ごみん‐かん〔‐クワン〕【護民官】
護民官
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護民官
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護民官(ごみんかん、ラテン語: tribūnus plēbis トリブーヌス・プレービス)は、紀元前494年に平民(plēbs プレブス、プレープス)を保護する目的で創設された古代ローマの公職である。プレブスのみが就くことのできる公職であって、身体不可侵権などの特権をもった。近現代において新聞名にも使われる「トリビューン(tribune)」は、この官職に由来する。
- ^ 上記のように独裁官の決定だけは護民官の拒否権が通用しないが、独裁官は臨時職であり、またカエサル暗殺後の紀元前44年4月にマルクス・アントニウスの提案で制定されたアントニウス法により独裁官の官職は廃止された。このため、常設職・臨時職を問わずアウグストゥスの拒否権が通用しない官職は存在しないことになる。
- ^ ローマの官職は基本的に複数名(平時の最高位である執政官でも2名)が選任され、下位の政務官や同僚の決定に対して拒否権を行使できる。これに対しアウグストゥスの護民官職権は同僚がいないため、アウグストゥスの決定に対して拒否権を行使できる官職は存在しないことになる。
護民官
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「ガイウス・ノルバヌス」の記事における「護民官」の解説
ノルバヌスは、その政治歴において、「新市民」であるがゆえにノビレス(新貴族)からの抵抗にあっていた。これがノルバヌスがポプラレス(民衆派)となった主な理由と思われる。ノルバヌスが最初に記録に登場するのは紀元前103年である。このとき彼は護民官であり、同僚護民官のルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの同盟者でもあった。この年の主な出来事は、紀元前106年の執政官で、元老院でも大きな影響力を持っていたパトリキ(貴族)であるクィントゥス・セルウィリウス・カエピオの裁判であった。2年前の紀元前105年に、カエピオはアラウシオの戦いでゲルマン人に大敗していた。ノルバヌスはこれを口実にカエピオを告訴した。 その法的根拠はサトゥルニヌスが成立させた下位反逆罪に関するアップレイウス法(Lex Appuleia de maiestate minuta)であった。これはローマの権威を傷つけることを罪とみなす法律で、特別審問所(quaestio extraordinaria)によって審理された。審判人たちはカエピオに死刑判決を出すことを公然と議論した。おそらくノルバヌスは、カエピオを敗北の責任だけでなく、「トロサの黄金」の消失に関わる横領罪でも告訴したと思われる(Lex Norbana de auri tolosani quaestione)。この裁判はローマ内部の権力闘争も影響を与えていた。訴追人はカエピオを憎むエクィテス(騎士階級)や、元老院の権力を減らそうとするデマゴーグに支持されていた。何人かの元老院議員はカエピオを弁護した。キケロはウルバヌスの「暴力、排斥、石打ち、残酷な法廷権力の行使」を書いている。元老院筆頭であったマルクス・アエミリウス・スカウルスは被告の弁護を行ったが、石を投げられて頭を負傷した。ノルバヌスの同僚であった二人の護民官、ティトゥス・ディディウスとルキウス・アウレリウス・コッタは拒否権を行使しようとしたが、強制的に議場から排除された。カエピオは敗北の責任を問われて有罪となった。またローマから追放されただけでなく、彼の財産は全て競売にかけられた。ティトゥス・リウィウスによれば、このような個人資産の差し押さえが行われたのは、共和政ローマの歴史の中で初めてのことであった。ウァレリウス・マクシムスは、カエピオは死刑を宣告されて処刑されたと主張している。
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護民官
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「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前57年の執政官)」の記事における「護民官」の解説
