丁奉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 丁奉の意味・解説 

丁奉Ding Feng

テイホウ

(?~271
呉右大司馬左軍師・仮節・左右都護・領徐州牧・安豊

字は承淵。廬江安豊の人。

若いころから驍勇知られて小将となり、甘寧陸遜潘璋らに属した。しばしば征伐従軍して戦闘ぶりはいつも全軍筆頭、戦うたびに敵将を斬ったり軍旗奪ったりして、我が身に傷を負っていた。順当に昇進して将軍となり、孫亮即位する冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられた。

魏が諸葛誕胡遵らに東興攻撃させたので、諸葛恪軍勢率いて防いだ諸将はみな「敵は太傅諸葛恪)が直々に来られたと聞き岸辺上がれば逃げだすに違いありません」と言ったが、丁奉は「いえ、彼らが国内動揺させてまで許・洛の軍勢大挙して来たからには必ずや勝利見込みがあるのです。どうして手ぶら引き返したりいたしましょう。敵の来ないことを当てにするではなく我ら優位当てにすべきです」と主張した

諸葛恪岸辺上がると、丁奉は将軍唐咨呂拠留賛とともに山沿いに(船に乗って西上したが、「いま諸軍行軍速度遅く、もし敵に有利な地点押さえられたら矛を交えるのは難しくなってしまう」と言い諸軍分けて街道まで戻らせ、自分麾下三千人を率いて最短距離直進した。北風吹いていたので、丁奉が帆を上げると二日到着し、徐塘を占拠することができた。

の降るような寒い日で、敵将たちは集まって盛大な酒宴開いている。丁奉は彼らの先鋒部隊少ないのを見て封侯恩賞賜るのは今日こそがその日だぞ」と言い聞かせ、そこで兵士たちに鎧を脱がせて兜を被らせ、短刀持たせた敵兵はそれを見て暢気に笑うばかりで警戒しようともしない。丁奉は軍兵放って斬り込むと、敵の先鋒部隊大破した。ちょうど呂拠らも到着し魏軍はついに潰走した。滅寇将軍昇進封爵を都亭侯(都郷侯の誤り)に進められた。

魏将文欽投降してきたので、丁奉は虎威将軍となり、孫峻付いて寿春まで迎えに行くことになった。高亭において敵の追っ手戦闘になり、丁奉は馬に跨って矛を持ち敵陣突入首級数百挙げて武器など奪取した封爵安豊侯に進められた。

太平二年(二五七)、魏の大将軍諸葛誕寿春占拠して帰服申し入れてきたが、魏の人々は彼を包囲した朱異唐咨らが救援遣され、さらに丁奉・黎斐も包囲を解くよう命じられた。丁奉が先登立って黎漿に布陣し奮戦のすえ武功立てたので左将軍拝命した。

孫休即位してから、張布相談して孫綝誅殺ようとした張布が「丁奉は事務処理は苦手ですが、人並み上の計略持ち大仕事遂行できますと言うので、孫休は丁奉を召し寄せて告げた。「孫綝国家威光を嵩にかけ、叛逆をなそうとしておる。将軍とともに奴め誅殺したいものじゃが。」丁奉は答えた。「丞相孫綝)は兄弟仲間が非常に多く人々の心が一致しない限り、すぐには片付かない恐れございます臘祭会合利用し陛下の手兵で誅殺なさいませ。」孫休はその計略聞き入れ孫綝会合招き、丁奉と張布左右の者に目くばせして彼を斬らせた。大将軍昇進し左右都護の職を加えられた。

永安三年(二六〇)、仮節・領徐州となった。六年、魏が蜀に攻め込んだとき、丁奉は諸軍率いて寿春向かい、蜀を支援する構え見せたが、蜀が滅亡してしまったので軍勢引き揚げた。

孫休薨去したのち、丁奉は丞相濮陽興とともに万彧言葉に従って孫晧擁立し、右大司馬左軍師に昇進した宝鼎三年(二六八)、孫晧は丁奉・諸葛靚命じて合肥攻撃させた。丁奉は晋の大将石苞手紙送り、彼らの離間計ったので、石苞中央徴し返された。建衡元年(二六九)、丁奉はまた軍勢率いて徐塘を修築し、そこから晋の穀陽攻め込んだ穀陽領民はそれを予測して退去していたので、丁奉は何も得られず、孫晧腹を立てて丁奉の道案内役を斬った。

三年、丁奉は卒去した。丁奉は尊貴の身であるうえ功績立てており、次第傲慢になっていった。(丁奉の死後)ある人が彼の悪口言ったので、孫晧過去軍事行動にまでさかのぼって取りあげ、丁奉の家族臨川流したであった

参照甘寧 / 胡遵 / 朱異 / 諸葛恪 / 諸葛靚 / 諸葛誕 / 石苞 / 孫休 / 孫晧 / 孫峻 / 孫綝 / 孫亮 / 張布 / 唐咨 / 潘璋 / 万彧 / 文欽 / 濮陽興 / 陸遜 / 留賛 / 呂拠 / 黎斐 / 安豊県 / 合肥侯国 / 魏 / 許県 / 高亭 / 穀陽県 / 寿春県 / 徐州 / 徐塘 / 蜀 / 晋 / 東興 / 洛陽県(洛) / 臨川郡 / 黎漿 / 廬江郡 / 右大司馬 / 右都護 / 仮節 / 冠軍将軍 / 郷侯 / 虎威将軍 / 侯 / 左軍師 / 左将軍 / 左都護 / 丞相 / 大将軍 / 太傅 / 亭侯 / 都郷侯 / 都亭侯 / 偏将軍 / 牧 / 滅寇将軍 / 小将 / 短兵短刀) / 導軍(道案内役) / 臘(臘祭


丁奉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 16:12 UTC 版)

丁 奉(てい ほう)は、中国三国時代の武将。揚州廬江郡安豊県の人。字は承淵。弟は丁封。子は丁温。『三国志志に伝がある。




「丁奉」の続きの解説一覧

丁奉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:45 UTC 版)

三國志曹操伝」の記事における「丁奉」の解説

孫権配下

※この「丁奉」の解説は、「三國志曹操伝」の解説の一部です。
「丁奉」を含む「三國志曹操伝」の記事については、「三國志曹操伝」の概要を参照ください。


丁奉(てい ほう、字・承淵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「丁奉(てい ほう、字・承淵)」の解説

潘璋配下兵士で、潘璋のいう「悪たれ」の一人徒党組んで一攫千金狙い関羽討伐参戦お団子頭で、女性のような風貌格好をしている。阿獞の力を見込んで関羽対峙させる。笛が得意。

※この「丁奉(てい ほう、字・承淵)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「丁奉(てい ほう、字・承淵)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「丁奉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「丁奉」の関連用語

丁奉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



丁奉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2024 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの丁奉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三國志曹操伝 (改訂履歴)、蒼天航路 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS