エルヴァンゲン修道院
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「エルヴァンゲン (ヤクスト)」の記事における「エルヴァンゲン修道院」の解説
エルヴァンゲンは7世紀にアレマン人入植地としてシュテルツェンバッハ川沿いに建設された。フランケンとシュヴァーベンとの境界の森フィルグンナの入植地近くの丘にハリオルフとエルロルフ(フランスの都市ラングルの司教)が764年(750年?)にベネディクト会修道院を創設した。この2人の兄弟は、バイエルン=アレマン系貴族の出身であった。これは、たとえばムルハルト、シェフトラルン(ドイツ語版、英語版)、ノイミュンスター(現在はアルテンミュンスター(ドイツ語版、英語版)の一部)など、現在の南ドイツ地域で数多くあった修道院新設の一つであった。エルヴァンゲン修道院は設立後数年にカール大帝に移譲された。これによりエルヴァンゲン修道院は、王の修道院となった。この修道院は、早くも814年4月8日にルートヴィヒ敬虔王の文書に Elehenuuang として初めて記述されている。この修道院は817年から帝国修道院の一つとなった。修道院はその特権を背景に急速に発展し、9世紀初めにはすでに100人以上の修道士を擁するまでになった。経済発展は、当初これと歩調を合わすことができなかった。それは、エルヴァンゲン修道院の創設段階ではまだ、この地域の特に耕作可能な土地の多くがフルダ修道院(ドイツ語版、英語版)の所有であったためである。 スラヴの使徒として知られるビザンチン/ギリシアのメトディオスは、バイエルンの司教の謀略によって、この修道院の牢獄に約2年半の間(870年 - 873年)投獄されていた。メトディオスは、873年にローマ教皇ヨハネス8世の調停により釈放された。 12世紀から13世紀に修道院に属す居住地区が都市に成長した。しかしその住人は修道院の高権下に置かれていた。この修道院は遅くとも1124年には、「免属(ドイツ語版、英語版))」とよばれる教皇直轄の修道院となった。免属の修道院は1215年から帝国諸侯(ドイツ語版、英語版)となった。1337年頃にフォークトとしてエッティンゲン伯が記録されている。修道院長は1381年にこのアムトを伯から買い取った。 修道院長は市の役所に1年分の報酬と引き替えに業務を委託した。これは市の行政担当者にも、議員を兼ねていた裁判所職員に対してもなされた。聖職者自身や山林管理人はその職を確保した。
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