのイングランド国教会を国教としているイングランドではカトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。ここで反対派が賛成派を指してToryと呼んだのがトーリーの始まりである。論争以前にチャールズ2世の側近であったダンビー伯トマス・オズボーンが議会内部に宮廷党と呼ばれる与党勢力を築いたのが起源で、かつてチャールズ2世の側近で王位継承問題で野党に転じたシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーが結成したグループが後のホイッグ党に転じた。 トーリー党は王権神授説と国教会支持から王権を尊重、ホイッグ党は議会と非国教徒への寛容を重要視していた。こうした背景からトーリー党は王位継承に口を出すことに抵抗を感じ、一方のホイッグ党は議会による王権の制限を目論んでいた。ただ、この時点で両者ともまとまっていたグループとは言えず、複数の派閥で形成されていた。 1678年にほら話から始まった集団ヒステリーのカトリック陰謀事件で無実のカトリック教徒が多数処刑され、カトリックに対する恐怖からジェームズもフランス王ルイ14世との関与を疑われ、シャフツベリ伯ら野党の非難にさらされた。ダンビー伯もフランスとの秘密交渉が発覚して窮地に立たされ、チャールズ2世は弟と側近を守るため翌1679年に議会を解散したが、野党の非難は止まずジェームズはイングランドから出国、ダンビー伯はロンドン塔へ投獄され、シャフツベリ伯らホイッグ党が総選挙に大勝、新たに開かれた議会で与党となったホイッグ党が王位排除法案を提出した。この法律でジェームズの王位継承を阻止、合わせてチャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットを嫡子に格上げさせて次の王とするのが狙いであった。しかし、チャールズ2世は法案を拒絶してまたもや議会を解散、以後も法案提出と解散が繰り返され、最終的に1681年の解散以降チャールズ2世は議会を開かなかった。 チャールズ2世は解散後に反撃に打って出た。ルイ14世から資金援助を受けたことと、自分の資金源である貿易の関税・物品税からの収入が増えたため議会から課税の同意を取り付ける必要がなくなり、開会することなく政権運営が出来た。加えて、ホイッグ党の支持基盤が都市である点に目を付け、都市の権利を認める特許状の剥奪と再交付でトーリー党に転じさせ、地方に準拠する治安判事もトーリー派に交替させることによりトーリー党の勢力拡大に成功、シャフツベリ伯はロンドン塔へ投獄され(同年に釈放)、1682年の地方選挙でトーリー党優勢となり、ジェームズも帰国を許された。同年の武装蜂起未遂でシャフツベリ伯はオランダへ亡命、翌1683年に死去した。ライハウス陰謀事件でホイッグ党の他の指導者層も処刑され没落、モンマスも関与を疑われオランダへ亡命したため、チャールズ2世の政権は安泰となり1685年の死後にジェームズが王位を継承した。 「トーリー(Tory)」はアイルランド語の「toraidhe」から来ており、その意味は「ならず者」や「盗賊」と言う意味である。歴史的にイングランドの支配に対抗して、イングランド人やプロテスタントの定住者を襲っていたという側面を持ち、アイルランドの視点では義賊扱いされることもある。このため、イングランドやプロテスタントの視点から見て、カトリックの王を立てようとする相手を侮蔑してトーリー(すなわち、アイルランドあるいはカトリックの盗賊共の意味になる)と呼んだ。一方即位を認める者達は、即位を認めない者達を指して「Whig」スコットランド語で「謀反人」、「馬泥棒」と言うあだ名を付けた。この呼び方もホイッグ党の始まりになった。なお、この時点でホイッグ、トーリーとも現在のような綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループである。
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王位継承問題
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「ホイッグ党 (イギリス)」の記事における「王位継承問題」の解説
