清教徒革命をめぐって
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「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「清教徒革命をめぐって」の解説
国王から強く信任されるようになり、1643年2月には財務大臣と枢密顧問官(PC)に任じられた。 ハイドら立憲国王派は内乱勃発後も「議会に規制された王政」の存続を旗印に議会との和平の道を探っていた。王党派の本拠地オックスフォードに議会派の和平派を迎え、彼らと交渉を行った。その中で議会派は国王が軍の統帥権を放棄すれば和平は成立しうるとの見解を示した。ハイドはさっそく国王にその旨を伝え、「陛下の置かれている苦境は、戦争の継続によって改善される見込みはありません。一方議会の和平案は陛下を少しも傷つけないばかりか、著しい利益を与えるものです」と助言してこの和平案を呑むべきと進言したが、国王は王妃ヘンリエッタや強硬派の側近にそそのかされてこの和平案を蹴ってしまった。後世ハイドはこの時の国王の態度を「取り返しのつかない決定」と評した。ハイドの盟友フォークランド子爵はこの国王の態度に失望して1643年9月20日の第一次ニューベリーの戦い(英語版)において自殺同然の戦死をしている。 12月にハイドの助言を容れて国王はオックスフォードに議会を招集すること、ウェストミンスターの議会を離れてこの議会に参加した議員には例外なく恩赦を与えることを宣言した。ハイドの狙いはオックスフォードとウェストミンスター双方の穏健派(立憲国王派と議会和平派)の合流だった。1644年1月に召集されたオックスフォード議会は40名の貴族院議員と100名の庶民院議員が出席し、ウェストミンスター議会との和平を追求したものの、成果のないまま終わった。ハイドの努力はまたも徒労に終わった。 ハイドが最後に和平交渉に加わったのは1645年1月から2月にかけてのアックスブリッジでの会談だったが、この時には議会派は完全に抗戦派に牛耳られており、和平派はもはや議会内で力を持っていなかったため、実を結ばなかった。
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