清教徒革命:1640年-1660年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:41 UTC 版)
「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「清教徒革命:1640年-1660年」の解説
エリザベス1世時代にはカルヴァン主義のピューリタンが信教の自由、良心の自由を主張し、国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した。このためピューリタンはイギリスにおける宗教が国家や公定教会から解放される政教分離の先駆者とされるが、岩井淳によれば、ピューリタンの独立派(Independents, インディペンデンツ)にはカトリックや王党派を「反キリスト」とする千年王国論や不平等な選民思想があったため、他教を認めるような信教の自由を主張したとはいえないのに対して、分離派(セパラティスト)は「宗教的自由」を、平等派(水平派、レヴェラーズ)は「政治的自由」を追求した。ピューリタンは国教会側から迫害されたが、清教徒革命の勢力として影響力を行使した。17世紀の1640年代前半、議会派は国王との妥協をはかり、全国的な教会組織を計画する長老派と、国教会から分離し、会衆教会(コングリゲーション)を基本単位として個々の教会の自主性を要求した独立派に分裂した。トマス・グッドウィン(英語版)やシドラック・シンプソン(英語版)ら独立派はオリバー・クロムウェル指揮下の軍事力を背景に長老派や平等派を退けて、王政を倒して樹立したイングランド共和国の実権を握り、清教徒革命の中心勢力となった。 ピューリタン側はジェームズ1世に対して宗教改革を迫ったが、王権神授説を信奉していたジェームズ1世は「主教なければ国王なし」と国教会体制を堅持した。1605年の火薬陰謀事件でカトリック教徒が議会に爆弾をしかける王と議員の暗殺未遂が起こり、メアリー1世時代の新教徒迫害を描いたジョン・フォックスの『殉教者の書』の影響、またスペインやフランスなどカトリック大国の脅威などによって反カトリック意識が高まった。三十年戦争ではプロテスタント側に立って参戦することが期待されたが、財政難などのため参戦せず、議会で王はスペインへの従属的な態度が非難され、王は反カトリック意識の標的とされていった。 チャールズ1世は1625年にフランスからカトリックの王妃ヘンリエッタ・マリアを迎え、親カトリック政策を展開し、議会の同意を得ずに外交や課税を強行し、国王大権を行使したため、1628年に議会は権利の請願を提出した。王は議会を解散し、反対派を投獄、以後11年にわたって専制政治を敷いた。ロンドン主教ウィリアム・ロード(後にカンタベリー大主教)とアイルランド総督トマス・ウェントワース(後にストラフォード伯)は、国王大権裁判所(星室庁と高等宗務官裁判所)を用いて反対派やピューリタンを弾圧した。1637年、長老派を国教とするスコットランドに対して、チャールズ1世は国教会の儀式を強制するとスコットランドは反発し、1639年には主教戦争となり、イングランドは敗北した。議会は専制政治の支柱であったロードとストラフォード伯を逮捕して処刑し、専制政治を制限する諸法を制定した。 1641年のアイルランド反乱(英語版)でイングランド人数千人が虐殺されると、「20万人から30万人の大虐殺」であると誇張されたデマが流され、反カトリック意識が高まった。同年、議会派は国王、主教、イエズス会を「迷信を重んじている者」として批判した大抗議文を提出した。チャールズ1世が1642年に戦闘準備をすると、議会は3月に民兵条例で軍事権を掌握し、6月の19か条提案で議会主権を主張して、8月には王党派(キャヴァリア、騎士党)と議会派(ラウンドヘッド、円頂党)が全面衝突してイングランド内戦(第一次イングランド内戦)がはじまった。クロムウェル率いる議会軍はスコットランドに同盟を持ちかけ1643年に厳粛な同盟と契約が成立するが、スコットランドは長老派体制の採用を条件としたため、これを容認した長老派と、国王との徹底抗戦を主張する独立派にわかれた。独立派にはオランダからの帰国者が多く、カトリックを「反キリスト」とさえ非難した。1645年にネイズビーの戦いでニューモデル軍として再編された議会軍は国王軍を潰滅、1646年に第一次内戦は終結した。 