対露戦争と王位継承問題とは? わかりやすく解説

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対露戦争と王位継承問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 23:23 UTC 版)

自由の時代」の記事における「対露戦争と王位継承問題」の解説

詳細は「ロシア・スウェーデン戦争 (1741年-1743年)」を参照 政権握ったハッタナ党の最初失敗1741年から1743年までの対露戦争である。神聖ローマ皇帝カール6世ロシア女帝アンナがほぼ同時に死去したことで、ヨーロッパ情勢混迷深め、対露戦争計画仕掛け好機あるよう思えた。メッソナ党は開戦頑強に反対したが、1740年リクスダーグではロシアフィンランドへの侵攻計画性急に進められた。スウェーデン1741年7月20日ロシアに対して宣戦布告し1ヵ月後にはリクスダーグ解散、ハッタナ党所属貴族部会議長カール・エミール・レーヴェンハウプト(英語版)は軍の指揮執るためにフィンランド前線向かったスウェーデン軍1740年のうちか戦争準備をしていたが、宣戦布告時点ですら十分な準備ができていなかった。このためフィンランド侵攻するどころか逆にロシア軍機先を制され宣戦布告から6か月後にヴィルマンストランド侵攻される有様であったヴィルマンストランド戦い)。この戦闘から6か月戦闘が全くおこらず、その後サンクトペテルブルクフランス大使調停により休戦協定結ばれた休戦協定期限が切れるまでにスウェーデン軍士気大きく下がり、敵襲があるという噂だけでパニックに陥ってヘルシンキまで敗走するほどだった。結局年末までにフィンランド全土ロシアの手落ちたスウェーデン艦隊宣戦布告前から展開していたものの、疫病襲われ何の役にも立たなかった。 このような戦況からすれば翌年リクスダーグはハッタナ党にとって裁判同然状況であった。しかし、ハッタナ党はリクスダーグ最重要課題として王位継承問題持ち出し戦争責任に関する議論回避した。ちょうど前女ウルリカ・エレオノーラ1741年11月24日亡くなり、その夫フレドリク1世高齢で、夫妻には子がいなかったからである。そこにロシア女帝エリザヴェータウルリカ・エレオノーラ従兄弟ホルシュタイン=ゴットルプ家公子アドルフ・フレドリク王位継承者とするならフィンランド返還してもよいと持ちかけたことから、ハッタナ党は失地回復名誉挽回好機として和平交渉テーブル就いた結局1743年5月7日オーボ条約エリザヴェータ提案が容れられ、フィンランド南部キュミ以東除いてスウェーデン返還された。1751年3月にはフレドリク1世崩御した。

※この「対露戦争と王位継承問題」の解説は、「自由の時代」の解説の一部です。
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