ていこく‐ぎかい〔‐ギクワイ〕【帝国議会】
帝国議会
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帝国議会(ていこくぎかい、旧字体: 帝󠄁國議會、英語: The Imperial Diet)は、1890年(明治23年)の帝国憲法により設置された日本の議会である[1]。公選の衆議院 (しゅうぎいん)(下院)と非公選の貴族院 (きぞくいん)(上院)から構成された[4]。「議会」もしくは「国会」と略称された[1]。
注釈
- ^ もっとも、政府や軍部側も国民や敵国に対して「挙国一致」の体裁をみせなければならなかったために、議員たちにも政府役職の一部を配分し、戦争遂行に直接関係しない分野では議会の立場に配慮するなどの一定の譲歩がなされはしたが、それがために、その利益を受けた議会指導者や主流派は積極的に翼賛議会確立に努め、政府や軍部の方針に批判的な一部議員は議会内部からも圧力を受けた。
- ^ ただし、伯爵以下の議員については7年に1度互選が行われて、その代表が議員となることになっていた。
- ^ 満30歳以上の男子で、貴族院令第1条で「国家ニ勲労アリ又ハ学識アル者ヨリ特ニ勅任セラレタル者」から定員は125名以内で、勅選された。終身議員。
- ^ 満30歳以上の男子で、直接国税納税額の多い者を任期は7年で互選。
- ^ 貴族院令の第4次改正(第50回帝国議会)で設けられた。帝国学士院の会員で満30歳以上の男子の中から4名を、互選で選出する。任期は7年である。
- ^ 貴族院令の第5次改正(第86回帝国議会)で朝鮮及び台湾住民の政治的処遇を改善するため、朝鮮及び台湾に在住する満30歳以上の男子で名望あるもの10人以内を勅選で、任期は7年。敗戦に伴い、第6次改正(第90回帝国議会) で廃止された。
- ^ 1891年(明治24)2月20日、天野若円(大成会)が提出した、「衆議院が大日本帝国憲法第67条関連の予算削減を審議する際には、事前に政府の了解を得る」という決議が衆議院で可決され、政府もこれを了承した。これは一見、帝国議会における予算削減の権限を自主的に制約したようにもみえるが、裏を返せば、予算先議権がある衆議院と政府が合意した予算削減に貴族院がさらに修正を加える余地を奪うもので、衆議院が予算審議における貴族院に対する優越権を、議会慣習の形で事実上確立したものであった。
- ^ 議会で成立した議員提案の法律案が天皇の裁可を得られずに成立しなかった例はない。
- ^ 5条により、「立法権は天皇にあり、帝国議会は協賛機関に過ぎない」とみるか、「帝国憲法37条により立法に協賛を『要ス』点に着目して、実質的立法機関であった」と見るかで、帝国議会への評価は異なる。前者は翼賛政治体制時に象徴的にみられ、後者は大正デモクラシー期に最も強く現れた。
- ^ ただし、緊急勅令は議会の次の会期に承諾を得なければ将来に向かって効力を消失し、非常大権は帝国憲法下では一度も発動されなかった。
- ^ 予算の審議は衆議院の先議(65条)であったが決算は政府から両院に提出され、各院は別々に決議し、決議したものは他の院に送付されない。よって、両院の決議が異なることがあった。
出典
- ^ a b c d e f g h i 百瀬孝 1990, p. 36.
- ^ a b 百瀬孝 1990, p. 38.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 40.
- ^ a b c d 百瀬孝 1990, p. 37.
