艦型とは? わかりやすく解説

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艦型

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:44 UTC 版)

ヤマト (宇宙戦艦ヤマト)」の記事における「艦型」の解説

大和型戦艦ベースしたため水上艦艇そのまま宇宙浮かべたような外観有している。 艦体上部中央には同艦の塔型艦橋改造した上甲板から司令塔がそびえ、頂上部には艦長専用居室、その直下には艦の全機能を艦長以下各班の責任者集中管理するための第一艦橋、さらに下に航路策定並びに航海管制機能特化した第二艦橋が収まる。艦長席の椅子は、艦長室から第一艦橋通り第二艦橋まで着席したまま移動出来るように設置され貫通レール乗っている。司令塔真下位置艦底から突き出ている第三艦橋は、メインブリッジである第一艦橋バックアップのためのサブブリッジである。内部設備は、重力環境船体転覆したような状況想定した上下対称構造になっている主砲始めとする各種兵装は、艦体上部集中している。大気圏内航時の安定保持のため、左右両舷に収納式の巨大なデルタ翼主翼安定翼可変翼)を装備している。 また、着水潜水能力有している。

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夕雲型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号F50(陽炎型はF49)。艦型は陽炎型駆逐艦とほとんど同じだが、若干変更がされた。艦の殆どが太平洋戦争中竣工であり、順次戦訓による改正が行われている。なお約半数の艦で写真が見つかっておらず、改正状況推定となる艦もある。

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吹雪型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号F43。

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陽炎型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

基本的に朝潮型とほぼ同じ艦型になる。友鶴事件第四艦隊事件教訓を完全に盛り込んだ設計となった

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江風型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号F30。前型である磯風型の設計大幅に改良した機関初めてオールギアードタービンを採用した艦(後述)で、計画慎重に進められた。船体形状水槽試験で数種類比較検討して決定船体重量軽減にも一層注意払い浮いた分を機関重量回した。 4基の缶(ボイラー)を全て重油燃焼とし、日本海軍駆逐艦として初めてオールギアードタービンを搭載したことによって37.5ノット高速力実現した。なおタービン形式天龍型と同じブラウン・カーチス式である。竣工当初タービン翼折損事故頻発したが、造機技術官の努力により逐次解決されていき、本型以降駆逐艦主機関重油専焼缶とギアードタービン組合せとなった主砲磯風型より1基減の3基だが、装備位置高くして荒天時砲戦能力向上図った雷装は前型と同一の、45cm連装3基6門を装備した探照燈艦橋上の1基に加え後部マスト直後にも1基装備し夜戦能力強化図っている。 主砲艦橋前後に1門ずつ装備するなど、同時計画天龍型軽巡洋艦と艦型が類似し河合定二造船官の設計思われる全体的に雷撃力と速力重視しその分砲力が犠牲となった

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秋月型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

設計主務者は松本喜太郎基本計画番号F51。

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第一利根川船」の記事における「艦型」の解説

煙突1本の外輪船で、帆やマストは無い。主機は斜置2気筒機械で、気筒直径53cm行程は485mm。ボイラー汽車缶1基を装備し蒸気圧力は最大5kg/cm2の記録があるという。 要目表の値は『横須賀海軍船廠史』、機関は『帝国海軍機関史』等によったその他の文献による要目以下の通り。 『記録材料海軍省報告書』:長さ131尺7(39.91m)、幅1844(5.59m)、深さ6尺9寸48(2.11m)、吃水3尺8(1.15m)、排水量170英トントン数64トン75名馬力 『帝国海軍機関史』:長さ134 ft 7 in (41.02 m)、幅18 ft 4 in (5.59 m)、排水量170英トン(『廃艦機関沿革』による) 『近世帝国海軍史要』:排水量170英トン日本近世造船史 明時代』:トン数170トン長さ134 ft (40.84 m)、幅18 ft (5.49 m)、75馬力

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樫野 (給兵艦)」の記事における「艦型」の解説

本艦は、1航海で1基の主砲塔砲身3本砲塔装甲輸送できるよう設計された。「一度主砲砲身6本・主砲塔2基を輸送できるともされる51センチ搭載予定した超大和型戦艦用の砲塔搭載設計時に想定された。これはよく言われる51センチ連装砲塔ではなく、3連装砲塔(3,790トン)が採用され場合にも対応できた。[要出典] 上甲板には計3カ所のハッチがある。最前部のNo.1ハッチ長さ19.2m、幅11.0m、主砲身の運搬支障出ないように砲身長さ20.7mとほぼ同じ長さとなっている。No.2ハッチ長さ13.6m、幅12.5m、No.3ハッチ長さ15.7m、幅14.8mの楕円形3番目の船艙最大だった。運用長は、最大ハッチ砲塔旋回部用)は直径16mの円形回想している。 艦幅に対してハッチ部分が非常に広いので、上甲板での船体強度確保のために、船体断面上部外側捲れた様な特殊な形状をしている。また、砲塔輸送中に他船との接触や座礁で船艙浸水すると、国防計画重大な影響がでるので、船艙部分船底二重底そのまま舷側の上甲板まで続く、軍艦同様な二重構造となっていた。重量物を積載する関係で極端な重心構造設計されており、波浪の際には激し横揺れ発生した。「耐え難い乗り心地」という報告残っており、後ほど上甲板鋼板積み重ねて載せて重心上げ処置実施された。 砲塔砲身輸送する場合揚げ降ろしは、工廠造船所にあるクレーンを使うので、本艦デリックの必要はないが、通常の貨物輸送にも使えるように装備された。その場合はハッチ大きすぎて不便であり、船体補強兼ねて鋼板鋲接開口部分を小さくして使用し鋼板をはずせば再度砲塔輸送ができるようにした。 機関技術吸収の意味もあり外国から輸入スイスブラウン・ボベリ社製のタービンアメリカラモント社製の缶(ボイラー)を搭載している。缶は蒸気温度450度、圧力50kg/平方cmと、島風型駆逐艦島風400度、40kg/平方cm上回る高温高圧缶だった。更に、輸入した缶が不調だった場合備え日本製ホ号艦本式缶も2基搭載これだけ全力発揮できるようにし、2種類の缶の比較実験兼ねた。また輸入が間に合わなくなった場合備えタービン樅型駆逐艦のもの、缶は戦艦伊勢から陸揚げしたものを臨時搭載する第2案も準備されていた。

