アフリカへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/04 00:26 UTC 版)
1922年にイギリスは第一次大戦の賠償としてドイツ領東アフリカを獲得した。その地域でドイツ人がテンダグルと呼ばれる恐竜化石の豊富な土地を発見していた。リーキーは家族の友人から、大英自然史博物館が化石の発掘隊を送りだそうとしていることを聞いた。リーキーはそれに応募し採用された。1924年にウィリアム・カトラーを隊長として一行はアフリカに出発した。彼らは恐竜の完全な化石を発見することができず、カトラーが9ヶ月後に病死するとケンブリッジに呼び戻された。リーキーはこの経験から専攻を人類学に変え、アルフレッド・ハッドンの元で学び始めた。1926年に人類学と考古学で最高の成績をおさめて卒業した。在学中からアフリカの考古学、古生物学について講義を行い、執筆活動をし、すでに有名人であった。卒業後はアフリカで多くの遺物を採掘し、出土する人工品を体系的に研究した。 1927年にエルメンテイタ湖近くのカンブル洞窟と呼ばれた発掘場所で、二人の夫人の訪問を受けた。一人は考古学を学んだことのあるヘンリエッタ・アバーン(フリーダ)だった。二人は夜通し話し合い、その後も交流を続けて1928年に結婚した。同時期にカリアンドゥシ(Kariandusi)でアシュール文化の遺跡を発見し、発掘を行った。1929年にセント・ジョンズ・カレッジで研究職を得て、エルメンテイタでの発見を整理するためにケンブリッジに戻った。二体の骨格を処理しているときに、一つがドイツの教授ハンス・レックがオルドヴァイ渓谷で発見した物と類似していることに気付いた。レック教授とはドイツで1925年に会ったことがあった。オルドヴァイの地層は有名で、1913年にレックはそこから骨格を発掘していた。彼はそれが更新世中期、60万年前の物だと主張した。しかし市民はこのニュースを受け入れる準備ができていなかった。人はそれよりずっと後に創造されたというのが一般的な認識であった。1929年にリーキーはベルリンに行き、発見に懐疑的になっていたレックと会った。レックがオルドヴァイで収集したアシュール石器に言及し、オルドヴァイからすぐに古代の石器を発見できると賭けを行った。 1930年に27歳で博士号を取得した。最初の子供プリシラは1931年に生まれた。 1931年にリーキーはレックを含む探検隊をオルドヴァイに連れて行った。リーキーはすぐにアシュール石器を発見し、レックに賭けの勝ち分の10ポンドを要求した。彼らは1913年の発見を検証した。人間以外の化石と道具が大量に発見された。しかしケンブリッジに戻ると、そこを支配していた懐疑主義者たちは感銘を受けなかった。レックのオルドヴァイ人の証拠を発見するためにリーキーは再びアフリカに戻った。彼はより多くの化石を発見し、地名(カナム)にちなんでホモ・カナメンシスと名付けた。
※この「アフリカへ」の解説は、「ルイス・リーキー」の解説の一部です。
「アフリカへ」を含む「ルイス・リーキー」の記事については、「ルイス・リーキー」の概要を参照ください。
- アフリカへのページへのリンク