- ^ 旺文社日本史事典 三訂版『憲政の常道』 - コトバンク
- ^ 旺文社日本史事典 三訂版『挙国一致内閣』 - コトバンク
- ^ 「帝国議会の運営と会議録をめぐって」大山英久(国立国会図書館調査及び立法考査局調査企画課No.652)2005年(平成17)5月[1]PDF-P.9
- ^ 大山英久「帝国議会の運営と会議録をめぐって」[2](『レファレンス』 No.652、2005年5月、国立国会図書館)
- ^ a b c d e f 石倉賢一, 「国会会議録について」『大学図書館研究』 1984年 25巻 p.39-44, doi:10.20722/jcul.769、2021年5月19日閲覧。
帝国議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:46 UTC 版)
帝政期の帝国議会(Reichstag)における社民党の党勢。 選挙制度は小選挙区人口を無視して農村の比重を重くするという保守政党に著しく有利になる選挙区割りを取っていた。そのため都市労働者を基盤とする社民党は実際の得票率より大幅に少ない議席しか取れなかった 選挙権は25歳以上の男性 選挙日得票得票率得票順位獲得議席議席占有率議席順位1890年2月20日(ドイツ語版) 1,427,300票 19.7% 第1党 35 / 397 8.8% 第5党 1893年6月15日(ドイツ語版) 1,786,700票 23.3% 第1党 44 / 397 11.1% 第4党 1898年6月16日(ドイツ語版) 2,107,100票 27.2% 第1党 56 / 397 14.1% 第2党 1903年6月16日(ドイツ語版) 3,010,800票 31.7% 第1党 81 / 397 20.4% 第2党 1907年1月25日(ドイツ語版) 3,259,000票 28.9% 第1党 43 / 397 10.8% 第4党 1912年1月12日(ドイツ語版) 4,250,400票 34.8% 第1党 110 / 397 27.7% 第1党 出典:Nohlen & Stöver
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帝国議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 09:43 UTC 版)
帝政期の帝国議会(Reichstag)における中央党の党勢。 選挙制度は小選挙区人口を無視して農村の比重を重くするという保守政党に著しく有利になる選挙区割りを取っていた。そのため中央党は得票より4分の1多い議席を獲得していた 選挙権は25歳以上の男性 選挙日得票得票率得票順位獲得議席(総議席)議席占有率議席順位1871年3月3日(ドイツ語版) 724,000票 18.6% 第2党 63議席(382議席) 15.7% 第2党 1874年1月10日(ドイツ語版) 1,446,000票 27.9% 第2党 91議席(397議席) 22.9% 第2党 1877年1月10日(ドイツ語版) 1,341,300票 24.8% 第2党 93議席(397議席) 23.4% 第2党 1878年7月30日(ドイツ語版) 1,328,100票 23.1% 第2党 94議席(397議席) 23.7% 第2党 1881年10月27日(ドイツ語版) 1,182,900票 23.2% 第1党 100議席(397議席) 25.2% 第1党 1884年10月28日(ドイツ語版) 1,282,000票 22.6% 第1党 99議席(397議席) 24.9% 第1党 1887年2月21日(ドイツ語版) 1,516,200票 20.1% 第2党 98議席(397議席) 24.7% 第2党 1890年2月20日(ドイツ語版) 1,342,100票 18.6% 第2党 106議席(397議席) 26.7% 第1党 1893年6月15日(ドイツ語版) 1,468,500票 19.1% 第2党 96議席(397議席) 24.2% 第1党 1898年6月16日(ドイツ語版) 1,455,100票 18.8% 第2党 102議席(397議席) 25.7% 第1党 1903年6月16日(ドイツ語版) 1,875,300票 19.7% 第2党 100議席(397議席) 25.2% 第1党 1907年1月25日(ドイツ語版) 2,179,800票 19.4% 第2党 105議席(397議席) 26.4% 第1党 1912年1月12日(ドイツ語版) 1,996,800票 16.4% 第2党 91議席(397議席) 22.9% 第2党 出典:Nohlen & Stöver
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帝国議会
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「第1回衆議院議員総選挙」の記事における「帝国議会」の解説
