清教徒革命を主導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 08:36 UTC 版)
「独立派 (宗教)」の記事における「清教徒革命を主導」の解説
1640年にピューリタンを苦境に追いやったロードが長期議会に弾劾され失脚(後に処刑)、それと呼応して独立派ピューリタンがイングランドへ帰国した。彼等は亡命先から帰国するとイングランドで独立教会を設立、革命に身を投じ、アメリカへ戻る者もいたが多くは独立派としてイングランドで活動、グッドウィン、ナイ、ピーターなどはオリバー・クロムウェルの側近として取り立てられた。コットンもアメリカで布教しながら1650年に第三次イングランド内戦のダンバーの戦いで勝利したクロムウェルへ戦勝祝いの手紙を送り、アメリカで議会派、特に独立派を擁護する演説を行い革命を支持した。 一方、政治家のグループにも独立派と目される勢力(政治的独立派)がいて、ジョン・ピム、ジョン・ハムデン、ヘンリー・ベイン、オリバー・クロムウェル、ヘンリー・アイアトンらがメンバーだった。彼等は独立教会を信奉するピューリタンで、議会派の一方の勢力となった政治的独立派はグッドウィンらが率いる宗教的独立派と結び、軍事改革を通じて軍を掌握し、1643年のピムとハムデンの死後はクロムウェルをリーダーとして革命を進めていくことになる。 1642年から始まった第一次イングランド内戦が進むにつれ、議会派は方針で和平か徹底抗戦かで分裂し対立、貴族など保守的な前者は長老派と、政治的独立派の後者は宗教的独立派と提携した。この対立は1643年にスコットランドの国民盟約(盟約派)と結んだ厳粛な同盟と契約の内容を問うウェストミンスター会議で現れ、同盟に基づきイングランドに長老制を導入することに独立派が反対、平等派など他の分離派とも手を組んでニューモデル軍を基盤とした政治勢力を結成した。1644年に東部連合司令官でマンチェスター伯エドワード・モンタギューの怠慢を副司令官で鉄騎隊隊長のクロムウェルが議会で非難し、議会でも長老派と独立派の対立が激化すると、独立派はクロムウェルを擁護しマンチェスター伯を庇う長老派に立ちはだかった。やがて1645年にニューモデル軍創設、辞退条例制定などで独立派が勢いに乗り、ネイズビーの戦いで王党派を壊滅させて1646年に内戦を議会派の勝利で終わらせ、長老派に脅威を与えた。 危機感を感じた長老派は独立派の基盤であるニューモデル軍解体を画策、軍内部でも政治構想で独立派と平等派の対立が発生した。1647年にアイアトンら独立派が『建議要目』を、平等派が『人民協定』を起草、パトニー討論でクロムウェル・アイアトンら独立派と平等派がイングランドの政治改革案で対立、一時は平等派が軍兵士を煽り暴動が起こったが、クロムウェルが素早く鎮圧したおかげで軍は再び独立派が掌握した。1648年の第二次イングランド内戦におけるプレストンの戦いでスコットランド盟約派と結託した王党派に勝利した軍と独立派はプライドのパージで長老派を追放、ランプ議会を形成して革命の主導権を握った。議会は翌1649年にチャールズ1世を処刑しイングランド共和国を樹立、共和国は独立派が主導権を握った。
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