せいきょうと‐かくめい〔セイケウト‐〕【清教徒革命】
読み方:せいきょうとかくめい
清教徒革命(せいきょうとかくめい)
市民革命はイギリス、アメリカ、フランスと続く。その中で、一番早く市民革命があったのがイギリスだ。これを清教徒革命と言う。
17世紀頃、イギリスでは、毛織物工業が発展していた。貨幣経済がイギリス全体に広まり、それとともに、あたらしく市民階級が成長した。この人たちは、裕福な中産市民階級として、富を蓄積した。そして、議会を通じて自分たちの権利を伸ばそうと試んだ。
一方、イギリス国王ジェームズ(1603-1625)は市民たちの台頭をこころよく思わなかった。ジェームズは、あいかわらずぜいたくにふけった。特に、議会の勢力を無視して新税を課した。また、国王に近い一部の商人たちを特に優遇した。
ジェームズの政策に対し、市民は議会を通じて反対運動を起こした。しかし、ジェームズのぜいたくな政治は改まらなかった。また、ジェームズの次のチャールズ(1625-1649)がイギリス国王になってからも、ぜいたくな政治は続いた。
1628年、市民はついに権利の請願を国王に提出した。これは、イギリス国民の基本的権利を要求したものだ。「議会の許可なしに新税を課してはいけない」などの内容からなる。
ところが、王は、権利の請願を無視した。このために市民と国王との対立は続いた。1642年、ついには清教徒革命という内乱に発展した。1649年、市民勢力は国王チャールズを処刑した。これにより、イギリスは共和制の国になった。
(2000.10.14掲載)
清教徒革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 08:31 UTC 版)
ピューリタン革命または清教徒革命(ピューリタンかくめい/せいきょうとかくめい、英語:Wars of the Three Kingdoms 、直訳:Puritan Revolution)は、狭義には1642年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。
注釈
- ^ エリザベス1世治世期で82万ポンド、ジェームズ1世は77万ポンド、チャールズ1世は65万ポンドの領地を売りに出して当座をしのいだ。革命中に政府が売却した残りの王領地は200万ポンド未満であったといわれるから、3人の王をあわせて半分以上となる。浜林(1959)、P28 - P29。
- ^ 船舶税の徴収を確実なものとするために、徴税にあたっている州長官に歩合制の報酬と、徴税を監視する没収官の派遣を導入した。無給の名誉職であった州長官にとって屈辱的なこの改革はかえって反発を招き、税収は予定額の2割に落ち込んだ。
- ^ ストラフォード伯は1632年から1640年4月までアイルランドへ赴任、ロードと同じく国王に服従させるため監督制の強制と収奪を行い、アイルランドの財政均衡に成功しイングランド本国にも利益を上げることが出来た。しかし彼が帰国すると力で押さえ付けられていたアイルランド住民が反乱を起こし、革命の発火点となった。浜林(1959)、P80 - P81、今井(1990)、P187。
- ^ 鉄騎隊に訓練を施し集団戦法を得意とする精鋭部隊に作り上げ、戦功を挙げたクロムウェルは議会から一目置かれるようになり、1644年1月には公式に東部連合副司令官に任命、スコットランドとイングランドが同盟を結び両王国委員会が設置されるとその一員に選ばれ、軍人としても政治家としても台頭していった。またこの年6月に議会派の中心人物だったハムデンが国王軍との戦いで敗死、12月にピムが病死したこともクロムウェルが議会、ひいては革命の指導者にのし上がった一因になった。今井(1984)、P63 - P72、清水、P64 - P69、P73。
- ^ スコットランド出兵に関して、フェアファクスが議会の出兵命令を拒否してクロムウェルの説得を振り切り司令官を辞職、クロムウェルが代わりに司令官として出兵することになった。このフェアファクスの態度はかつての同盟国スコットランドへの侵略に抵抗があったからとも、妻や周囲の人々に説得され長老派に心を傾けたからとも言われている。浜林(1959)、P202 - P203、今井(1984)、P160 - P161、清水、P175。
- ^ ランプ議会解散後にハリソンはクロムウェルに政権構想を発表、それが反映されベアボーンズ議会が開会したが、議会の内部対立でクロムウェルに見限られ失脚、軍から追放された。その後ハリソンは護国卿体制では一転してクロムウェルに反対したため投獄、王政復古政府にも危険視され処刑された。今井(1984)、P188 - P192、P194、松村、P315、清水、P202 - P203、P214 - P215、P226、P239、P266。
- ^ 「ブレダ宣言」は以下の4項目からなり、チャールズ2世の寛容さを印象づけた。(1)革命中の行動は、議会の指名したものを除き大赦を与える。(2)宗教上の意見の相違は、議会の定めにより寛容を認める。(3)軍隊の給与は、議会に決定に従ってすみやかに支払う。(4)革命中の土地所有権の移動は、議会によって処理する。浜林(1959)、P310、今井(1990)、P239 - P240。
出典