議会軍の多くはセクトと呼ばれる分離教会に所属し、独立派は国家教会に代わる諸派が許容される体制を模索した。ウィリアム・ウォルウィン(英語版)、リチャード・オーバートン(英語版)、ジョン・リルバーンらを指導者とする平等派は成人男子の普通選挙や人民主権、人権思想を主張した。ウォルウィンは1645年の著作で「いかなる人も宗教の問題で他人の強制を受けることはできない」と述べ、オーバートンは「トルコ人、異教徒、ユダヤ人などの不信心の徒であっても彼等の殺害はキリストの意思にそむく」と主張した。国教会を批判したため鞭打ち刑・さらし刑に処されたリルバーンは『獣の所業』で「神ご自身のお声が選民のすべてにー彼らは長い間、この反キリストの奴隷的権力と国のもとで生きてきたのだがーその権力と国への服従と隷属をやめることを、ついに命じておられる」と選民思想を主張した。平等派は手工業者や小商人、一般兵士にも浸透し、平等派の兵士はアジテーターを代表として人民主権からの改革を求めたため、独立派軍幹部は1647年10月にパトニー討論を開いた。会議で平等派の兵士は「発言権をもたない政府への服従義務はない」とする『人民協定』を提出し、普通選挙権を主張した。一方、軍幹部で『建議要目』を作成したヘンリー・アイアトンは制限選挙を主張して譲らなかった。 1648年4月、王はスコットランドと組んで第二次イングランド内戦を開始したが、議会軍はプレストンの戦いでスコットランド軍を撃破した。12月には長老派が独立派から追放(プライドのパージ)され、議会は独立派のみとなり、ランプ議会(残部議会)と呼ばれた。1649年、クロムウェルらが裁判官となり、チャールズ1世は「専制君主、反逆者、殺人者、国家の公敵」として処刑された。イングランド共和国が成立した後、独立派は平等派や真正水平派(ディガーズ)、ランターズ、クエーカーを弾圧した。 独立派は会衆教会を設立していったが、独立派以外の分離主義者であるバプテスト教会(パティキュラー・バプテスト、ジェネラル・バプテスト)、セパラティストも教会を次々と建設し、これら分離派は独立派を中心に同盟を結成した。イングランドの国家教会体制に対して独立派は末端に会衆教会を設立したことで、複数の宗派の共存を可能とする政教分離への道を切り開いたとされる。しかし、独立派教会の入会審査は厳しく、1647年のロンドン会衆教会宣言では「すべての人間が思慮分別や適性をもっているとは限らない」ため、人間の平等を認めることは人間社会にとって大きな障害となるとして平等を否定する選民思想があった。ただし、選民思想に裏付けられた使命感によって清教徒革命における戦闘的な姿勢の維持が可能であった。クロムウェルは宗教的な自由は基本的な自由であり自然権であると述べたが、独立派聖職者の起草案では独立派のみが正統と宣言し、クエーカー教徒(キリスト友会)やランターなどの信教の自由は認められず、近代的な政教分離論や幅広い信教の自由を随伴してはいなかった。他方、パティキュラー・バプテストのサミュエル・リチャードソンは、クロムウェル政府は有史以来初の宗教の自由を享受しており、当局が宗旨変えをしても従わなければ迫害を受けることもないと評価した。 一方、アイルランドは国王派とカトリックが同盟していたため、イングランドはアイルランドを攻撃して征服し、植民地化した。また、同じく反革命勢力とみなされたスコットランドを第三次イングランド内戦で征服した後併合し、国王の遺児チャールズ2世はフランスへ亡命した。1653年に護国卿に就任したクロムウェルの共和国政権ではイングランド、スコットランド、アイルランド、植民地、ヨーロッパのプロテスタントを保護し、ヨーロッパ大陸のユグノーを援助し、カトリック勢力に打撃を与えることが目標とされた。しかし1658年にクロムウェルが死去すると、息子リチャード・クロムウェルが護国卿に就任するが混乱を収拾できず、翌1659年に職を退いて政権が崩壊し、1660年4月には貴族院が復活した。
※この「清教徒革命:1640年-1660年」の解説は、「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の解説の一部です。
「清教徒革命:1640年-1660年」を含む「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の概要を参照ください。
- 清教徒革命:1640年-1660年のページへのリンク