1660年に清教徒革命後の王政復古を受けて即位したチャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズの弟ヨーク公ジェームズが目されていた。しかし、国教はプロテスタントのイングランド国教会であり、カトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。ここで賛成派が反対派を指してWhigと呼んだのがホイッグの始まりである。 Whigはスコットランド語の"whiggamor"から来ており、意味は「謀反人」とか「馬泥棒」と言う意味である。一方の反対派は、賛成派を指してTory、アイルランド語で「ならず者」、「盗賊」と言うあだ名を付けた。これがトーリー党の始まりになった。ホイッグ党の事実上の創設者はシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーで、トーリー党の前身である宮廷党はチャールズ2世の側近であるダンビー伯トマス・オズボーンが作り上げた。ホイッグ党は議会重視と非国教徒の寛容を掲げ、トーリー党は国王尊重と国教会堅持で寛容を認めなかった。 1678年のカトリック陰謀事件で反カトリックの風潮が漂い、ジェームズはイングランドから出国、ダンビー伯もフランス王ルイ14世との密約が発覚してロンドン塔へ投獄、議会はホイッグ党優位となった。ホイッグ党はこれらを背景にチャールズ2世の庶子モンマス公ジェームズ・スコットの嫡子への格上げで次期国王にすることを目論み、ジェームズから王位継承権を剥奪する王位排除法案を議会で通過させようと試みたが、チャールズ2世とトーリー党の反対を受けて認められなかった。1681年にチャールズ2世は議会を解散すると、ホイッグ党の地盤である地方の治安判事と自治都市を切り崩してトーリー派に交替させたためホイッグ党が不利になり、シャフツベリ伯の亡命とライハウス陰謀事件による指導者層の排除でホイッグ党は衰退した。モンマスも事件との関与を疑われイングランドから亡命(後に反乱を起こし処刑)、ジェームズの即位は認められ、1685年にチャールズ2世亡き後にイングランド王ジェームズ2世として王位についた。 なお、この時点でのホイッグ及びトーリーは、いずれも綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指すという現在のような政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループであった。
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王位継承問題
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チャールズ2世には大勢の庶子がいたが嫡子がいないため、弟のヨーク公ジェームズが後継者となっていたが、ジェームズはカトリック教徒だったためプロテスタント(イングランド国教会)が主流の国民と政治家には不評で、次期国王をプロテスタントにしたい一派はチャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズ・スコットを推していた。このため、王位継承問題はモンマス賛成派(後のホイッグ党)と反対派(後のトーリー党)に分かれて政争が繰り広げられ、その煽りでカトリック陰謀事件、ライハウス陰謀事件などが引き起こされ、ヨーク公ジェームズの継承権を否定する王位排除法案がホイッグ党から議会へ提出されるまでになった。 チャールズ2世は一貫してジェームズを支持しており、カトリック排除に取り付かれた国民からジェームズを守るためスコットランドへ避難させる一方、ホイッグ党と組んで次の王位を狙うモンマスに対しては官職を取り上げたり国外追放にして処断、議会を解散して王位排除法案の成立を阻止した。また、ホイッグ党の支持基盤である自治都市をトーリー党に変えて、ホイッグ党指導者層をライハウス陰謀事件加担の罪で処刑、1682年にジェームズをイングランドへ帰国させてジェームズが安全に即位出来る状況を整えた。しかし、モンマスはオランダに亡命していたとはいえ健在で、従弟に当たるオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)とメアリー(後のメアリー2世)夫妻に迎えられ復権の機会を伺っていた。 1685年2月6日にチャールズ2世が亡くなると王位はジェームズに渡り、イングランド・スコットランド・アイルランド王ジェームズ2世として即位した。4月23日に戴冠式も行われ5月19日にトーリー党多数の議会が開催された。一方のモンマスは5月24日にオランダのテセル島から3隻の小型船に300人の兵を乗せて出航、6月11日にイングランド南部のドーセットの港ライム・リージス(ライム・レジス)に上陸してジェームズへの宣戦布告を発し、ジェームズ2世も13日にライム・リージスから首都ロンドンに到着した使者の連絡を受けて鎮圧軍を出動させた。ウィレム3世もジェームズ2世への協力を約束、オランダ軍の一部をイングランドへ送った。 国王軍の主な将軍はジョン・チャーチルとフェヴァシャム伯ルイス・ド・デュラスで、チャーチルはライム・リージスから東のブリッドポートで軍を編成、モンマスを追跡した。一方、司令官に任命されたフェヴァシャムは北東から進軍していった。
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王位継承問題
