神聖ローマ皇帝
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神聖ローマ皇帝(しんせいローマこうてい、ドイツ語: Römisch-deutscher Kaiser, ラテン語: Imperator Romanus Sacer)は、神聖ローマ帝国の皇帝。より広い意味では中近世の西ヨーロッパにおける世俗の国を超えた最高権威である。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。
- ^ フリードリヒ3世の統治は53年間に及んだ。この間に彼の統治は何度も危機を迎えるが、結局彼を脅かした政敵たちは次々と先立っていった。さらにシャルル突進公の死によって、息子マクシミリアンがブルゴーニュ公国を獲得した。
- ^ マクシミリアン1世は家門政策でも積極的な婚姻政策を展開し、孫の時代には、ボヘミア、ハンガリー、スペインなどがハプスブルク家の家領となった。
- ^ オットー大帝が被ったものであったと考えられている。皇帝と帝国の象徴であった。帝冠が八角形に作られているのは、ローマ帝国の領域と古都エルサレムが八角形であると考えられていたことに由来する。さらに『旧約聖書』に登場する諸王、預言者イザヤ・エゼキア王・ダビデ王・ソロモン王が描かれ、神聖ローマ皇帝の帝権がこれらのユダヤ祭司王権を継承していることを示していた。この冠は帝冠であると同時にローマ王の王冠としても用いられた。
- 1 神聖ローマ皇帝とは
- 2 神聖ローマ皇帝の概要
- 3 概要
- 4 帝権と王権
- 5 関連項目
神聖ローマ皇帝
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「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「神聖ローマ皇帝」の解説
1493年8月、父帝の崩御に伴いマクシミリアンは神聖ローマ帝国の君主となった。大空位時代以降、ローマ王位は諸家の間を変遷していたが、これ以後はハプスブルク家による世襲が確定していく。しかし、皇帝戴冠を目指したマクシミリアンのローマ行幸はヴェネツィア共和国の反対により阻止されたため、トリエントで帝位についた。マクシミリアンはローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝となり、これを機にカトリックを後ろ盾とする皇帝の権威はローマと教皇から離脱することになった。彼はミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、ミラノを事実上の支配下に置いた。そしてイタリア進出を図ったが、そのためにフランス王シャルル8世の野心が引き起こしたイタリア戦争に巻き込まれることとなった。 1495年、ヴォルムスにて帝国議会を召集し、イタリア戦争の戦費の援助を諸侯に要請した。皇帝の窮状を見たマインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘネベルクをはじめとする聖俗の諸侯は、帝国と皇帝権力の分離を要求し、マクシミリアン1世はこれに抵抗するも妥協を余儀なくされ、永久ラント平和令発布、帝国最高法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの内政改革が行われた。以後、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。 1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるため、2人の子フィリップ美公とマルグリットをカトリック両王の子女と結婚させた(後述)。 1508年、ローマでの戴冠を妨害したヴェネツィアに対し、攻撃を開始する(フリウリ戦争)。戦争は膠着したが、マルグリットによりフランス、教皇、スペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立した。しかしフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利し、同盟内で突出し始めると、教皇をはじめ他の同盟国イングランドやスイスが反発し、これに対抗する動きが出た。 1511年、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成する。しかし翌年ヴェネツィアは同盟を脱退し、フランスと同盟を結ぶ。 1512年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏およびその周辺に限られること、世界帝国の建設という目的の放棄を明確にした。 1513年、イングランド王ヘンリー8世と連合し、ギネガテの戦いでフランスを撃破する。しかし戦況は国によって勝敗が錯綜し、同盟は最終的に瓦解した。1516年にブリュッセルで和議を締結、さらにその2年後にヴェネツィアとも和睦が成立した。 1515年、ウィーンでの会談でハンガリーとボヘミアを治めるヤギェウォ家との二重婚姻(ウィーン二重結婚)を決定し、孫フェルディナント1世に始まるハプスブルク帝国の成立を方向づけた。こうして神聖ローマ帝国が弱体化する一方で、ハプスブルク家は隆盛を極めることになった。 1519年、マクシミリアンはヴェルスで病により崩御した。インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否されており、遺言により遺体は母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬された。しかし心臓だけはブルッヘの聖母教会(ノートルダム教会)にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。
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「神聖ローマ皇帝」の例文・使い方・用例・文例
- チャールズ2世として、神聖ローマ皇帝であり、また、チャールズ1世として、フランスの王であった(823年−877年)
- 神聖ローマ皇帝とハンガリーとボヘミアの王(1503年−1564年)
- 三十年戦争(1608年−1657年)を終結させるヴェストファーレンの平和に署名したハンガリーおよびボヘミアの神聖ローマ皇帝および王(1608年−1657年)
- 最後の神聖ローマ皇帝(1768年−1835年)
- 1152年から1190年まで神聖ローマ皇帝(1123年−1190年)
- 城の重要な部分の多くは,14世紀に神聖ローマ皇帝カール4世によって建てられた。
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