紀元前63年の夏、ネポスはローマに戻り、護民官に立候補した。実質的にはポンペイウスの代理人であった。ポンペイウスはオリエントで彼が出した命令の承認と退役軍人への土地分配を行うために、高位政務官に彼の絶対的な支持者を必要としていた。ネポスは選挙に勝利した。しかし同僚護民官の一人にマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスがおり、カトはネポスに対抗するために特別に出馬していた。 護民官就任早々、ネポスと紀元前63年の執政官キケロが対立した。1月1日は新しい執政官の就任日であるが、この日に前年の執政官が最終演説を行うことが慣例となっていが。キケロも最後の演説を行う予定で、その内容はルキウス・セルギウス・カティリナの陰謀の共謀者達を処刑したことに関するものであったが、ネポスは護民官特権である拒否権を行使して、前日この演説を禁止したのである。キケロによれば、これは「執政官であり祖国の守護者である私に対し、最も不誠実な市民が大したことがな役職に就いていたとしても、受けることがないような侮辱」であった。キケロは相互の友人を通じてネポスと交渉をしようとしたが、ネポスは拒否した。これを受けて元老院と民会の双方で激しい議論が展開された。ネポスは敵対的な態度を示し、キケロは彼の法案に反対した。これに関して兄のメテッルス・ケレルはキケロに非難の書簡を出し、対してキケロは自分を守っただけで、ケレルとの友情は不変であり、一度も損なわれたことなどないことや、それがあればネポスへの憎しみはすぐに消えるなどと書いた長々とした返信をしている。 ネポスは、東方で戦っているポンペイウスを軍と共にイタリアに緊急召集し、当時エトルリアに軍を集めていたカティリナを討伐する権限を与えることを提案した。プルタルコスは、ネポスは義弟に絶対権力を与えたかったと主張している。ネポスの提案はは、当時プラエトル(法務官)であったカエサルが支持し、元老院を重視するカト・ウティケンシスは反対した。民会での投票日には、衝突が生じ、ネポスは剣闘士、奴隷、「外国の傭兵」をフォルムに引き連れて来た。彼が法案を発表しようとしたとき、カトは彼の手から巻物を奪い取り、もう一人の護民官であるクイントゥス・ミヌキウス・テルムスがネポスの口を塞いだ。結果、暴動が起こり、会議は解散した。その後、元老院は非常事態を宣言した。ネポスは罷免され、「カトの暴政とポンペイウスに対する陰謀から逃れる」ため、東方へと向かった。
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護民官
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「マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)」の記事における「護民官」の解説
紀元前91年、護民官に選出されると、審問所の審判人に関する法(Lex Livia iudiciaria)、土地分配法(Lex Livia agraria)、同盟市に市民権を付与する提案(Rogatio Livia de civitate sociis danda)などを打ち出した。ティトゥス・リウィウスの概略によれば、野心家の彼は、審判人の地位をエクィテスから奪おうとしていた元老院に協力して人々を煽ったとし、同盟市にローマ市民権を与える代わりに彼の法案成立に協力させたものの、約束を破ったためにイタリック人が怒り、同盟市戦争の原因となったために元老院から見放され、暗殺されたという。 彼は、長年にわたってプリンケプス・セナトゥスに指名されていたマルクス・アエミリウス・スカウルスの派閥(factio)に属していた。おじのプブリウス・ルフスは紀元前92年、恐喝審問所(quaestio de repetundis)の属州における不当利得返還裁判で有罪判決を受けており、これがドルススの審判人構成員改革の動機で、スカウルスの支持を得ていたと考えられている。この派閥には、他にも雄弁家で知られるルキウス・リキニウス・クラッススらが属しており、ドルススの巧妙な立法には彼らサポートがあったと思われる。
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護民官
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「ガイウス・グラックス」の記事における「護民官」の解説
