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ヴェネツィア共和国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/22 13:02 UTC 版)
(アドリア海の女王 から転送)
- ヴェネツィア共和国
- Repùblica de Venessia
Repubblica di Venezia -
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697年 - 1797年
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(国旗) (国章) 
1796年時点でのヴェネツィア共和国領土。イオニア海のヴェネツィア領は描かれていない。-
公用語 ヴェネツィア語、ラテン語、イタリア語 首都 ヴェネツィア
最も高貴なる共和国ヴェネツィア(ヴェネツィア語: Serenìsima Repùblica de Venessia、イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(Repùblica de Venessia、Repubblica di Venezia)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に渡り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。
目次 |
年表
詳細は「ヴェネツィア共和国の歴史」を参照
- 697年 - 伝承では、最初のドージェパオルッチョ・アナフェストが選出されたといわれる。
- 726年 - 歴史的に確認されている最初のドージェオルソ・イパートが東ローマ帝国から承認される。
- 803年 - パクス・ニケフォーリにより、ヴェネツィアが東ローマ帝国領でありつつも事実上独立していることが確認される。
- 810年 - イタリア王ピピンの侵攻を撃退する。
- 828年 - 福音記者マルコの遺体をアレクサンドリアから運び、守護聖人とする。
- 991年 - バシレイオス2世から金印勅書を獲得し、東ローマ帝国内での免税特権を得る。
- 11世紀初頭 - ダルマチアを征服し、アドリア海の制海権を確保する。
- 11世紀 - アレクシオス1世コムネノスから金印勅書を獲得し、名目上も独立を果たす。
- 11世紀 - アジアから運ばれる商品を中継することで莫大な富を築く。
- 1099年 - 第1回十字軍に参加し、エルサレム王国における名目上の自治権を得る。
- 1204年 - 第4回十字軍に参加しコンスタンティノポリスを占領する。クレタなど獲得する。
- 1258年,1295年,1299年 - ジェノヴァ共和国と衝突する。
- 1284年 - 貨幣「ドゥカート」を発行する。
- 1290年 - ハンガリー国王にヴェネツィアの名家モロシーニ家出身のエンドレ3世が即位する。
- 1310年 - 元首ピエトロ・グラデニーゴによる改革に反発するクーデターが発生(失敗)、以後共和国の政治は事実上の寡頭政に移行する。
- 1350年から1381年 - ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争に勝利する。
- 1355年 - 元首マリーノ・ファリエロが王政を目指しクーデターを起こすも失敗し死刑になる。
- 1408年 - ハンガリー王国からダルマチアを奪取する。
- 1423年 - テッサロニキを獲得する。
- 1425年 - ミラノ公国からアッダ川までの領土を奪取する。
- 1454年 - ローディの和
- 1463年から1479年 - オスマン帝国との戦争によりネグロポンテなどを失う。
- 1482年 - フェラーラ戦争で勝利する。
- 1489年 - キプロス島を獲得する。
- 1503年 - アプリア港を獲得する。
- 1508年から1516年 - カンブレー同盟戦争
- 1538年 - プレヴェザの海戦でオスマン帝国に敗北する。
- 1571年 - オスマン帝国により、キプロス島が陥落する。レパントの海戦で勝利するも、キプロス奪還には失敗する。
- 1613年から1617年 - オーストリアとの戦争
- 1628年 - マントヴァ継承戦争
- 1630年頃 - 黒死病の流行
- 1644年から1669年 - オスマン帝国との戦争によりクレタを失う。
- 1684年から1699年 - モレア戦争によりダルマチアおよびギリシアの領土をわずかに回復する。
- 1797年 - ナポレオン・ボナパルトに降伏する。
政府
初期のヴェネツィア共和国では、ドージェが独裁的な権限を持っていた。しかし後にドージェは就任の際に宣誓を求められるようになり、結果として権力は大評議会と共有されることになった。大評議会の定足数は480であり、ドージェも大評議会も互いに相手を無視して決定を行うことはできなかった。
1175年にリアルトの有力貴族が小評議会を設立した。これは6人から成るドージェの顧問である。また、1179年には3人から成る最高裁判所Quarantiaが設けられた。これらは1223年にシニョリーア(Signoria)として統合された。これはドージェを含めて10人で構成され、政府の中枢であった。ドージェが死亡した際には、その葬儀で「ドージェは死んだ。しかしシニョリーアは健在である」と述べられた。また、2人から成るサピエンテス(sapientes)も設立され、後に6人に拡張された。これは他の集団と合わせてコッレージョ(collegio)を構成し、政府の実行部門となった。1229年に設立されたコンシリオ・デイ・プレガディ(Consiglio dei Pregadi)は貴族院のようなものであり、大評議会により選出された60名の議員が構成した[1]。これらの機関のために、ドージェの実権は限定的なものとなり、実際の職権は主として大評議会に委ねられた。1335年に十人委員会が設立され、政府の中枢として、非公開の活動を行った。1600年頃には、十人委員会の影響力が大評議会を凌ぐようになり、その権限は縮小された。
トマス・アクィナスは、ヴェネツィア共和国の政体は共和制とドージェによる君主制、そして貴族院による貴族政治と大評議会による民主政治の複合政体であると考えた[2]。また、ニッコロ・マキャヴェッリは、君主論でヴェネツィアを共和制国家に分類した[3]。
1454年に3人の調査官からなる情報機関が設立され、諜報、防諜、および国内監視のための情報網を充実させた。これは非合法な政体変革の企て等を阻止することが目的であった。調査官の一人は赤い外套を着用することからイル・ロッソ(赤い男)と呼ばれ、ドージェの顧問により任命された。もう一人はイ・ネグリ(黒い男)と呼ばれる黒い外套の人物であり、十人委員会に任命される。この情報機関は、徐々に十人委員会の影響下に置かれるようになった。[1]
1556年にprovveditori ai beni incultiが設立され、農業技術や、農業技術開発への個人投資が促進された。これは、16世紀の穀物価格上昇を受けてのことである。
- ^ a b Catholic Encyclopedia, "Venice", p. 602.
- ^ The Political Ideas of St. Thomas Aquinas, Dino Bigongiari ed., Hafner Publishing Company, NY, 1953. p. xxx in footnote.
- ^ Niccolò Machiavelli, The Prince, trans. & ed. by Robert M. Adams, W.W. Norton & Co., NY, 1992. Machiavelli Balanced Government
- ^ Miranda Mowbray and Dieter Gollmann. “Electing the Doge of Venice: Analysis of a 13th Century Protocol”. 2007年7月12日閲覧。
固有名詞の分類
| かつて存在した共和国 |
ベルギー合衆国 ミネルバ共和国 ヴェネツィア共和国 蘭芳公司 ソビエト連邦 |
ヴェネツィア共和国に関連した本
- 海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈下〉 (中公文庫) 塩野 七生 中央公論社
- 海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈上〉 (塩野七生ルネサンス著作集) 塩野 七生 新潮社
- 海の都の物語〈5〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫) 塩野 七生 新潮社
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