清教徒革命 革命の歴史的評価

清教徒革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 03:36 UTC 版)

革命の歴史的評価

清教徒革命はさまざまに評価されてきた。原因や歴史的位置づけについて、自由主義マルクス主義など、その時代の風潮によって異なる視点から捉えられてきた。また、同一時代にあっても識者の立場によっても違う見方をされている。革命直後からしばらくは歴史上の不祥事として描かれることが多かったが、次第に絶対王政から近代化への第一歩と評価されるようになった。20世紀に入ると、歴史研究者それぞれのイデオロギー・学派から活発な論戦が行われることもしばしば見られた。

ロックの革命権

ジョン・ロックは財産・自由の保全のために革命権の行使を肯定したが、清教徒革命については「無益な企て」と断じている。革命権の行使が許されるのは勤勉で理性的な人であり、貪欲な暴徒ではないとした。教養を重んじ賃労働を軽視するジェントリたちにとって、清教徒革命は「暴徒」に国政を牛耳られた不名誉な事件であり、名誉革命がその汚名をそそぐものであった。その原因は無知で横暴なスコットランド人の王チャールズ1世に帰すると考えられていた。結果、王権の大幅な制限と民衆の非政治化はジェントリたちの大きな関心事となった。

ホイッグ史観・唯物史観による評価

自由主義経済のもと世界帝国を築いていたころのイギリスでは、清教徒革命は「イングランドの騒乱」「ピューリタン革命」「イングランド革命」とよばれた。専制・封建制に対する自由・資本主義の闘いとして描写され、近代社会の画期とされた。さらにピューリタニズムに民主主義の精神を見出し、同時代のフランスなどと比較してその先進性が主張された。

19世紀に入ってチャーティスト運動の盛り上がりなどの社会現象もあいまってマルクス主義史観(唯物史観)が広まると、清教徒革命はブルジョワ革命に分類された。マルクス主義史学は歴史家クリストファー・ヒルリチャード・ヘンリー・トーニーらによって支持され一定の勢力を持ち、正統学説たるホイッグ史観に対するアンチテーゼとして存在感を示し続けた。この理論は日本にも取り入れられ、大塚史学としてイギリス史研究の本道となった[65]

ジェントリ論争と地方史研究

この正統学説は1950年代に入ってヒュー・トレヴァー=ローパーによって批判され、苛烈な論戦がたたかわされた。トレヴァー=ローパーによれば、この内戦は宮廷の官職を独占する大ジェントリたちに対する、中小ジェントリの挑戦であり、ピューリタニズムは華美にふける大ジェントリたちへの嫌悪感にもとづく貧困なジェントリの宗教とされる。これをトレヴァー=ローパーはコート対カントリという対立概念を用いて説明した。これに対してトーニーは、ジェントリの規模ではなく土地経営のしかたを重視した。すなわち、伝統的に地代を徴収する方法にとどまったジェントリは没落し、いっぽう地代のつり上げや牧羊業への柔軟な転換などブルジョワ的経営を行ったジェントリが勃興したとするものである[66]

こうした論戦は、根拠となる情報が少ないうえに議論が大局的にならざるをえず、不毛な議論となって尻すぼみになり、これをみた若い研究者らは情報が出し尽くされていない地方史研究をこころざすようになった。いずれにしてもこの時代まで、革命は社会矛盾の顕在化によって必然におこったものであるという考え方が前提にあった。

「17世紀の危機」

かつての歴史研究において、革命の原因であると主張され論争がたたかわされた「17世紀の危機」は、現在ではあまり顧みられなくなっている。「17世紀の危機」論争はトレヴァー=ローパーとホブズボームによるもので、ヨーロッパ全般の危機として論じられた。この危機とは、以下のような社会の変化に旧来の国家が対応できず、社会が不安定になったとするものである。すなわち社会の変化とは、16世紀は好況だったヨーロッパ経済が天候不順などによって停滞し、これによって農村のありかたが封建的から資本制に変貌しつつあり、さらにルネサンス以降、膨張しつつあった官僚制を王室財政で賄いきれなくなってきていた、というものである。しかし現在は、17世紀は経済不況からオランダの重商主義経済にいたる過渡期であったとされている。