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鷹野型給油艦」の記事における「艦型」の解説

基本的な艦型は「速吸」に類似している。 船体規模は大体1TL型戦時標準船と同じ、機関出力は約2倍として速力20ノット計画速力が違うため線図は全く違うものとなった船体形状は「速吸」と同じで船首楼甲板船尾楼甲板有し船橋楼甲板持たず船首楼甲板後端軍艦艦橋と3脚式前部マスト設けたその後方から、上甲板上高さ約7mの位置船尾楼甲板まで続く射出甲板設け航空機8機を搭載、その前寄りの位置カタパルト2基を設置し航空機の急速発進対応した射出甲板下部には船首楼甲板と同じ高さに最上甲板設けてハンガー(格納庫)とし、折りたたんだ航空機(6機)を格納エレベーター設置しない後部デリックは「速吸」では右舷左舷各1本ずつあったが、本艦型では射出甲板後端部の船尾楼甲板中心線上に3脚式後部マスト1本とそれを支柱とした長大デリック1本を設置曳航補給用と航空機収用兼用した。 ハンガー航空機射出甲板揚げ降ろ場合もこのデリック使用する予定だった。 機関部舷側重油タンク設置し機関各室は船体中心線上に一列割り当てられた。 そのため缶室が従来タンカーより前方になり、煙突上甲板後方へ約30m這い右舷側に立ち上がるとなった船体中央部従来タンカー同様に重油タンクだったが、最前中央のものは空母と同じ全溶構造軽質油ガソリンタンクとした。 曳航給油設備として前述デリックの他、最上甲板レベル左舷側に全通蛇管通路設置、また補給糧食及生糧品庫、補給弾薬庫などは船首楼の下に置かれた。 12.7cm連装高角砲は艦の前後に各1基設置25mm機銃は3連装2基、連装1基を計画、 3連装機銃艦橋後方横の射出甲板レベル左右1基ずつ装備した

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洲埼型給油艦」の記事における「艦型」の解説

艦型は船首楼型で船首楼後端艦橋設けその後方に前部マスト設置した前部マスト後部甲板上に防舷物として使用する浮船を2個搭載し、その揚げ降ろしのために前部マスト頑丈な3脚マストとして20トン大型クレーン装備された。また後部に門型のデリック・ポストを設置し爆弾などの搭載のための5トンデリック1基が装備された。 兵装は艦の前後12cm単装高角砲を1基ずつ、25mm連装機銃を艦の中央部、上構の左右に1基ずつ装備した機銃増備されたのではないかという意見もある。 実際の「洲埼」の搭載量以下の通りだった。 軽質油 1,080トン 航空機用潤滑油 173トン 弾薬火工品 爆弾の時205トン魚雷の時192トン爆弾の時は800kg57個、250kg229個、60kg363個 魚雷の時は九一式魚雷27本、爆弾が800kg45個、250kg183個、60kg243個 生糧品 8トン 真水 53トン 航空材料 5トン

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野埼 (給糧艦)」の記事における「艦型」の解説

船体は3島型とし、船艙には肉、野菜など合計235立方メートル冷凍庫設置、3,00010日分の生糧品が冷凍庫で約2カ月保存できた。 生糧品の揚収のために前部マストデリックを1トン1本、3トン1本の計2本を装備した後部には小さ雑品倉庫があり、 後部マストにもデリックを2本装備した兵装艦首砲台設け 8cm単装高角砲1門を装備、その他7.7mm機銃2挺も装備した全体として民間トロール船冷凍船大きな違いはないが、海軍補給船として兵器補給真水搭載し民間船より速力があり、乗員が多いなどの違い出た中型冷凍船(後の「崎」)との比較結果、艦型が小型すぎるとして同型艦建造されなかった。

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アンドロメダ (宇宙戦艦ヤマト)」の記事における「艦型」の解説

デザインからほぼ変わっていないが、細部バランス調整してデザインパース絵雰囲気立体保てるようにされている。後述通りアンドロメダ極端なパース描かれるため、三面図パース絵の間の接合性が薄い。『2202』では、コンセプト段階三面図パース絵のどちらを目指すのかと玉盛が本作監督である羽原信義確認したところ、パース絵再現選択された。

