十人委員会
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十人委員会 (ラテン語: decemviri legibus scribundis、法制定十人委員会)とは、共和政ローマにおいてプレブス(平民)の政治的な要求の高まりを契機として紀元前451年に設置された政治機関である。それまでの制度に代わって国政を取り仕切る権限が付与され、法の成文化、訴訟の裁定、祭儀の運営を行った。単に「十人委員」と言われることもある。他の十人委員会についても付記する。
- 1 十人委員会とは
- 2 十人委員会の概要
- 3 メンバー
- 4 他の十人委員会
十人委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:23 UTC 版)
「クィントゥス・ファビウス・ウィブラヌス (紀元前467年の執政官)」の記事における「十人委員会」の解説
紀元前450年、アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスが、クィントゥス・ファビウスを第二次十人委員会の委員に選んだ。十人委員会は執政官に代わってローマの全権を有する会議であり、最初の成文法である十二表法を設定した。この十人委員会はその後独裁的に振舞うようになったが、リウィウスによるとクィントゥス・ファビウスは元々政治にも軍事にも秀でた男であったのが、アッピウス・クラウディウスに篭絡され、不誠実な男となっていたという。翌紀元前449年、平民の十人委員会への怒りが積もりに積もっており、外征によってそれを紛らわせようとアッピウス・クラウディウスとクィントゥス・ファビウスが軍を率いる事となり、ファビウスはサビニ人と戦ったが兵士は全くやる気がなく軽く敗退したという。
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十人委員会
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「ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス (紀元前462年の執政官)」の記事における「十人委員会」の解説
紀元前451年、おそらく彼はローマ最初の十人委員会の一員に選ばれた。十人委員会は、ローマ最初の成文法である十二表法(初年度はそのうちの十の法)を制定し、定説によれば、1年間穏やかにローマを統治した。しかし、古代の記録では名前の不一致が見られるために、実際に委員であったかは不明である。カピトリヌスのファスティ(執政官の名前が記録された石版)とシケリアのディオドロスはプラエノーメン(個人名、ファーストネーム)を「スプリウス」としているが、リウィウスは「ルキウス」、ハリカルナッソスのディオニュシオスは「ティトゥス」としている。十人委員のほとんどは執政官経験者であるため、これに合致するのはティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスと ガイウス・ウェトゥリウス・キクリヌス(紀元前455年の執政官)のみである。
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十人委員会
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「ガイウス・ユリウス・ユッルス (紀元前482年の執政官)」の記事における「十人委員会」の解説
執政官を務めてから35年後の紀元前451年、ローマには執政官に代わって十人委員会が設立された。委員会の目的の一つは、それまで成文法がなかったローマに、その伝統を基本としながらもギリシア式の成文法を制定することであった。委員となったのはその年の執政官選挙で当選していたアッピウス・クラウディウス・クラッススとティトゥス・ゲヌキウス・アウグリヌスに加え、執政官経験者8人であり、ユッルスもこの一員に選ばれた。このクラッススは紀元前482年の執政官選挙でユッルスと戦った人物である。紀元前451年、十人委員会はローマ最初の成文法十箇条を作成し、全会一致で承認されている(残り二箇条が紀元前450年に追加され、十二表法となる)。 十人委員会はかなりの権力を持っていたにも関わらず、その政策は穏健で民衆と共に働くという意思を見せた。ユッルスの下に殺人罪の判決が持ち込まれたときがその最たる例である。プブリウス・セスティウスという人物(十人委員にも同名の人物がいるが別人)の家で埋められた死体が発見された。セスティウスは明らかに有罪で、ユッルスは判決を下す権利を有していたが、自身が訴追される可能性があったにも関わらず、ユッルスはこれを裁判に委ねた。 年末に十人委員会は解散され、政務は翌紀元前450年の第二次十人委員会に引き継がれた。第一次から留任したのはクラッススのみであったが、彼の目的は直ぐに露わになった。クラッススは実質的に十人委員会を支配し、プレブスに都合の良くない新たな二条の法を追加した。クラッススは紀元前449年の選挙にも当選したため、プレブスは十人委員会に反抗し、アウェンティヌスの丘に立て篭もった。そこは紀元前494年にもプレブスが立て篭もり、護民官の設立を認めさせた場所であった。交渉のために三人の使節が派遣されたが、ユッルスはその一人に選ばれている。十人委員会は解散され、執政官による政府が復活した
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