神聖ローマ帝国時代
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「フランクフルト・アム・マイン」の記事における「神聖ローマ帝国時代」の解説
ザクセン朝(オットー朝)においてもフランクフルトの王室・帝室にとっての重要性は維持され、クリスマスの祝祭が頻繁に催されたが、ザーリアー朝にいたると、帝室にとってこの市の役割は後退した。ロタール3世時代は、行幸が一度もなかった。しかし、ホーエンシュタウフェン朝においては再び王・皇帝の滞在が頻繁になり、宮廷会議がこの地で開かれた。 1241年の帝国租税表(Reichssteuerverzeichnis)に挙げられた都市の中でフランクフルトは最高額250マルク/年の税を納付している(都市以外の租税納付単位を含め、租税全額7100マルク)。 中世、フランクフルト市政にとって決定的だったのは、都市君主としての王の無制限の支配権(Stadtherrschaft)であった。1200年ころの フリードリヒ2世によるライヒスフォークタイ(Reichsvogtei)撤廃の後、1184年/ 1185年以降記録にあるシュルトハイス(Schultheiß)が王権の最高代理統治権者(der oberste königliche Amtsträger)として市の行政と司法をリードした。それに当初任命されたのは帝国ミニステリアーレ(Reichsministerialität)出身者であった。判決発見の役割(Urteilsfinder)は市民側の参審団(Schöffenkolleg)が担ったが、それから参事会(Rat)が発展していった。1311年には市長(Bürgermeister)が置かれ、参事会と市長が市の行政を担い、シュルトハイスの機能を制限していった。 13世紀から14世紀にかけて、周辺領邦君主の圧迫に対抗して商業の安全を確保するために近隣諸都市と同盟を結んだ。すなわちヴェッテルアウ帝国都市同盟(der Bund wetterauischen Reichsstädte)とライン中流地域ラント平和組織(Mittelrheinische Landfriedenorganisation)においてフランクフルトは指導的役割を演じた。 1147年 ドイツ王コンラート3世はこの地の選挙で「息子ハインリヒを国王に当選させた」。その後、1152年3月5日、「帝国の世俗諸侯と聖職者諸侯の全員が」フランクフルトに集まり、シュヴァーベン大公フリードリヒ(フリードリヒ2世バルバロッサ)を「満場一致でドイツ王に選んだ」。以後ほとんどの国王選挙はこの地で行われ、国王選挙地としてのフランクフルトは1356年の金印勅書において規定されたが、このことはこの地に帝国法上、傑出した地位を与えた。国王選挙は神聖ローマ帝国終焉の1806年に至るまでの間ほとんど毎回この地で行われたが、戴冠式も1563年からフランクフルトで催された。1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠式とともに、当市の特別な地位も消滅した。なお、ゲーテはその自伝『詩と真実』第5章(Dichtung und Wahrheit, Erster Teil, Fünftes Buch)において、1764年4月に挙行された皇帝フランツ1世と帝妃 マリア・テレジアの息子 ヨーゼフ2世のローマ王戴冠式の盛儀を生き生きと描写している。 フランクフルトは1074年Zollstätte(仮訳「関税地」)として記録されている。フランクフルトの商人の免税が記録されている最初の文書は、ヴォルムス 1184年と伝えている。1170年ころから貨幣が鋳造されている。1160年ころには初めて大市(Messe)が開催された。1180年にはフランクフルトの商人の特権(Rechte und Freiheiten)がヴェッツラーの特権(Privilegierung)のモデルになった。1240年 神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世はフランクフルトの大市(Messe)を訪れる者に対して特別な保護を保証した。1330年 ルートヴィヒ4世はフランクフルトに春と秋、年2回の大市(Messe)を開催することを許可した。14世紀初めの シャンパーニュの大市(Messe)の衰退によって利益を得、神聖ローマ帝国の経済的中心地の一つになった。商品交換において重要な商品は、ワイン、鰊、毛皮等であったが、特に重要だったのは毛織物で、フランクフルトは14世紀毛織物工業の中核地域となった。当時、手工業者は17個のツンフト(同職組合)に組織されていた。 活版印刷術の発明以後、書籍取引が新たに重要な地位を占めたが、16世紀以降はライプツィヒ の大市(Messe)と競うことになった。 13世紀前期に市壁が完成したが、市壁内の面積は約40haであった。1222年に市と郊外のザクセンハウゼンとをつなぐ石造の橋が架けられた。1405年には市庁舎(レーマー)が建てられた。1387年の住民台帳によれば、市の人口は約9600人であった。13世紀初頭ユダヤ人の人口は約200人であったが、1241年と 1349年の迫害(1348年のペスト流行を機縁)によりユダヤ人の姿は市内に見えなくなった。その後再びユダヤ人の移住がみられたが、1462年には収容所に隔離された。13世紀前半には ベギン会の会員もいた。 フランクフルトは1220年に帝国自由都市となった。 1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。 1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウとフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。
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神聖ローマ帝国(オーストリア公国)時代
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976年 - バーベンベルク家の辺境伯領(オーストリア辺境伯)が設置される。 1156年 - 神聖ローマ帝国に属する「オーストリア公国」となる。 1246年 - バーベンベルク家断絶。 1278年 - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公となる。以後1918年までハプスブルク家の領土となる。
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神聖ローマ帝国(オーストリア大公国)時代
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「オーストリアの歴史」の記事における「神聖ローマ帝国(オーストリア大公国)時代」の解説
1359年 - ハプスブルク家のルドルフ4世がオーストリア大公を称する(オーストリア大公国)。 1439年 - ハプスブルク家のフリードリヒ3世、神聖ローマ皇帝に推挙される。以後、帝位は事実上世襲となる。 1479年 - オロモウツの和約。1490年までハンガリーのフニャディ家の支配下に置かれる。 1529年 - オスマン帝国による第一次ウィーン包囲。 1618年 - 三十年戦争開始。 1648年 - ヴェストファーレン条約で三十年戦争終結。ドイツ諸侯は自立し、ハプスブルク家の権威弱体。 1683年 - オスマン帝国による第二次ウィーン包囲。 1699年 - カルロヴィッツ条約。オスマン帝国との戦争に勝利。 1740年 - マリア・テレジアがオーストリア女大公となると、オーストリア継承戦争が勃発。シュレージェン及びパルマ公国を失う。
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