エトルリア
エトルリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 02:07 UTC 版)
「ガイウス・テレンティウス・ウァロ」の記事における「エトルリア」の解説
紀元前208年、エトルリアで離反の動きがあり、特にアッレティウム(現アレッツォ)の動きが不穏であったため、町から人質を取ることが決定され、プロプラエトルのガイウス・ホスティリウス・トゥブルスが派遣された。ウァッロはトゥブルスから人質を受け取りローマへ送り届ける役割を与えられた。報告によってエトルリアの状況が深刻であることが本国に伝わると、ウァッロは1個軍団を率いてアッレティウムを占領するよう命じられたが、アッレティウムの政務官の対応が不誠実であったため、トゥブルスに警戒を呼びかけたという。 翌前207年、前年戦死した執政官ティトゥス・クィンクティウス・クリスピヌスの軍をタレントゥム(現ターラント)で引き継ぐこととなったトゥブルスを補佐するため、ウァッロはプロプラエトルとしてエトルリアへ派遣された。この年、ハスドルバルが侵攻の動きを見せていたが、アルプス越えは春以降であると考えられたため、ハンニバルのイタリア侵入以来初めてコミティウムが休みとされ、アエディリスの主催するゲームや祭りが執り行われた。ウァッロは2個軍団をもってエトルリアを守備した。執政官マルクス・リウィウス・サリナトルが翌年のプロコンスルとしてエトルリアへ派遣されると彼に奴隷の軍団を引き継いだ。
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エトルリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 07:25 UTC 版)
エトルリアでは壮麗な王笏を王や上級神官が使った。その様子はエトルリアの墳墓の壁画などに描かれている。エトルリアの精巧に装飾された金の王笏が大英博物館、バチカン美術館、ルーヴル美術館などに所蔵されている。
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