修正主義以降

1970年代に入ると、正統学説にふたたび反論がおこるようになった。修正主義とよばれるこの流れは、革命の断絶性・近代社会化の側面および必然性を批判し、さらにイングランド内で完結されていた議論をおし拡げようとするものであった。修正主義は、革命の源泉をジェームズ1世の第1子ヘンリーが若くして死んだことなどに求め、ヘンリーが王位を継承すれば革命は起こらなかったであろうと指摘する。こうした修正主義によって明らかにされた研究成果は多岐にわたったが、なかでもイングランド一国史観に対して包括的なブリテン史を提唱した点は耳目を集めた[67]

1980年代には修正主義と正統学説の間で論争もおこっている。修正主義の流れは長期的な視点にとぼしく、革命の原因を偶発的要素にもとめすぎているなどの批判がある。現在、修正主義を批判的に継承したポスト修正主義やネオ=ホイッグなどの流れが複雑に交錯しているが、名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とよばれ、名誉革命以上に歴史的意義を見出されることが多い。一方で、イングランド革命政府とスコットランド・アイルランドの3ヶ国の戦争であるという捉え方も提唱されている[68]


注釈

  1. ^ エリザベス1世治世期で82万ポンド、ジェームズ1世は77万ポンド、チャールズ1世は65万ポンドの領地を売りに出して当座をしのいだ。革命中に政府が売却した残りの王領地は200万ポンド未満であったといわれるから、3人の王をあわせて半分以上となる。浜林(1959)、P28 - P29。
  2. ^ 船舶税の徴収を確実なものとするために、徴税にあたっている州長官英語版歩合制の報酬と、徴税を監視する没収官の派遣を導入した。無給の名誉職であった州長官にとって屈辱的なこの改革はかえって反発を招き、税収は予定額の2割に落ち込んだ。
  3. ^ ストラフォード伯は1632年から1640年4月までアイルランドへ赴任、ロードと同じく国王に服従させるため監督制の強制と収奪を行い、アイルランドの財政均衡に成功しイングランド本国にも利益を上げることが出来た。しかし彼が帰国すると力で押さえ付けられていたアイルランド住民が反乱を起こし、革命の発火点となった。浜林(1959)、P80 - P81、今井(1990)、P187。
  4. ^ 鉄騎隊に訓練を施し集団戦法を得意とする精鋭部隊に作り上げ、戦功を挙げたクロムウェルは議会から一目置かれるようになり、1644年1月には公式に東部連合副司令官に任命、スコットランドとイングランドが同盟を結び両王国委員会が設置されるとその一員に選ばれ、軍人としても政治家としても台頭していった。またこの年6月に議会派の中心人物だったハムデンが国王軍との戦いで敗死、12月にピムが病死したこともクロムウェルが議会、ひいては革命の指導者にのし上がった一因になった。今井(1984)、P63 - P72、清水、P64 - P69、P73。
  5. ^ スコットランド出兵に関して、フェアファクスが議会の出兵命令を拒否してクロムウェルの説得を振り切り司令官を辞職、クロムウェルが代わりに司令官として出兵することになった。このフェアファクスの態度はかつての同盟国スコットランドへの侵略に抵抗があったからとも、妻や周囲の人々に説得され長老派に心を傾けたからとも言われている。浜林(1959)、P202 - P203、今井(1984)、P160 - P161、清水、P175。
  6. ^ ランプ議会解散後にハリソンはクロムウェルに政権構想を発表、それが反映されベアボーンズ議会が開会したが、議会の内部対立でクロムウェルに見限られ失脚、軍から追放された。その後ハリソンは護国卿体制では一転してクロムウェルに反対したため投獄、王政復古政府にも危険視され処刑された。今井(1984)、P188 - P192、P194、松村、P315、清水、P202 - P203、P214 - P215、P226、P239、P266。
  7. ^ 「ブレダ宣言」は以下の4項目からなり、チャールズ2世の寛容さを印象づけた。(1)革命中の行動は、議会の指名したものを除き大赦を与える。(2)宗教上の意見の相違は、議会の定めにより寛容を認める。(3)軍隊の給与は、議会に決定に従ってすみやかに支払う。(4)革命中の土地所有権の移動は、議会によって処理する。浜林(1959)、P310、今井(1990)、P239 - P240。