詳細は「グラックス兄弟#ガイウスの改革」を参照 紀元前123年の護民官に選出された。ティベリウスの弟ということで選挙戦ではイタリア中から人々が集まり支持を訴えたという。更にこの年の夏の選挙でも、多くの人々の支持を集めた。ガイウスは兄と同じ轍を踏まないよう騎士階級を味方につけ改革を行おうとした。 ガイウスは、兄が成立させながらその後形骸化してしまったセンプロニウス農地法の復活に加え、穀物の価格を統制する法案や、市民の軍役年数に制限を加える法案を成立させようとした。また司法に関しても元老院のみで構成されていた審問所の審判人(陪審員)をエクィテスに広げようと試み、ローマ市民権をラテン同盟都市にも広げようという構想を持っていたため、元老院から反発を受けた。 翌紀元前122年の護民官に選出され、同僚にマルクス・リウィウス・ドルススやマルクス・フルウィウス・フラックス (紀元前125年の執政官)も当選している。ドルススはガイウスの改革法案を阻止し、更に彼よりも魅力的な法案を示してガイウスから支持層を奪っていった。その結果、元老院とノビレスへのプレブス(平民)の反感も薄れていったという。ガイウスは護民官再選にも失敗した。 ガイウスは保守的な執政官ルキウス・オピミウスに法案を潰され、業を煮やして過激な行動に出てしまい、それを口実に元老院はガイウスとその支持者に対し、元老院最終勧告を出した。奴隷の機転でガイウスは一旦は逃げ遂せるが、敵対者に捕まりそうになり、別の奴隷に自分を殺すよう命令。ガイウスは死亡、その奴隷も自ら命を絶ち、ガイウスの支持者たち3,000人が殺された。プルタルコスによると、切り取られたガイウスの首はオピミウスの手の者によって持ち去られ、賞金と交換された。頭の重さと同等の金と交換する条件だったため、頭には鉛が詰められていたという。 ガイウスはコロニア・ユノニア建設のため70日アフリカに滞在したとの記録があるが、プルタルコスとアッピアノスとでその時期に食い違いがあり、夏頃行われた可能性が高い護民官選挙前ではないかと考えられている。この不在期間中、ドルススの敵対政策に対応できなかったガイウスは支持を失っていき、その結果彼の暗殺には元老院だけでなく、平民も加わることになったと言える。
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護民官(紀元前59年)
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「プブリウス・ウァティニウス」の記事における「護民官(紀元前59年)」の解説
ウァティニウスの次の記録は、紀元前59年の出来事に関するもので、彼はそのとき護民官であった。同年の執政官はポプラレス(民衆派)のカエサルと、オプティマテス(門閥派)のマルクス・カルプルニウス・ビブルスであり、お互いに敵対していた。護民官も同じく対立しており、ウァティニウスとガイウス・アルフィウス・フラウィウスはカエサルを支持、他方グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス、クィントゥス・アンハリウスとガイウス・ファンニウスはビブルスを支持した。法務官のクィントゥス・フフィウス・カレヌスはカエサル支持であった。門閥派のキケロは、後のロストラでの演説『ウァティニウスに対する反論』において、当時の政治闘争のいくつかのエピソードを紹介している。特に、民会でカエサルの農地法案の議論の日に、ビブルスとその支持者はフォルムに入れなかった。「ビブルスのリクトル(執政官の護衛)は攻撃されてファスケス(儀仗用の斧)は折られ、続いて石や手投げ矢が飛び交った」。キケロは、この暴動はウァティニウスによって組織されたと主張する。 その後(おそらくは10月の初め)、所謂「ウェッティウス裁判」が行われた。ルキウス・ウェッティウスという人物が、民会においてグナエウス・ポンペイウス暗殺の陰謀があると証言したのであるが、その際に共謀者として、若い貴族達(ガイウス・スクリボニウス・クリオ、マルクス・ユニウス・ブルトゥス、ルキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウッルス、コルネリウス・レントゥルス)や高名な政治家(ルキウス・コルネリウス・レントゥスル・ニゲル、ルキウス・リキニウス・ルクッルス、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス、マルクス・カルプルニウス・ビブルス)が含まれていた。ウェッティウスによれば、あるリクトルがその秘密を漏らしたとのことであったが、誰もこれを信じるものはいなかった。その後直ぐにウェッティウスは牢獄で死亡したため、結論は出なかった。これはレントゥス・ニゲルを陥れるためにウァティニウスが仕組んだことではないかとの憶測が流れた。3年後に、キケロはウァティニウスがこの陰謀をでっち上げ、続いて口封じにウェッティウスを暗殺したと決め付けている。 紀元前59年の終わりに、ウァティニウスはある法案を提案しすぐに成立させている。この「ウァティニウス法」(Lex Vatinia de provincia Caesaris)は後のローマの歴史に大きな影響を与えることになる。この法によって、カエサルは執政官任期の完了後にガリア・キサルピナ属州とイリュリクム属州の総督を5年間務めるめることなり、そこで絶大な権力を握った。翌年にはそこで蓄えた力を利用してガリア戦争を開始する。