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初鷹型急設網艦」の記事における「艦型」の解説

計画番号H12。基本的には「白鷹」の設計改良近代化した艦型になる。 船首楼シアがほとんど無く艦尾の上甲板後方大きく張り出しており、敷設艦艇に特徴的な船体を持つ。一度敷設できる防潜網をなるべく長くするために、船首楼艦橋直前終わっていた。なお艦首大型ローラー備えるため、菊花紋章左右舷に1個ずつ(計2個)が取り付けられていた。 防潜網は「白鷹」と同じ24組(6カイリ分)を搭載する防潜網代わりに三式1号機雷100個の搭載も可能。敵前での夜間敷設考慮して灯火管制中でも敷設準備出来るよう設備整えた主機タービン(白鷹レシプロ)を搭載し速力(白鷹16ノットから本型20ノット)や航続力(同2,000カイリ/10ノットから3,000カイリ/14ノット)が改善された。当時海軍方針により、本型の燃料重油石炭併用となった砲熕兵装についてはマル3計画建造された2隻には砲ではなく40mm連装機銃2基が装備され対空対潜両方使用できるよう考えられた。実際に潜水艦対す貫徹能力が不十分であり、「若鷹」は8cm単装高角砲2基に改められた。 「白鷹」では復元性改善工事後も、艦の大きさ対し重心位置が非常に高かった。この艦種では防潜網を網庫から上甲板上げた時(敷設時)に重心位置が更に高くなる。本型ではこの状態も考慮して網庫を艦内低くない位置配置し防潜網が網庫から上甲板移動した場合でも重心位置大きく変化しないように配慮した

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神島型敷設艇」の記事における「艦型」の解説

艦型は平島型敷設艇(測天型敷設艇)をタイプシップとし構造艤装とも簡易化とされた。すなわち船体線図直線多用しキャンバー無しシアー艦首直線的に付した以外は無かった。上構も出来るだけ簡易化され、煙突六角形となっている。 主機マンディーゼル在庫品1隻分を当て(「粟島」に搭載)、残り当時丙型海防艦用に量産されていた艦本式ディーゼル搭載した(「神島」他1隻)。このため艦本式ディーゼル搭載艦速力は(平島型の20ノットから)16.5ノット落ちている(「粟島」は19.5ノット)。 平島型が船団護衛のために航続力(計画14ノットで2,000カイリ)を伸ばす必要が生じたため、本型では計画から航続力14ノットで3,000カイリとした。 兵装は、従来8cm高角砲代わり仮称五式(ボーフォース)40mm単装機関砲が2基装備された。機銃当時平島型に増備された数を基準搭載した。『終戦時日本海軍艦艇』によると25mm連装機銃2基、同単装3挺の計画だったが、連装1基と単装4挺が追加されたという。電探13号22号各1基を装備ソナーは九二式水中聴音機1基、三式二型探信儀1組装備するなど、最新型一通り装備した

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野間 (給油艦)」の記事における「艦型」の解説

船型日本タンカーには珍しい中央機関のトランクド・デッキ型である。日本での同様の形式タンカーとしては「瑞洋丸」(日東鉱業汽船、7,386トン)と「第三小倉丸」(小倉石油、7,350トン)の輸入船、太平洋戦争中平時標準船A型B型C型K型戦前建造船各種貨物船改造した応急油槽船があるほか、「野間」と全く同じ War 型戦標タンカー1937年昭和12年)に輸入された「御津丸」(大平汽船、5,682総トン、旧イギリスWar Gaekwar)、1938年昭和13年)に輸入された「北喜丸」(北川産業、5,599総トン、旧イギリス艦「ウォー・ビーガム」War Begum)、1940年昭和15年)に輸入された「大神丸」(大岩汽船部、5,574総トン、旧イギリス艦「ウォー・カーン」War Khan)の中古船3隻が輸入され太平洋戦争中にも「南丸」(飯野海運運航、5,542総トン、旧イギリス艦「ウォー・サーダー」War Sirdar )の1隻が鹵獲されている。「野間」は、対潜偽装のために艦橋煙突の間にマスト立てていた。 上述通り船体中央機関室があり、石炭庫はその上左右1カ所ずつ、また前方に1カ所の計3カ所、石炭庫の前に燃料タンク設けた。その前後には前部に3カ所、後部に2カ所の重油タンクがあり、タンクには7,290トン搭載計画だった。また艦首艦尾部には船艙が各1個あり、倉庫もあった。 搭載量は、計画載貨重量8,450トン重油満載8,080トン(燃料タンクを含む、以下同様)石炭石炭庫848トン予備石炭198トン、庫外498トンの計1,346トンだった(実際に載せられるのは貨物合計載貨重量トン以下、以下同様)実際満載量として竣工翌年1920年(大正9年)の文書重油8,080トン石炭庫1,290トン記載がある。また1924年(大正13年)調べでは重油満載7,720トン石炭庫1,290トン、庫外240トンの計1,530トンとなっていた。

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夏島 (二等敷設艇)」の記事における「艦型」の解説

本艇は各軍港、要港警備するための機雷敷設艇日本海軍初めての大型敷設艇である。それまで70トン木造船始まり300トン中型艇を使用していた。本艇に次いで測天型敷設特務艇建造された。 福井静夫によると本艇は測天型敷設特務艇同型とされる。ただし写真を見る限り艦首形状前部マストの高さ、短艇搭載位置などに測天型との違い見られる

