暴政とは? わかりやすく解説

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ぼう‐せい【暴政】

読み方:ぼうせい

人民苦しめ暴虐な政治


暴政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)

孫皓」の記事における「暴政」の解説

孫晧帝位就いた当初は、人民哀れみ、官の倉庫開いて貧民救ったり、官女解放して妻のない者に娶わせたり、御苑開いて鳥獣解放するなどの政治行い明君称されたこともあるという。やがて粗暴驕慢人物となり、かつ小心猜疑心強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。濮陽興張布孫晧皇帝にしたことを後悔したが、そのこと孫晧讒言する者があり、11月になって濮陽興張布誅殺された。 12月孫休定陵葬った滕皇后の父の滕牧高密侯に封じ母方叔父の何洪ら3名も列侯叙せられた。 この年に、魏は交阯太守任命して交阯郡派遣した司馬昭が魏の相国となり、呉の降将である徐紹と孫彧を使者として呉に送り降伏勧告させた。 甘露元年265年3月孫晧光禄大夫紀陟五宮中郎将弘璆とを魏への返礼使者送り、徐紹と孫彧とに同行させた。しかし、途中で徐紹が魏を賞讃しているという話を耳にしたので、徐紹を濡須で呼び戻して殺害し一家眷属建安強制移住させた。 秋7月孫晧景皇后朱氏迫害し死においやった人々は死の場所や葬儀やり方から朱氏の死が病死でないことを知り悲しんだという。また、孫晧孫休の4人の子捕らえて呉の小城閉じ込め年長2人殺害した9月西陵督である歩闡の上表により、武昌遷都した。御史大夫丁固右将軍諸葛靚建業守備あたった。 魏への使者となった紀陟弘璆洛陽到着したが、ちょうど司馬昭死去していたところであったので、11月に魏より送り返された。 孫晧武昌に至ると、大赦実行した零陵郡南部分割して始安郡設置し桂陽郡南部分割して始興郡設置した12月、魏が禅譲により滅亡し、晋が成立した宝鼎元年266年正月司馬昭弔問のため、大鴻臚張儼五官中郎将丁忠を晋への使者として送った張儼はその帰途病没した。丁忠は晋が防戦備え怠っているとして、孫晧弋陽への侵攻勧めた孫晧はこの軍事行動について群臣らの評議にかけたところ、鎮西大将軍陸凱反対し、車騎将軍劉纂賛成した孫晧内心では劉纂意見取り上げたいと思っていたが、躊躇しているうちにそのまま沙汰やみとなった8月陸凱左丞相に、万彧右丞相任命した。 冬10月永安山賊の施但らが数千人の徒党集めて孫晧異母弟である永安孫謙脅迫して烏程まで進み孫和の陵にあった楽器や曲奪い取った。施但らが建業にまで至ったときは徒党の数は数万人に膨れ上がっていた。丁固諸葛靚は施但らと牛屯で激しく戦い、施但らを敗走させ、孫謙身柄取り戻したが、孫謙自害した12月孫晧は都を建業戻し衛将軍滕牧武昌守備置いた宝鼎2年267年)春、大赦実行した右丞相万彧長江遡り巴丘の守備就いた。 夏6月顕明宮を建てた。 冬12月孫晧顕明宮に移ってここに起居した。 宝鼎3年268年)春2月左右御史大夫であった丁固孟宗を、それぞれ司空司徒任命した。 秋9月孫晧東関出兵し、丁奉合肥に軍を進めたこの年交州刺史の劉俊・前部督の修則荊州刺史顧容らを交阯侵攻させたが、晋の将の毛炅董元のために敗北し、劉俊・修則2人戦死した。兵は顧容収めて合浦帰還した建衡元年269年春正月、子の孫瑾太子立て、他の2人淮陽王と東平王に封じた。冬10月建衡改元し、大赦行った11月左丞相陸凱死去した監軍虞汜、威南将軍薛珝蒼梧太守陶璜らが荊州より、監軍李勗督軍の徐存らが建安から海路進軍し合浦集結し交阯攻撃しようとした。 建衡2年270年)春、万彧建業帰還した李勗建安の道が通行困難となったため、導将の馮斐を殺害し、軍を引き揚げさせた。 夏4月、左大司馬施績死去した殿中列将の何定が「少府李勗が馮斐をみだりに殺し勝手に軍を帰還させた」と讒言した李勗と徐存の一家眷属皆殺しとなった。 秋9月何定将兵5000人が長江遡り夏口巻狩り行った都督孫秀出奔し晋に亡命したこの年大赦実行された。 建衡3年271年春正月晦、孫晧大勢引き連れて里にまで進んだ孫晧の母や妃妾まで皆同行した。