最初の文献記録から1806年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:11 UTC 版)
「グンツェンハウゼン」の記事における「最初の文献記録から1806年まで」の解説
823年(8月21日付け)の文書に、グンツェンハウゼンに関する最初の信頼できる記述がある。皇帝ルートヴィヒ敬虔帝が Gunzinhusir修道院をエルヴァンゲン修道院に譲渡するという内容である。中世には、エルヴァンゲン修道院長は当初、グンツェンハウゼンを貴族家のトルーエンディンゲン家とエッティンゲン家(ドイツ語版)にレーエンとして与えたが、1349年にブルクハルト・フォン・ゼッケンドルフに移管した。1368年にニュルンベルク城伯フリードリヒがこの街を獲得し、これによりホーエンツォレルン家の所領となった。これにより初めてこの街は、歳の市の開催権、市壁、塔、堀を備えた大規模な防衛施設ならびに市教会を建設する許可を得て、ホーエンツォレルン家統治初期の数十年で最初の繁栄期を迎えた。 ホーエンツォレルン家傍流のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯がグンツェンハウゼン周辺地域を所有し、統治していた。建築技術の上では、野蛮伯とも呼ばれた絶対君主カール・ヴィルヘルム・フリードリヒがグンツェンハウゼンを個人的な宮殿都市に発達させ、18世紀にバロック様式の都市景観が形成された。 1500年からフランケン帝国クライスに属していたグンツェンハウゼンは、神聖ローマ帝国時代末期、1806年にバイエルン王国に編入された。 グンツェンハウゼンは1862年に固有のベツィルクスアムト・グンツェンハウゼン(グンツェンハウゼン管区)の本部所在地となり、1939年にはこれからグンツェンハウゼン郡が形成された。1972年に地域再編の一環としてこの郡はヴァイセンブルク郡と合併し、グンツェンハウゼンは郡庁所在地の地位を失った。
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