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カール大帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/31 02:20 UTC 版)

カール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日アーヘン)は、フランク王国国王(在位:768年 - 814年)。


  1. ^ 中国の柔然との同族説もあるが、確証はない。
  2. ^ カールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。
  3. ^ アーヘンのほかインゲルハイムやネイヘーメンなどにも宮廷がきずかれた。いずれの宮廷付属庭園でも動物が飼われていた。
  4. ^ EU統合の初期段階においてデンマークでは国民投票1992年)がなされたが、このなかでマーストリヒト条約の批准は否決されている。イギリスやスウェーデンでも、ユーロを通貨とすることについては今でも拒否感が強い。経済的な理由が最大の要因であることは言うまでもないが、これらの国々は歴史的にみても「カールの帝国」には含まれていなかったのである。
  5. ^ しかし、これは単純な古典回帰ではなかった。ラテン語の教育にしても、地方ごとに異なる言語が用いられ、遠距離間の情報伝達に不自由する時代であったため、ローマ以来の共通語であったラテン語を理解する聖職者の存在が不可欠とみなされていたためでもあった。
  6. ^ 宮殿周辺付近にブドウを植えたという伝承があり、ワインに「コルトン・シャルルマーニュ」(白ワインのみ)という銘柄がある。
  7. ^ 印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという。
  8. ^ 通常、これをもって「カールの西ローマ帝国皇帝即位」(在位:800年-814年)としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールを西ローマ皇帝とすることで、はじめて東ローマ皇帝や、その支配下にあるコンスタンティノープル教会に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。
  9. ^ 古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている。
  10. ^ 東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ=ラシード(アッバース朝全盛期のカリフ)とも提携して対抗しようとしている。なお、「シャルルマーニュの護符」はハールーン・アッ=ラシードより贈られたものと言われる。
  11. ^ これは後の第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世などに対しても同様である。
  12. ^ それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。
  13. ^ 渡部治雄「フランク時代」(『世界歴史大系 ドイツ史1』山川出版社、1997年)


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