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小鷹 (砲艦)」の記事における「艦型」の解説

艦型は全体的に熱海型を縮小簡易化たようなものとなった船体は底の平たい1層甲板で、また艦尾はトランサム型であった上部構造物は操舵室より前に船首楼甲板設けて士官室とし、士官直後からは兵員室、艇長室は操舵室後方に、厠と烹炊所は後部構造物内に設けられた。敷物中央部上甲板のみを木甲板とし、それ以外滑り止めをつけた。 機関航続力要望満たすためディーゼルエンジンとし、新潟M6Hディーゼル270馬力を2基搭載することで15.5ノット得た。2基のスクリュー船底設けたセレス内に収められベースラインより下に出ないようにし、また舵は2枚スクリュー直後置かれていた。 兵装は7.7mm機銃3挺で、前甲板操舵室天蓋後部構造物天蓋それぞれ1挺ずつ、また30cm探照燈と1m測距儀操舵室天蓋置かれた。 運用開始後1931年落下防止用に手摺設置機銃に盾を装備など要請され工事実施された。操舵室居住区への防弾装備要請があったが、重量などの問題実施されなかった。 なお、数年後本船をタイプシップとして満州国砲艇2隻が建造された。

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平島型敷設艇」の記事における「艦型」の解説

計画番号H11B。前型の測天型敷設艇(計画番号H11)とほぼ同一の艦型だが、その実績を取り入れて細部わたって色々な改善が行われた。 測天型で搭載した毘式40mm単装機銃は、潜水艦の内殻に有効な被害与えることが出来ないことが実験判り代わりに8cm高角砲1基を搭載した対潜装備として水中聴音機水中探信儀竣工時から装備した(測天型の計画では搭載考慮したのみ)。補音機近く外板表面をなるべく平滑にするなどの対策が行われたが、それでも航走中はほとんど使えず停止聴音前提としていた。 船体測天型より深さを20mm増している。「一般計画要領書」によると測天型の搭載機は九三式機雷のみだったが、平島型では九三式機雷の他に五号機雷や九二式機雷搭載できた。また掃海装備搭載計画された。 爆雷投射機は計画では九四式投射機1基だが、竣工時は爆雷投射機2基、または三式投射機4基とする文献もある。 大戦中の船団護衛では航続力の不足が指摘され機械室後部バラストタンク重油タンク改造して重油17トンを増載、14ノットで4,000海里まで航続力伸ばした1944年(昭和19年)以降機銃などの増備なされたらしく、「済州」の例では25mm連装機銃4基(13mm機銃撤去)、同単装7基、計15艇を最終的に装備したレーダー22号電探1基を装備した。「怒和島」では22号電探代わり13号電探装備したという。「怒和島」は九四式爆雷投射機も1基から2基に増備しているという。

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測天型敷設艇」の記事における「艦型」の解説

計画番号H11。前型の夏島型敷設艇(計画番号H5、H5b)の改良型になる。軍令部要求夏島型に準じたのだったが、公試排水量を本型から機雷搭載状態に変更したため、計画750トン(夏島型は510トン)となった船体凌波性上のため船首楼艦橋後端まで延長艦首向かってシアー付けた(夏島型はシアー無し)。舵は低速での保針性のために半釣合舵を装備した主機当初の計画ではタービンだったが、「猿島」で好評だったディーゼル推進とした。搭載マン3号10ディーゼルエンジンは元が商船用で比較低速重量大きかったが、性能信頼性良く出入港では内火艇のように自由に操艦できたという。 主砲代わり対潜艦のために発射速度速い40mm機銃搭載したが、次型の平島型では8cm高角砲戻されている。機銃は13mm連装機銃1基も装備した機雷は九三式機雷120個の搭載できた。なお、次型の平島型では九三式機雷五号機雷、九二式機雷(管制機雷)のどれか1種類搭載計画されている。機雷搭載しない場合は、防潜網捕獲網の搭載出来た機雷庫は機械室前後置かれ、艦の前後方向重心移動考慮されている。その他爆雷36搭載出来、いわば対潜哨戒敷設艇であった

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箕面 (敷設艦)」の記事における「艦型」の解説

基本的にとなった2D型戦時標準船(船尾楼小型貨物船)と変わらないが、機雷敷設のための改造がされた。先に改造が行われた「永城丸」と大きな変更はない。 機雷搭載500個の要求であった船艙改造した機雷庫に232個、上甲板設置敷設軌道艙口付近軌道を片舷2本にして148個を置き、計380個を搭載可能とした。敷設軌道は片舷1条ずつが船尾楼両舷を貫いて艦尾達して海上敷設する形とし、敷設口部分には大きな張り出し設けた船尾楼内の軌道部分浸水時の浮力保持に重要であったので、軌道入口(船尾楼前端)と敷設口には防水扉を設けた船艙3つ(「永城丸」の船艙2つ)に分けて浸水対策とし、更に船艙内は中甲板新設して上下仕切り下部機雷庫と上部機雷庫を設けた中甲板後方には兵員室、士官寝室前部測室などを設けた艙口(ハッチ)には元々木製があったが防水上の観点から鋼板でふさぎ、小さな機雷用の艙口新たに設けた機雷搭載機雷庫からの取り出しには元からあったデリック使用する予定だったが、機雷取り扱い難しく結局専用のスキッドビームとホイスト設置した主機従来2D型レシプロ機関搭載(2DRS型)の所、タービン1基を搭載(2DT型)、本艦2D型タービン搭載1番船だった。ボイラー石炭専焼缶を搭載戦後の復員輸送の際には重油焚き変更した兵装艦尾砲台設け12cm高角砲1門を設置した25mm機銃は、艦首の両舷に3連装それぞれ1基ずつ、艦橋上両舷に連装1基ずつ、艦尾に単装4挺を設置したレーダー13号電探1基を装備ソナー最新式仮称五式一号水中聴音機1組装備、同聴音機装備した唯一のとなった。また探照燈1基も煙突後方備えていた。 その他に羅針艦橋前面上面には14mmの防弾板を装着羅針艦橋天蓋にはコンクリート製屏風設けて乗員機銃掃射避けとした。 当時貨物船絶対的に不足しており、機雷搭載しない場合貨物船として使用できるように従来デリックは殆ど残しカーゴハッチも3カ所設けていた。