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- ^ 山本、P136 - P139、ウェッジウッド、P82 - P85、P259。
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- ^ 山本、P163 - P169。
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- ^ ブリュア、P53 - P55、P70。
- ^ ブリュア、P102 - P106、P172 - P177、松浦、P76、P82 - P86。
- ^ 岩井、P12 - P13、P18 - P19、P76、P124。
- ^ 岩井、P13、P76 - P77、P173 - P174。
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清教徒革命
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「ジェームズ・スタンリー (第7代ダービー伯爵)」の記事における「清教徒革命」の解説
1642年に第一次イングランド内戦が勃発するとチャールズ1世への忠誠心から王党派へ参加、同年に死んだ父のダービー伯位を継承して北西部の軍勢を動員、ランカシャーを中心に議会派と都市争奪戦を繰り広げた。 6月、まずはプレストンでチャールズ1世への忠誠を呼びかけ武器を押収、続いて7月15日にマンチェスターを訪問したが、議会派市民に発砲され退却した。チェシャー・ランカシャーを王党派兵士の策源地にする目的でチャールズ1世にランカシャー南部の都市ウォリントンでの旗揚げを勧め、9月に王党派と合流すべくマンチェスターを包囲したがいずれも失敗、初期の目的は果たせなかった。 翌1643年からはチャールズ1世の命令で北西部に留まりランカシャーの中心都市ウォリントン・ウィガン・プレストン・ランカスターとそれらを繋ぐ南北の幹線道路を巡って議会派と一進一退の攻防戦を繰り広げた。プレストンとランカスターは議会派に奪われ、対するダービー伯はプレストンを奪還し一時プレストンを根拠地としたが、4月のウォーリーの戦いで議会派に敗北するとプレストンを奪われ、他の都市も道路を含め全て議会派に落とされランカシャーは議会派に制圧された。 戦況不利となり王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスに救援を求めヨークへ移動したが、議会派の軍人トーマス・フェアファクスがウェイクフィールドを落としたため救援も不可能となり、6月にマン島へ逃れた。王家への忠誠心は揺るぎなかったが、ランカシャーで議会派と戦っていた間、都市への略奪と強引な徴兵が市民の反感を買い議会派へ転向させる、偶然漂着したスペイン船を焼き討ちするなど粗暴で問題の多い行動を繰り返し他の王党派の顰蹙を買った。ダービー伯もチャールズ1世に王党派が自分を中傷していることを抗議している。 マン島では議会派の代官を罷免して自ら島の行政に携わり、軍備を整えイングランド復帰を目論み8ヶ月待機した。その間レイサムに残った妻シャーロットは議会派の包囲に耐え抜いた。 1644年2月に本土へ戻りカンバーランド公ルパートに救援を要請、ルパートの援軍と合流してレイサムの包囲を解除させ、ボルトン・リヴァプールを奪取してチェシャー・ランカシャーを平定した。だが、ヨークへ北上したルパートがマーストン・ムーアの戦いで大敗すると議会派がランカシャーになだれ込んだため、窮地に立たされ再びマン島へ逃亡した。議会派からは何度も和睦の話を持ちかけられたが、いずれも拒否して王党派に留まり、マン島で読書と執筆に明け暮れた。また島は王党派の避難場所と化し、ディグビー男爵ジョージ・ディグビー(英語版)が1645年に、マーマデューク・ラングデイルが1645年と1649年にこの島を訪れている。 やがて1649年にチャールズ1世が処刑されイングランド共和国が成立すると、大陸へ亡命していたチャールズ王太子(後のチャールズ2世)の支持を表明して1650年にガーター勲章を受勲、1651年8月にスコットランドへ渡ったチャールズと合流し第三次イングランド内戦にも王党派に加勢した。ランカシャーで兵を集めようとしたが、協力を得られなかった上議会派の遠征軍と衝突して敗北(ウィガン・レーンの戦い)、スコットランドから南下したチャールズの下へ逃れたが、9月のウスターの戦いでもオリバー・クロムウェルが率いる議会派遠征軍の本隊に大敗した。戦後チャールズを大陸へ逃がした後に自分も北へ逃亡したが力尽きて降伏、10月にボルトンで処刑された。44歳だった。 マン島に逃れていたシャーロットは処刑の情報を受け取ると議会派に降伏、マン島から退去した。息子のチャールズ・スタンリー(英語版)は共和国承認と引き換えにノーズリーへ戻り、1660年の王政復古で立場を回復したが、内戦で他人に購入・没収された土地は取り戻せず、スタンリー家は王家の忠誠にも拘らず報われることはなかった。
※この「清教徒革命」の解説は、「ジェームズ・スタンリー (第7代ダービー伯爵)」の解説の一部です。
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