帝政期
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帝政を確立したアウグストゥスは既存の軍団を一旦解散させて大規模な再編成に着手し、最終的に帝国全土に28個の軍団が編成された。帝政前期(プリンキパトゥス)の間も軍組織の改革は行われた。アウクシリアは変わらずコホルス単位で運用されていたが、正規軍の側も軍団単位よりもコホルスで行動する事が多くなった。それぞれのコホルスは軍団(レギオ)と同じく、アウクシリアと協調することで単独の戦闘が可能であったし、必要であれば別のコホルスと合流する事で対処すればよかった。軍団単位での行動を絶対としていた時代に比べ、こうしたコホルス単位での行動は組織的な柔軟性を生み、長期間にわたってローマ軍が広大な国境線を守るのに寄与した。 ガッリエヌス(253年 - 268年)の時代に行われた軍制改革により、ローマ軍は後期帝政の時勢に合わせて大きな変化を迎える。それまでレギオやコホルスの歩兵による城壁・城砦での防戦を基本としていた国境防衛は、コミタテンセス(野戦軍)と呼ばれる騎兵中心の機動戦力に道を譲った。歩兵部隊は国境から離れた内地での予備戦力(リミタネイ)として待機し、国境が破られた後に都市を防衛する事を新たな任務とした。 コミタテンセスは騎兵部隊を中核に、それに随伴する歩兵部隊から編成された。兵員は一部隊につき1200名の歩兵と600名の騎兵と定められたが、多くの記録は歩兵800名と騎兵400名程度が精々であった。またコミタテンセスは本国民や属州民といった従来の層だけでなく、フォエラディとして知られる「蛮族の傭兵」も含められるようになっていた。西暦400年までにはフォエラディはローマ軍における制度として完全な定着を見て、軍備として備えられた。更には蛮族の同盟国からの援軍にも依存するようになり、こうした部隊はローマ軍の将軍に率いられる一方、分隊レベルでは蛮族の指揮官が迎えられていた。 指揮権という面でも、ローマは王政から共和制・帝政まで多様な変化を続けた。王政の下で軍はローマ王によって導かれ、共和制初期においては任期制の執政官2名が交代で指揮を執っていた。後期共和制では元老院議員の主流層がクァエストル(財務官)として軍指揮官の代理を務め、それからプラエトル(法務官)として正規の軍指揮官を務めた。また広大化した領土の内、属州に関しては総督が軍指揮官を勤める事も多かった。帝政確立の為に軍を恒久的に指揮下に置く事を望んだアウグストゥスの下で、皇帝は軍団指揮官の長として彼らに服従を強きつつ、自らが選抜したレガトゥス(幕僚)を元老院から送り込む事を通じて統制化に置こうとした。幕僚達は属州で総督の統治を補佐し、その上で自らの行政区に配置された駐屯軍に対して影響力を行使した。ディオクレティアヌスによる治世の前後からこうした慣習は棄却された。幕僚達は軍に対する干渉を禁じられ、複数の行政区に配置された部隊はドゥクスという地方司令官職に委ねられた。ドゥクスにはもはや元老院の貴族達と関係なく、軍の将軍達が実績に応じて任命された。ドゥクスに就任した者はその権限を用いてしばしば帝位を簒奪した為、帝政末期のローマ(特に西ローマ帝国)における混乱に拍車をかけた。
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帝政期
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初期のローマ帝政(プリンキパトゥス、元首政)は共和制の枠組みを乗っ取ったようなもののため、移行した後も2名ずつ執政官は置かれ続け、執政官及び経験者は依然高い地位であり続けた。また皇帝と共に就くものはその後継候補者として大きな意味を持った。しかし541年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって官職としては廃止され、名誉的な爵位の名前(7世紀にギリシャ語が公用語になって以降は、ギリシャ語の「ヒュパトス」)として残るのみとなった。
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帝政期
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帝政期に入ると、ケンススの実施や風俗の監視といった任務は元首の仕事となった。
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帝政期
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?1871年 - 1918年の帝政時代の国旗 ?1871年 - 1903年の海軍の軍艦旗 ?1903年 - 1918年の海軍の軍艦旗 ?1871年 - 1892年の海軍の戦闘旗 ?1892年 - 1903年の海軍の戦闘旗 ?1903年 - 1918年の海軍の戦闘旗 当初のドイツ国(ドイツ帝国)の国旗は、北ドイツ連邦のものをそのまま継承している。
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帝政期
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ルキウス・アエリウス・セイヤヌス:ティベリウス帝のプラエフェクトゥス・プラエトリオ。
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