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ドゥダール・ド・ラグレ級砲艦」の記事における「艦型」の解説

船首楼のない平甲板型で艦首はスプーンバウを採用主砲前部主甲板上に、37mm機砲は上構一階屋上部分に、機銃煙突挟んだ前後装備されていた。主缶フーシェ石炭専焼缶2基、三段膨脹式往復動機関2基2軸推進で、速力はドゥダール・ド・ラグレが13kt、バルニーは14ktであった武装はM1885 37mm5連装回転式機砲(英語版)が6門であったが、ドゥダール・ド・ラグレは1918年、バルニーは1930年代改装を受け、M1897 75mm砲1門、M1902 40口径37mm砲2門、Mle1907 8mm機銃英語版)4挺となった

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蒼龍 (御召艦)」の記事における「艦型」の解説

前述通り内海御召船として建造され198トン木造外輪船(帆走併用)で、玉座を1カ所備えていた。当時の記録では艦種を皇艦ともしている。 主機揺動機械1基で2気筒シリンダー直径は800mm、行程は720mmだった。ボイラーは管入方形缶1基。半円缶とする文献もある。大きさ長さ1m、幅3.590m、高さ2.540m、炉筒は2個あった。復水器注射式だった。 1879年(明治12年)3月30日御召船の装飾として煙突塗装を薄黄土色変更(従来黒色)の上申があり、7月3日認許された。

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二連三段空母」の記事における「艦型」の解説

全長540mの大型艦で、ガルマン・ガミラス世代新型三段空母設定のみで劇中に登場せず)を左右に2隻繋ぎ合わせた双胴式の形状を持つ。艦橋周り最上飛行甲板艦上機出入り口デザインなど戦闘空母流れを汲んでいる。艦体色ガミラス世代戦闘空母などと同じ赤。

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若竹型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

本型の計画番号はF37C。前型である型(計画番号F37、F37A、F37B)の改型とも言える艦級である。 型では復元力の不足から舵を切るときの傾き大きくなり、本型では船体幅を6インチ(約15cm)広げて改善図った。また型では排水量計画より45トン超過する状態で、軽減する見込みも無いことから、本型では初めから計画排水量900トン(型より50トン増)とした。これにより吃水が3インチ(約7.6cm)増加し速力36ノットから34ノット低下する計画だった。外見上に型と大きな違いは無い。

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第二利根川船」の記事における「艦型」の解説

木造外輪船第一利根川船姉妹船であるが、船体主要寸法若干違う。『横須賀海軍船廠史』の利根川丸の艦型図によるとマスト装備していないが、マスト1本、または2本の記録がある。機関第一利根川丸同じになる主機は斜置2気筒機械で、気筒直径53cm行程は485mm。ボイラー汽車缶1基を装備し蒸気圧力は5kg/cm2だった 要目表の値は『横須賀海軍船廠史』、機関は『帝国海軍機関史』等によったその他の文献による要目以下の通り。 『記録材料海軍省報告書』:長さ131尺9996(40.000m)、幅18尺5(5.606m)、深さ6尺9寸3(2.100m)、吃水3尺2(0.970m)、排水量109.25英トン帝国海軍機関史』:長さ40m(21間5尺7寸2分)、幅5.61m(3間4寸7分8厘)、吃水前後共91cm(3尺6分2厘)。(『艦船総表及経歴書』による)。または排水量109.3英トン長さ133 ft 3 in (40.61 m)、幅16 ft 6 in (5.03 m)(『廃艦機関沿革』による) 『近世帝国海軍史要』:排水量109英トン日本近世造船史 明時代』:トン数109トン長さ132 ft (40.23 m)、幅16 ft (4.88 m)、30馬力

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磐城 (砲艦)」の記事における「艦型」の解説

木造船体で三バーク型の砲艦になる。計画要目以下の通り垂線間長:44.60m 最大幅:7.72m 吃水:平均3.15m 出力:650馬力 兵装:15cm回転砲1門、12cm舷側砲2門

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迅鯨 (初代)」の記事における「艦型」の解説

2スクーナー型の(木造)外輪船で、外海御召艦(快走御召船)になる。艦種は『日本近世造船史』ではヨット、『Conway』では外輪コルベット(paddle corvette)としている。 当初計画では3だったが、1876年(明治9年)にチボジエーの進言により2改められた。見た目悪さ中央の網具取り付け外輪が邪魔になる、御座のある部屋真上がかかる、というのが理由だった。

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満月 (駆逐艦)」の記事における「艦型」の解説

満月秋月型の中で唯一基本計画番号F53に従ったものとされる基本計画番号F51との違い艦首部がナックルフレアであること、船首楼甲板上端断面が垂直であること、艦尾側面形が末広がりではなく垂直であること、艦橋丸み帯びていないこと、艦尾艦底部が曲線ではなくナックルつけられていることなど、曲面曲線極力廃したもので、特殊鋼使用もやめたとされる。 特に艦橋艦首設計は、1944年1月16日被雷大破した涼月復旧工事の際に使用されたと考えられている。 ただし、満月本当に基本計画番号F53に従って建造されていたかどうかについては異説有り一般艤装改正図の記述では「本改正367号艦以降実施」とあり、このことから満月通称冬月型に含まれるとされる367号艦は、花月次の艦である。