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護民官
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「マルクス・リウィウス・ドルスス」の記事における「護民官」の解説
ドルススは紀元前122年に護民官に就任するが、同僚護民官の一人に前年から連続当選して過激な改革を進めていたグラックス弟がいた。おそらく、ドルススはグラックスの政敵達から改革を阻止することを期待されて推薦されたものと思われる。プルタルコスはドルススの当選後に門閥派が彼を告訴したとしているが、プルタルコスは全体像をひずめている可能性がある。プルタルコスによれば、ドルススはグラックス弟に対して「重量1ポンド当たり1000ドラクマの銀のイルカを、200ドラクマで購入した」と非難している。 護民官の職権である拒否権を利用して、ドルススはグラックスの法案の実施をあらゆる手段で拒否した。同時にドルススは新しい戦術も採用した。即ち彼自身の改革案を提示したが、この案はより急進的に見えるものであったが現実にはほとんど実行されなかった。これはグラックスの人気を落とすために実施されたものであった。グラックスの案では、新しい2つの植民都市の建設に当たり「最も裕福な階層の市民は、国家のために小額の借地料を支払う」こととなっていたが、ドルススは13の新しい植民都市にそれぞれ3,000人を入植させ、金銭の徴収はしないとした。結局ドルススの法案が成立し、グラックスの人気は落ちた。グラックスが提唱したローマ市民権をラテン同盟都市にも与えるとの法案を無力化するために、ラテン市民に対する体罰を、それが軍務に服している場合であっても、禁止する法案を成立させた。この法案はローマ市民には何の負担にもならないため、ドルススの人気は上がった。グラックスの法案が成立しなかったのは、ドルススが拒否権を行使しために成立しなかったと思割れる。ドルススは民会での演説において、彼の行動は元老院とノビレスの承認を得たものであると繰り返し、市民の支配層に対する感情を改善することに成功した。 ドルススはグラックス派の護民官であるマルクス・フルウィウス・フラックスをスキピオ・アエミリアヌス暗殺の容疑で告訴した。ドルススがフルウィウスを追い詰めているという報告を受け、植民都市コロニア・ユノニアの建設のためアフリカへ赴いていたグラックスもローマに戻らざるを得なくなった。ドルススの行動はオプティマテスの勢力を強めた。グラックスは翌年の選挙に落選し、反乱を起こすが失敗、自決した。 この護民官としての活動のため、ドルススは「元老院の擁護者」 との称号を得た。後に反グラックス派の有力者の何人かが起訴されているが、ドルススはそのような騒ぎに巻き込まれず、その政歴を継続している。
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護民官(紀元前300年)
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「クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の記事における「護民官(紀元前300年)」の解説
ガッルスは同時代の殆どのローマ人とは異なり、エトルリアとギリシア文化に深い造詣があった。ガッルスは愛国的なファビウス氏族と密接な関係があり、およそ半世紀にわたってローマの政治に影響を与えてきた。ガッルスが記録に最初に登場するのは紀元前300年に護民官に選出された際である。 ガッルスは兄弟で同じく護民官であったグナエウスと共に、プレブスが神祇官とアウグル(鳥占官)に就任することを認めた法案を提案したが、この法案ではプレブスが両官職の半数以上を占める事となるため、パトリキからの激しい反発を受けた。反対派の急先鋒であったクラウディウス・カエクスと、プレブス出身のデキウス・ムスとの間で激しい論争が繰り広げられた結果、トリブス民会でオグルニウス法として成立した。この法によりパトリキとプレブスの権利は同一となり、新しい支配階級であるノビレスの形成が加速された。
※この「護民官(紀元前300年)」の解説は、「クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の解説の一部です。
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