東観令の華覈らが必死止めたため、引き返したこの年虞汜陶璜交阯陥落させ、晋の置いた守将らを皆斬る生け捕りにし、九真郡日南郡は皆呉に服属した。大赦実行された。交阯郡分割され新昌郡設置された。諸将は扶厳を破り武平郡設置した武昌であった范慎太尉任命した。右大司馬丁奉司空孟仁孟宗)が死去した鳳凰元年272年)秋8月西陵督の歩闡召還しようとしたが、歩闡命令聞かず、城を挙げて晋に降伏した。楽郷督の陸抗派遣され歩闡の城を包囲した歩闡配下降参し歩闡とその計画加わった数十人は皆三族皆殺しとなった大赦実行された。 この年右丞相万彧譴責受けて死しその子弟が廬陵流された。何定悪事発覚し誅殺された。孫晧はその悪事張布似ているとし、名を何布と改めさせた。 鳳凰2年273年)春3月陸抗大司馬任命した司徒丁固死去した。 秋9月淮陽王を魯王に、東平王を斉王改封した。陳留王章陵王ら9人の王を新たに封じ、王の数は11となったそれぞれの王に3000兵士率いさせた。 孫晧愛妾に人を市場にやって民衆財貨強奪させた者がいた。司市中郎将の陳声孫晧寵愛受けていたが、この者を捕らえに従って処刑した愛妾孫晧そのこと訴えると、孫晧激怒し別のことにかこつけて陳声捕らえ焼いた鋸で首を斬りおとし、身体四望山に捨てさせた。 この年太尉范慎死去した鳳凰3年274年)、会稽郡で、孫晧は既に亡くなっており、章安孫奮天子になるであろうという妖言流行った臨海太守奚熙会稽太守の郭誕に書を送り国政非難した。郭誕は奚熙の書については報告したが、妖言については報告しなかったため、建安郡送られ作り従事させられた。三郡督の何植送り奚熙捕らえさせようとしたが、奚熙兵士集めて守り固め通路絶った奚熙配下兵士殺され、首を建業送られ三族皆殺しとなった。 秋7月使者25人を派遣し分かれてそれぞれの州や郡に入り逃亡者摘発して都に送らせた。大司馬陸抗死去した天冊元年275年)、呉郡において土中から銀が掘り出された。長さは1尺、幅が3寸で、その上に年月などの字が刻まれていた。この報告受けて大赦行い天冊改元された。 天璽元年276年)、呉郡から報告があり、臨平湖通じ、その岸辺で石の函が発見され、その中から皇帝刻まれ小石見つかったという報告があった。そこで玉璽改元し、大赦行った会稽太守の車浚・湘東太守の張詠が算緡を納めていないという理由で、中央から派遣され役人により斬首となり、首を諸郡に回された。 秋8月、京下督の孫楷が晋に降伏した鄱陽から歴陽山の石が字の形となり、「九州の渚で呉は九州の都。揚州の士が天子となり、四世にして治まり太平の世が始まる」と読める報告があった。また、呉興の陽羡山に中空になった岩があり、十余丈の大きさがあり、石室呼ばれていたが、岩の各所瑞祥表れている、という報告があった。そして、司徒董朝太常周処が陽羡県に派遣され、国山として封禅行った明年から天紀改元することが決められ、岩に表れた文字対応するためという理由大赦実行された。 天紀元年277年)夏、夏口督の孫慎江夏から汝南に軍を進め焼討ちをかけて住民略奪して帰った。騶子出身張俶誣告讒言により昇進して司直中郎将となり、侯に封じられるなど孫晧寵愛受けていたが、この年に、それまで悪事発覚し誅殺された。 天紀2年278年)秋7月成紀王・宣威王など11王が立てられ、王ごとに3000人の兵士与えられ大赦実行された。 天紀3年279年)夏、交州郭馬反乱起こしその影響交州広州各地及んだ8月軍師張悌丞相任命し、牛渚督の何植司徒任命した執金吾滕脩司空任命されるところであったが、仮節・鎮南将軍広州牧に職が改められ1万兵士率いて東の道から郭馬征伐向かった滕脩始興郭馬軍の王族の軍に阻まれた隙に、郭馬はますます勢力広げたので、徐陵督の陶濬7000人を率いて西の道進み、さらに交州牧の陶璜に対して、その配下軍勢合浦鬱林の諸郡の兵士率いて東西両軍と共に郭馬を討つことを命じた。 高さ一丈ほどの鬼目工匠黄耇の家に生え、また高さ四尺の買工匠の呉平の家に生えた。東観の役人鬼目芝草、買を平判定した黄耇は侍郎、呉平は平郎に任命されそれぞれが銀印青綬を賜った

※この「暴政」の解説は、「孫皓」の解説の一部です。
「暴政」を含む「孫皓」の記事については、「孫皓」の概要を参照ください。

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