第1帝国議会 会期:1890年(明治23年)11月25日 衆議院議長選挙 - 議会で3名候補者を選出し上奏、天皇がうち1名を勅任する。 第1回投票(連記投票、投票者数:292、過半数:147)中島信行(弥生倶楽部):134票 津田真道(大成会) :111票 河野広中(弥生倶楽部):102票 楠本正隆(無所属) :084票 芳野世経(大成会) :081票 松田正久(弥生倶楽部):066票 第1回決選投票(連記投票、投票者数:292、過半数:147)中島信行(弥生倶楽部):161票 津田真道(大成会) :151票 松田正久(弥生倶楽部):141票 楠本正隆(無所属) :138票 河野広中(弥生倶楽部):123票 芳野世経(大成会) :101票 第2回決選投票(単記投票、投票者数:187、過半数:144)松田正久(弥生倶楽部):153票 楠本正隆(無所属) :134票 選出された中島、津田、松田の中から最多得票の中島が議長に勅任された。 衆議院副議長選挙 - 議会で3名候補者を選出し上奏、天皇がうち1名を勅任する。 第1回投票(連記投票、投票者数:283、過半数:142)津田真道(大成会) :169票 芳野世経(大成会) :135票 楠本正隆(無所属) :129票 松田正久(弥生倶楽部):117票 河野広中(弥生倶楽部):113票 島田三郎(議員集会所):060票 第1回決選投票(連記投票、投票者数:282、過半数:142)楠本正隆(無所属) :174票 芳野世経(大成会) :127票 河野広中(弥生倶楽部):119票 松田正久(弥生倶楽部):118票 第2回決選投票(単記投票、投票者数:280、過半数:141)芳野世経(大成会) :141票 河野広中(弥生倶楽部):137票 選出された津田 、楠本 、芳野 の中から第1回投票で最多得票の楠本 が副議長に勅任された。
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帝国議会
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「ドイツ=ハノーファー党」の記事における「帝国議会」の解説
帝政期の帝国議会(Reichstag)におけるドイツ=ハノーファー党の党勢。 選挙制度は小選挙区 選挙権は25歳以上の男性 選挙日得票得票率獲得議席(総議席)議席順位1871年3月3日(ドイツ語版) 52,000票 1.4% 6議席(382議席) 第8党 1874年1月10日(ドイツ語版) 73,000票 1.4% 4議席(397議席) 第9党 1877年1月10日(ドイツ語版) 85,000票 1.6% 4議席(397議席) 第10党 1878年7月30日(ドイツ語版) 100,000票 1.7% 10議席(397議席) 第8党 1881年10月27日(ドイツ語版) 86,700票 1.7% 10議席(397議席) 第10党 1884年10月28日(ドイツ語版) 96,400票 1.7% 11議席(397議席) 第9党 1887年2月21日(ドイツ語版) 112,800票 1.5% 4議席(397議席) 第9党 1890年2月20日(ドイツ語版) 112,700票 1.6% 11議席(397議席) 第8党 1893年6月15日(ドイツ語版) 101,800票 1.3% 7議席(397議席) 第12党 1898年6月16日(ドイツ語版) 105,200票 1.3% 9議席(397議席) 第11党 1903年6月16日(ドイツ語版) 94,300票 1.0% 6議席(397議席) 第11党 1907年1月25日(ドイツ語版) 78,200票 0.7% 1議席(397議席) 第14党 1912年1月12日(ドイツ語版) 84,600票 0.8% 5議席(397議席) 第10党 出典:Nohlen & Stöver
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帝国議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)
詳細は「帝国議会 (神聖ローマ帝国)」を参照 帝国議会(Reichstag/Reichsversammlung)は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(Hofrat)や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の金印勅書によって成文化された。帝国議会は三つの部会に分かれている。 第一部会である選帝侯部会(Kurfürstenrat)は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される。 第二部会の諸侯部会(Fürstenrat)は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている 第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される都市部会(Städtetag)であり、シュヴァーベンとラインの二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャスティングボートを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している。
※この「帝国議会」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
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帝国議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 21:15 UTC 版)
帝国議会は25歳以上の成人男性が有する普通選挙権によって選出された議員団によって構成され、秘密投票が保障されていた。
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