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大浜 (標的艦)」の記事における「艦型」の解説

船体は前甲板での防御甲鈑位置低めるために平甲板型とされ、簡易化のため直線型の艦首となった防御上の観点から舷窓廃止し居住性確保のため冷却設備装備する予定だった。 防御は4,000mからの爆撃投下される10kg演習弾耐えることが求められ、「矢風」や「摂津」の訓練実績元に当たって防御鋼鈑軽く凹む程度厚さ計算された。上甲板のうち爆弾の当たる可能性のある部分その上に設置され防御甲板には25mmDS鋼が張られ傾斜部分などは更に薄くされた。防御甲板の高さも復元性能の観点からなるべく低くされ、中央の缶室部分は下に短艇搭載できる高さがあったが、それより後部中央部分のみを通路として使用できる高さにして、それ以外甲板下が保守点検のできる程度の高さ800mmに抑えた。また防御甲板は、鋲接構造にすると爆弾当たった時の衝撃で鋲が飛ぶ恐れがあるので、全溶構造作られた。爆撃訓練時に人のいる艦橋居住区トイレなどは、防御鋼鈑との間に空所設けられスプリンター対策施した舷側部分は18mmMS鋼とされ、「波勝」の舷側傾斜10度あったが、本艦では復元性能を考慮して5度減らされた。 機関秋月型駆逐艦と同じものを使用当初33ノット計画した。また機関配置陽炎型駆逐艦同じにして、機関室長さ最小とすることを目指した。 艤装工事途中で護衛艦にも使用できるように計画変更され竣工時より甲板上に多数機銃配置された。対潜兵装として爆雷投射台、爆雷投下軌条装備された。弾薬庫冷却設備スペース当て爆撃訓練時には高角砲と3連装機銃陸揚げし、単装機銃艦内保管予定だった。これら兵装増備で艦の重量増え公試排水量当初の2,950トンから3,070トン計画になり、公試吃水は0.13m増、速力0.5ノット減少航続距離50カイリ減少する予定となったしかしながら、元々復元性能に余裕があることで多く兵装追加することができた。

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伊吹 (空母)」の記事における「艦型」の解説

空母への改装による重心の上昇に対応し復原力をあたえるため、船体バルジ増設された。また艦載機大型化対応するために、船体長よりも長い飛行甲板長さ205m、幅23m)を設置するこのため従来日本軍小型空母のように船体前方飛行甲板下に艦橋設けることが出来ず日本小型空母としては異例アイランド島型艦橋)を採用している。重巡洋艦からの改装のため、格納庫は1段のみ、魚雷調停場も有しないこのため搭載航空機数はそれほど多くなく、エレベーターも2基のみで小さかった改装案では、銃砲座のブルワーク丸み帯びていたが、戦時改装に伴い直線状の簡易なものとなった戦後撮影され写真では、艦体は迷彩を施さずに軍艦一色塗装されているほか、なぜか赤い水塗装喫水線ではなくバルジ沿って塗装されていた。 空母への改装にあたりボイラータービン巡洋艦計画時より半減した空いたボイラー室重油タンク等に、後部タービン室は航空機用ガソリンタンク軽質油庫)となり、プロペラ軸数も、最上型重巡洋艦の4軸から2軸に減少している。これによって出力15万2,000馬力から7万2,000馬力減少し最高速力は35.0ノットから29.0ノット減速航続距離18ノットで8,000海里予定していた。最高速度30ノットに満たなかったのは、6,300海里であった重巡洋艦時の航続距離延長と、大鷹型航空母艦などの商船改装空母がほぼ同じ速力運用されても支障なかったためだと予想されている。機関室舷側30 - 100mm、(機関室上部)甲板35mm防御施した余剰となった本艦と第301号艦の機関雲龍型航空母艦2番艦「天城」と同型4番艦「笠置」に転用された。

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マエストラーレ級駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

復原性不足していたダルド級駆逐艦改良型であり、船体一回り拡大されている。排水量増した一方で出力強化されてないが、前級に比べ船体が約10m延長されたことにより高速力維持されていた。また、主砲新型である「OTO社製 50口径 Model1931 12cm連装砲」を搭載しており、軽量化施されたが強度低下していた。 各部余裕生まれるなどした為、その基本設計は後のアルフレード・オリアーニ級、ソルダティ級へと受け継がれた。

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筑摩 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説

筑摩型は、日本海軍巡洋艦として初めタービン機関採用した同型艦3隻(筑摩平戸矢矧)には性能実績調査するためにそれぞれ異なタイプ機関搭載している。筑摩大型缶には過熱器装備されている。一般的に筑摩型は防護巡洋艦認識されているが(日本海軍法的な類別二等巡洋艦)、舷側装甲持っていた。

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杵埼型給糧艦」の記事における「艦型」の解説

多種類の糧食を積む「間宮」「伊良湖」とは異なり冷凍糧食生鮮品特化した艦としたので冷凍庫を持つ遠洋漁船タイプの艦型となった船体逓信省鋼船構造規定準拠し船首楼船橋楼を持つ1層甲板型である。船艙艦橋前にあり、内部仕切って獣肉庫、卵果物庫、魚肉庫、野菜庫、氷庫などを設けた。これら冷凍庫容積477立方メートルだった。艙口小型の2個があり、前部マストに1トンデリック4本(「埼」はデリック2本)を設け、急速補給対応した艦橋直下冷却機室に力量5,000キロ・カロリー/時の炭酸ガス電動冷却機2台を設置それより後方には士官室や兵員室、機械室などがあって船艙無く後部マストデリック無かった兵装前部砲台8cm高角砲設置、13mm連装機銃後部構造物上に設置した大戦中に13mm連装機銃は25mm連装機銃換装艦橋上に13mm単装機銃2挺を追加したらしい。