出典

  1. ^ 今井(1990)、P113 - P117、P119 - P121。
  2. ^ 浜林(1959)、P12 - P27。
  3. ^ 浜林(1959)、P27 - P31。
  4. ^ 今井(1990)、P153 - P155。
  5. ^ 浜林(1959)、P72 - P74。
  6. ^ 浜林(1959)、P75 - P79、P85 - P89、今井(1990)、P171 - P189、清水、P19 - P24、P31 - P33。
  7. ^ 浜林(1959)、P89 - P92、P96 - P106、今井(1990)、P191 - P194、清水、P33 - P46。
  8. ^ 浜林(1959)、P107 - P115、P173 - P176、今井(1990)、P194 - P197、清水、P46 - P51。
  9. ^ 今井(1990)、P215 - P216、ウェッジウッド、P540 - P541。
  10. ^ ウェッジウッド、P19 - P20、P52、P57、P73 - P74、P89 - P90、P268 - P271。
  11. ^ 浜林(1959)、P163 - P166。
  12. ^ a b 松村、P145。
  13. ^ 浜林(1959)、P129 - P130、今井(1984)、P52 - P53、P56 - P59、今井(1990)、P197、P200、清水、P60 - P64。
  14. ^ 浜林(1959)、P130 - P132、P135 - P140、今井(1984)、P60 - P63、P73 - P74、今井(1990)、P201 - P203、清水、P69 - P73。
  15. ^ 浜林(1959)、P140 - P147、今井(1984)、P74 - P87、今井(1990)、P203 - P208、松村、P145 - P146、清水、P76 - P87。
  16. ^ a b c 松村、P146。
  17. ^ 浜林(1959)、P147 - P148、P180 - P184、P191 - P192、今井(1984)、P87 - P92、P117 - P123、今井(1990)、P208 - P209、P213 - P215、清水、P88 - P97、P138 - P148。
  18. ^ 浜林(1959)、P156 - P162、P174 - P180、P187 - P190、今井(1984)、P94 - P116、P123 - P141、今井(1990)、P209 - P213、清水、P99 - P120。
  19. ^ 今井(1984)、P172 - P173、今井(1990)、P215 - P217、P223。
  20. ^ 浜林(1959)、P193 - P203、今井(1984)、P144 - P160、今井(1990)、P217 - P220、清水、P155 - P176。
  21. ^ 浜林(1959)、P203 - P204、今井(1984)、P160 - P168。
  22. ^ 浜林(1959)、P204 - P207、今井(1984)、P169 - P185、今井(1990)、P223 - P224、清水、P189 - P200。
  23. ^ 浜林(1959)、P208 - P210、今井(1984)、P189 - P193、今井(1990)、P224 - P225、清水、P200 - P208。
  24. ^ 浜林(1959)、P210、今井(1984)、P194 - P195、清水、P208 - P211。
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  27. ^ 浜林(1959)、P288 - P292、今井(1984)、P211 - P212、今井(1990)、P229 - P231、清水、P228 - P235。
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  30. ^ 浜林(1959)、P303 - P310、今井(1990)、P232 - P233、清水、P264 - P265。
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  32. ^ 今井(1990)、P240 - P243、清水、P266 - P267。
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  65. ^ 岩井、P12 - P13、P18 - P19、P76、P124。
  66. ^ 岩井、P13、P76 - P77、P173 - P174。
  67. ^ 岩井、P212 - P216。
  68. ^ 岩井、P94 - P96。






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