清教徒革命へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:34 UTC 版)
「チャールズ1世 (イングランド王)」の記事における「清教徒革命へ」の解説
無議会政治(議会が閉じられた状態で専制政治を行うこと。個人支配(英語版)とも呼ばれた)の間、チャールズ1世は外交を親仏に切り替え1629年4月にフランスと和睦。翌1630年11月にスペインともマドリード条約(スペイン語版)を結んで和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため国王大権を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、星室庁・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰。新たな側近として、トマス・ウェントワース(後にストラフォード伯爵)、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一化するため、ピューリタンを弾圧。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するに及んで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯爵はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。1633年にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も、儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、1637年に国教会の祈祷書押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった。 やがて1639年、スコットランド貴族層が国民盟約を結成し主教戦争が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近のジェイムズ・ハミルトン(ハミルトン侯爵、後に公爵)の工作で一旦休戦した(ベリック条約)。さらに反乱鎮圧のための戦費を得る目的で1640年、11年ぶりに議会を招集するも、話し合いは国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。4月の短期議会はジョン・ピムを先頭に専制に対する批判が続出したため5月に解散。戦費は得られず、スコットランドは国民盟約が主導権を握り、8月のニューバーンの戦いにて国王軍が敗北。チャールズ1世は盟約派と和睦するしかなくなった(リポン条約)。和睦締結まで北イングランドに駐屯するスコットランド軍の費用を支払う羽目に陥り、財政難のため11月に長期議会を召集せざるを得なかった。 チャールズ1世は議会に対抗するため1641年8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部であるアレクサンダー・レズリーとアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルをリーヴェン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄されたジェイムズ・グラハム(モントローズ伯爵、後に侯爵)を釈放させ、スコットランドの長老派教会を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた。 長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・星室庁・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは1645年1月)。アイルランドでも同年10月に反乱(アイルランド反乱(英語版)・アイルランド同盟戦争(英語版))が起こりアイルランド・カトリック同盟が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月22日に議会の大諫奏(大抗議文)が可決、追い詰められたチャールズ1世は翌1642年1月4日、兵隊を率いて反国王派のピム・ハムデン、アーサー・ヘジルリッジ、デンジル・ホリス、ウィリアム・ストロードら含む5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の対立が決定的になった。そして議会から裁可を求められた民兵条例・19か条提案を、大権を制限する内容だったため拒否。8月22日にチャールズ1世はノッティンガムで王旗を掲げ、第一次イングランド内戦が勃発した。
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