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デスラー戦闘空母」の記事における「艦型」の解説

双胴思わせる外観、艦の前から中間にかけて設置した飛行甲板後方艦橋構造物や常用火器寄せた構成など大まかな形状戦闘空母に似るが、全長260メートルと、大型化されている。

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沖島 (敷設艦)」の記事における「艦型」の解説

敷設艦沖島II)」は日本海軍最初純粋な大型敷設艦だが、ロンドン海軍軍縮条約制限下で建造されたため備砲速力制限があった。当初軍令部要求基準排水量5,000英トン速力20ノット、15.5cm砲4門、機銃4門以上、機雷500個以上、航続距離14ノットで5,000浬という規模だった。予算都合上、艦型をなるべく小さくする必要があって基準排水量4,800英トン抑え主砲も14cm砲の在庫品利用することになった基本計画番号H4。この時点(友鶴事件前)での主要目は右表の通り起工直前起きた友鶴事件により急遽設計やり直し船体小型化するなど基準排水量4,470英トンでまとめられた。この時にボイラー重油専焼とし、主砲を単装4門から連装2基への変更もされている。また電気溶接広範囲使用しているため第四艦隊事件後には構造再検討が行われた。燃料搭載量問題もあり(後述)、竣工時の基準排水量は4,000英トンになっていた。 船体はフラッシュ・デッキ型で、艦前部大型艦橋三脚マスト備え艦橋煙突の間のシェルターデッキ上に四十口径三年式八糎高角砲(単装、片舷2門)と艦橋両舷の同甲板上に13mm連装機銃設置煙突後方にはカタパルト(呉式二号三型)とデリック装備した大型三脚マストがある。基準排水量4,500トン艦としては巨大なマストである。これはカタパルト上に九四式水上偵察機搭載するクレーンの支基を兼ねているためである。水上機搭載数は1機のみ。 計画時は最上軽巡洋艦同様の15.5cm砲主砲搭載検討したが、予算の関係から日本海軍軽巡洋艦標準的採用されていた50口径三年式14cm砲となった。この14cm砲は軽巡洋艦夕張」や迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨長鯨搭載同型で、これを連装砲型とし、艦前部と艦後部一基ずつ装備する。砲尾側露出しており、密閉式ではない。敵駆逐艦交戦し撃退することを念頭においていた。 本艦500個の六号二型機雷搭載可能で、艦橋煙突の間の前後両舷4箇所儲けられ機雷搭載口から積み込んだ艦内中甲板機雷格納所があり、艦前後下甲板船艙甲板にも機雷庫がある。この機雷格納所、機雷庫は輸送任務のための倉庫海軍陸戦隊待機所にも転用された。機雷敷設中甲板艦尾伸びる2条軌道で行う(航行時に艦尾開口は扉で閉鎖される)。また上甲板にも軌道2条設置されている。この他爆雷22個と爆雷投射機1基を装備した重油搭載量計画時に自艦用850トン補給200トンだったが、公試結果重油850トン対す航続力が9,500カイリ/14ノットにも達し(計画は5,000カイリ/14ノット)、実際搭載量は自艦用561トン補給360トン改められた。

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風早 (給油艦)」の記事における「艦型」の解説

船体計画のみ終わった逓信省標準船TL型タンカーベースにして、艦隊随伴給油艦として縦曳、横曳の他に斜曳、逆曳による洋上給油できること重油以外の補給物件搭載要求もあり、以下のような変更がされた。 艦隊随伴給油艦としての特有の設備は、後部マストを3脚として洋上給油のためのデリック設けた。更に艦橋前後それぞれ1対のツインポストを設け同じく蛇管吊り上げ用とした。また縦曳給油設備として、左舷寄り全通蛇管通路設け甲板作業の便を図るために上甲板ブルワーク設けずハンドレールとしている。 船体中央部基本的に補給用の重油タンクとなるが、最前部両舷を軽質油(ガソリン)タンクとし、その構造空母のそれと同じにした。そのタンク中央区画にはガソリンポンプ室と補給真水タンク設置した要求として潜水艦用ディーゼルエンジン燃料となる2号重油搭載もあり、中心線タンクをそれに当て給油ポンプ1台をその専用とした。それと同時に潜水艦への荷電もできるようになっており、それ以外補給関係として小艦艇への糧食真水補給ができた。 機関逓信省標準船TL型タンカー搭載予定だったものをそのまま搭載している。計画速力は16.5ノットであるが、公試条件民間試験より排水量の重い状態であり、商船として19ノット相当するものだった。 対空装備計画途中で高角砲口径増大連装化と強化要求があったが、12cm単装高角砲艦首に1門、艦尾に2門設置することで妥協した。また25mm3連装機銃艦橋両側設置した

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隠戸型給油艦」の記事における「艦型」の解説

先に建造され知床型給油艦設計若干修正加えた給油艦である。船体構造改正デリック設備補強行い搭載機関のうち主缶に、知床型の円缶に代わって艦本水管缶あるいは宮原水管缶を採用した。艦型に大きな変更はなく、基本性能違いは無い。