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1785年にスルタン家(英語版)のハメンクブウォノ3世の長男として生まれる。母マンクカラワティ(インドネシア語版)はパチタン(インドネシア語版)出身の身分の低い愛妾だった。ディポヌゴロは政治に興味を持たず宮廷の腐敗振りを嫌悪し、イスラム学校に寄宿してイスラム教を学び、民衆や家臣から慕われていた。 1814年に父が崩御するが、弟のジャロットがイギリスのトーマス・ラッフルズの支持を得てハメンクブウォノ4世(インドネシア語版)として即位し、ディポヌゴロは長男であるにも関わらず王位を継承できなかった。 1821年にジャワ島一帯に飢饉と疫病が広がり、ハメンクブウォノ4世が崩御する。ディポヌゴロは弟の後を継げると考えていたが、イギリスからジャワ島を返還され植民地支配者に戻ったオランダは、ディポヌゴロの甥のハメンクブウォノ5世(インドネシア語版)を王位に就けたため、再び即位は阻まれる。これらの政変と飢饉が重なった結果、ディポヌゴロは1825年にオランダへの反乱を決行する。
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王位継承問題
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このような情勢の中で、スルタン家の王位継承問題が発生した。イギリスがジョグジャカルタを支配した際に、ダーンデルスはハメンクブウォノ2世を復位させるが、彼はイギリスの求めた領土割譲に反対したため再び廃位され、息子のハメンクブウォノ3世が即位した。 1814年にハメンクブウォノ3世が崩御した際、民衆からの人気が高い長男ディポヌゴロは母親が身分の低い妾だったため王位を継げず、次男ジャロットがハメンクブウォノ4世(インドネシア語版)として即位した。1823年にハメンクブウォノ4世が崩御すると、ハメンクブウォノ2世の妃アゲンとハメンクブウォノ4世の妃ケンコノは王太子メノルを王位に就けるためオランダに掛け合った。オランダは人望のあるディポヌゴロを警戒し、13歳のメノルをハメンクブウォノ5世(インドネシア語版)として即位させ、ディポヌゴロは叔父マンクブーミと共にハメンクブウォノ5世の後見人となった。しかし、戴冠式の際にはオランダ人官吏がハメンクブウォノ5世を抱えて玉座に座ったため、ディポヌゴロは怒りを見せた。また、カペレンの領土貸与禁止令により、ディポヌゴロの財政も悪化することになり、オランダがハメンクブウォノ家の墓を破壊して新たに道路を整備したことで、これらの経緯に不満を募らせたディポヌゴロは反乱を決意する。 1824年10月29日にディポヌゴロは屋敷で集会を開き反乱計画を協議し、民衆の負担を降らすことを掲げてオランダへの反乱を宣言する。ディポヌゴロの支持者たちは、オランダへの反乱を「オランダと棄教者に対するジハード」と主張した。
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王位継承問題
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「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「王位継承問題」の解説
1670年頃から、王位継承の問題がイングランドでさかんに議論されるようになった。王弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)はカトリックではないかと噂されており、一方でチャールズ2世には嫡出子がおらず、庶子のモンマス公はプロテスタントで、このモンマス公を次期国王にするべきだという声が小さくなかった。モンマス公を庶子から嫡出子に「格上げ」するにはチャールズ2世と王妃キャサリンの離婚が必要で、アシュリーはcabalの"B"にあたるバッキンガムらと共にこれを強く主張した。 一方、イングランドはフランスとドーヴァーの密約(1670年)を交わしていた。密約は、フランス側から資金援助を行う一方でチャールズ2世は「頃合いを見計らって」カトリックに転向し、対オランダ共同戦線を張るというものであった。cabalの5人はこれに関わっていたが、チャールズ2世の転向についての裏条項は知らされなかった。アシュリーにとっては一蹴したいところであったが、当時フランスはヨーロッパ最強で知られており、屈強と名高いスイス傭兵をも従えていた。ひるがえってイングランドはロンドン大火や英蘭戦争で手ひどい目にあったばかりで、フランスと正面からことを構えればどうなるか、火を見るより明らかであった。親フランス派にとっては渡りに舟の密約だったが、政治的にも信仰的にもプロテスタントのアシュリーには悩む話であった。 1672年にオランダとの交渉が不調に終わり第三次英蘭戦争が起こり、フランスもオランダ侵略戦争を起こした。戦争に際してカトリックや非国教会プロテスタントの協力をえるためチャールズ2世は信仰自由宣言を発して取り締りを大幅に緩和した。さらにcabalのメンバーはそれぞれ位階を上げ、アシュリーはシャフツベリ伯爵に叙されると共に大法官に就任した。シャフツベリは招集された議会の演説で、自らを大カトーに、商業上の競争相手でもあったオランダをカルタゴになぞらえ「Delenta est Carthago(カルタゴは滅ぼさなければならない)」と訴えた。その甲斐あって戦争遂行資金は議会で可決された。この時がシャフツベリの絶頂期であった。
