対露戦争と王位継承問題
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「自由の時代」の記事における「対露戦争と王位継承問題」の解説
詳細は「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」を参照 政権を握ったハッタナ党の最初の失敗は1741年から1743年までの対露戦争である。神聖ローマ皇帝カール6世とロシア女帝アンナがほぼ同時に死去したことで、ヨーロッパ情勢は混迷を深め、対露戦争計画を仕掛ける好機であるように思えた。メッソナ党は開戦に頑強に反対したが、1740年のリクスダーグではロシア領フィンランドへの侵攻計画が性急に進められた。スウェーデンは1741年7月20日にロシアに対して宣戦布告し、1ヵ月後にはリクスダーグが解散、ハッタナ党所属の貴族部会議長カール・エミール・レーヴェンハウプト(英語版)は軍の指揮を執るためにフィンランドの前線に向かった。スウェーデン軍は1740年のうちから戦争準備をしていたが、宣戦布告の時点ですら十分な準備ができていなかった。このため、フィンランドに侵攻するどころか、逆にロシア軍に機先を制され、宣戦布告から6か月後にヴィルマンストランドに侵攻される有様であった(ヴィルマンストランドの戦い)。この戦闘から6か月間戦闘が全くおこらず、その後にサンクトペテルブルクでフランス大使の調停により休戦協定が結ばれた。休戦協定の期限が切れるまでにスウェーデン軍の士気が大きく下がり、敵襲があるという噂だけでパニックに陥ってヘルシンキまで敗走するほどだった。結局、年末までにフィンランド全土がロシアの手に落ちた。スウェーデン艦隊は宣戦布告前から展開していたものの、疫病に襲われて何の役にも立たなかった。 このような戦況からすれば、翌年のリクスダーグはハッタナ党にとって裁判も同然の状況であった。しかし、ハッタナ党はリクスダーグで最重要課題として王位継承問題を持ち出し、戦争責任に関する議論を回避した。ちょうど前女王ウルリカ・エレオノーラが1741年11月24日に亡くなり、その夫フレドリク1世も高齢で、夫妻には子がいなかったからである。そこにロシア女帝エリザヴェータがウルリカ・エレオノーラの従兄弟でホルシュタイン=ゴットルプ家公子のアドルフ・フレドリクを王位継承者とするならフィンランドを返還してもよいと持ちかけたことから、ハッタナ党は失地回復と名誉挽回の好機として和平交渉のテーブルに就いた。結局、1743年5月7日のオーボ条約にエリザヴェータの提案が容れられ、フィンランドは南部のキュミ川以東を除いてスウェーデンに返還された。1751年3月にはフレドリク1世が崩御した。
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