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イングランド内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/02/27 14:49 UTC 版)
イングランド内戦(English Civil War)は、清教徒革命においてイングランドで行われた、国王派と議会派の軍事衝突である。- ^ 両軍とも自軍の勝利を喧伝した。国王軍はロンドンを一挙に陥れようとしたが、ロンドン市民が義勇兵を募って守りを固めたのをみて断念し、オックスフォードに進んでこれを占領した。
- ^ 州や都市を守るためにつくられた民兵は自分の故郷を守ることには熱心だったが、地方意識が強く、国全体のこととなると士気を高くもてなかった。また、装備・訓練・実戦経験において貴族の率いる国王軍にはるかに及ばなかった。特にアドウォルトン・ムーアの戦いではその弱体さが際立った。後にクロムウェルは当時を顧みて、民兵の混成部隊だった議会軍を「よぼよぼの召使いや給仕やそんな連中」と述懐している。
- ^ これらの再編によってただちに議会軍が精強になったわけではなく、軍の内外で様々な問題をかかえていた。議会内の見解の一致がとれていないことや、革命の目指す方向がないことなどがその主な理由であった。
- ^ スコットランド側が用意した文面に、交渉にあたったヘンリー・ヴェーン子爵らは若干の修正を提案した。すなわち、「神の言葉にしたがって」と文頭に付け加えることによって、解釈に幅をもたせてスコットランドとの合意を実現した。それでもイングランド側の宗教会議で紛糾したが、「人殺しが病人に襲いかかってきたとき、病人は薬を飲み続けて殺されるに任せるだろうか、それとも薬をすてて武器をとって立ち向かうだろうか」というジョン・ピムの演説も奏功し、どうにかイングランド側でも合意を支持した。
- ^ 「我々が国王軍に99回勝ったとしても、チャールズは国王であり続けるだろう。しかし我々が1度負ければ、我々はみな絞首刑になるだろう」という言説も出てきていた。
- ^ 長老派・独立派などの党派は、おおむね長老派教会・分離派それぞれの信仰と一致するが、政治的長老主義と宗教的長老主義はいくばくかの温度差がある。詳しくは清教徒革命#内戦・革命における党派を参照のこと。
- ^ 議会は兵士への給与支払いが長期にわたり滞っているにもかかわらず、ニューモデル軍の解散やアイルランド遠征、ロンドン市内への立ち入り禁止などを決定し、これに兵士たちは反発した。
- ^ 当初平等派を主導していた論者は、国王の処刑には消極的だった。平等派の目的はあくまで人民主権の実現であり、国王の処刑に耳目が集中しすぎることを懸念したからである。また、処刑後に軍と独立派の強すぎる発言力が、かえって民衆に危機感をいだかせ、チャールズは罪人というよりも殉教者として見られることもあった。これが1660年の王政復古の下地を作ってゆくことになる。
- ^ スコットランドではチャールズの処刑をうけて1649年2月5日、チャールズ2世の即位が宣言された。
[続きの解説]
「イングランド内戦」の続きの解説一覧
- 1 イングランド内戦とは
- 2 イングランド内戦の概要
- 3 内部対立
- 4 関連作品
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