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王位継承問題
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フェルナンド7世には王子がなく、幼いイサベル王女とルイサ・フェルナンダ王女がいるのみであった。サリカ法典を基礎とした1713年王位継承法では後継は弟のドン・カルロスになるはずであった。しかしカルロス4世が女子の王位継承権を認める1789年の国事詔書(スペイン語版)を制定しながら布告せずにいたところ、40年以上後になってフェルナンド7世が1830年の国事詔書(英語版)でこれを布告し、発効させた。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。 1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、わずか3歳のイサベルが、摂政王太后マリア・クリスティーナの補佐のもとイサベル2世(在位:1833年 - 1868年)として即位した。 これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けてバスク地方でカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。
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王位継承問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
ブルボン家のフェリペ5世は、スペイン王位にとどまることを認められる代わりに、自身や子孫のフランス王位請求権を放棄した。フランスのブルボン家も、ルイ14世の甥であるオルレアン公フィリップ2世をはじめ、スペイン王位継承権を持っていた者たちがこれを放棄した。このことは、1712年から1714年にかけてルイ14世の子孫が次々と死去した後、1715年にわずか5歳の曽孫ルイ15世が王位を確保するうえで重要な意味を持った。なおこの継承権放棄は、フランスの法とは矛盾をきたすものであった。 もう一つ、ユトレヒトではイギリス王位に関する重大な取り決めも行われた。名誉革命でカトリックのイングランド王ジェームズ2世がプロテスタントのメアリ2世とウィリアム3世に取って代わられて以降、フランスは宗派を共有する前者の系統を支持して、彼らジャコバイトの亡命宮廷をサン=ジェルマン=アン=レー城に置かせて支援していた。しかしスペイン継承戦争の末に、ルイ14世はプロテスタントがグレートブリテン王位を継承するのを認めた。大僭称者ジェームズ・エドワードらは、フランスから追放された。これにより、長きにわたるステュアート朝とフランス・ブルボン朝の宗教的・血縁的な同盟関係は終焉を迎え、代わりにイギリスが政治的安定を手にしてさらに興隆するきっかけとなった。
※この「王位継承問題」の解説は、「ユトレヒト条約」の解説の一部です。
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王位継承問題
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「フレデリク7世 (デンマーク王)」の記事における「王位継承問題」の解説
フレデリク7世は3度結婚したが、中年になっても後継ぎが生まれなかった。デンマークの王位継承法はサリカ法を全面的に適用してはいなかったが、デンマーク王が君主を兼ねるホルシュタイン公国はサリカ法が適用されていた。オルデンブルク家の家長がデンマークの王位とドイツ連邦内のシュレースヴィヒ、ホルシュタイン公国の君主を兼ねる特殊な状況のため、フレデリク7世の後継者問題はきわめて取り扱いの困難な問題であり、戦争にもつながった。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのドイツ系住民はナショナリズムによって独立への動きを見せて、公国地域がデンマーク民族と共存していく意思のないことを主張していた。
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