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第四号型駆潜艇」の記事における「艦型」の解説

第3号では重心計画より上昇し軽荷状態ではバラストタンク注水加え燃料若干残す必要があった。そこで本型では重心をなるべく下げて復原性能が良好になるよう、艦橋は1/2デッキ下げ艦橋下部は高さ1mの倉庫区画とした。また煙突付近の上構造物撤去し煙突後部にあった兵員厠は艦橋構造物の後部延長部分設置した。ボート・ダビットをラッフィング型からラジアル型へ変更し搭載艇を甲板置いたのも、重心降下対策思われる。それでも軽荷状態では海水16トン補填が必要とされた。また第3号では竣工後に後部甲板補強必要になったため、本型ではその部分強度を十分考慮して設計された。

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函容丸」の記事における「艦型」の解説

木造気船で、帆装は2ブリッグ型。主機直立双置気筒機械シリンダー直径は660mm、行程は540mmだった。ボイラー方形缶1基で蒸気圧力は2kg/cm2。計画出力250実馬力(60名馬力)だった。 要目表は『海軍省報告書』、『横須賀船廠史』などによったその他の文献による主な要目以下の通り。 『日本近世造船史』:長さ175 ft (53.34 m)、幅20 ft (6.10 m)、トン数373トン63馬力近世帝国海軍史要』:排水量450英トン日本海軍史』第7巻:長さ50.9m、幅7.1m、吃水2.7m、排水量450トン250馬力

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沖鷹丸」の記事における「艦型」の解説

2スクーナー型の木造汽船推進スクリュー2軸で主機蒸気機関2基、ボイラーは1基だった。 要目表の値は主に『記録材料海軍省報告書第一』による。公文原書』に記載冲鷹丸の船体主要寸法以下の通り長さ:キール14間(25.455m)、荷線溝内15間(27.273m) 幅:荷線で2間2寸(4.242m)、甲で2間1尺9寸(4.212m) 深さ:荷線上船首7尺5寸(2.273m)、船尾6尺9寸(2.091m)。荷線下で船首4尺(1.212m)、船尾4尺5寸(1.364m)。 吃水:船首3尺7寸(1.121m)、船尾4尺7寸(1.424m)

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龍驤 (コルベット)」の記事における「艦型」の解説

汽帆併用の3シップコルベット木造船体で舷側に114mmの装甲をもっていた。木造帯ではあるが、当時日本海軍唯一の錬鉄製の装甲艦である東(甲鉄)は1,358トン主力として使われ木造スループ日進は1,468トン旧式艦ではあったが龍驤次に大き筑波でも1,947トンそれ以外軍艦も1,000トン前後のものはわずか数隻に過ぎず大半軍艦運輸船100トンから500トン程度であったため、2,500トン超える当時日本海軍最大の艦である龍驤主力艦として実質的な旗艦役割務めることとなった類別は東、筑波同様の三等軍艦であった。なお、一等軍艦および二等軍艦海軍発足時には存在せず日進四等軍艦であった

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針尾 (給油艦)」の記事における「艦型」の解説

播磨造船所建造1TL型戦時標準船である「南邦丸」型とほぼ同じであり、それに艦隊随伴用の設備追加された。ただ、計画当時戦況悪化し資材不足していたために給油設備補給物件搭載施設の追加最低限とされた。 船体1TL型戦時標準船変わらず軽質油タンク装備されなかった。艦隊給油設備としては後部デリック設け横曳給油のみに対応、縦曳給油用の設備は艦側の強い要望完成直後追加された。補給物件として大発もしくは魚雷艇を数隻搭載できるように艦橋後方の上甲板架台設けられ後部デリック30トンのヘビーデリックとなった対空兵装12cm単装高角砲を艦の前後に1基ずつの計2門、25mm機銃連装艦橋左右に1基ずつ計2基、3連装船尾楼甲板構造物上の煙突前後左右に各1基の計4基を装備した竣工直後に3連装機銃、単装機銃若干増備されたという。電探兵器一通り装備13号電探22号電探音響探信儀装備したともされる

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天龍 (スループ)」の記事における「艦型」の解説

3バーク型のスループ海防艦とする文献もある。『#Conway(1860-1905)』では海門同型艦のスクリュー・コルベット(screw corvette)に分類している。また『日本海軍艦船名考』では巡洋艦称している。船材は木で、横須賀造船所建造する木造船体の軍艦天龍最後になった(次の建造艦葛城」では鉄骨木皮となる)。計画要目以下の通り垂線間長:63.74m、最大幅:9.86m、深さ:計画:6.11m、吃水:前部4.70m、後部5.30m、排水量:1,372英トントン数:925トン速力12ノット乗員2051885年(明治18年)1月竣工前の重心検査行った所、復原性能の不足が判明したこのため竣工時には艦隊へでは無く横須賀鎮守府引き渡して横須賀造船所舷側水線部にバルジ装着した。このバルジ水線幅を増加する目的であり、吃水線上下限定的な範囲だった。バルジ外面内面共に木材作られ、片舷約460mmで水線幅は海門より960mm増加した

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艦型

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千早号」の記事における「艦型」の解説

3バーク型の木造帆船要目表の値は主に『記録材料海軍省報告書第一』に記載明治8年艦船総数表による。その他の文献にある要目以下の通り。 『日本海軍艦船名考』:排水量443英トン近世帝国海軍史要』:排水量443英トン日本近世造船史 明時代』:長さ149 ft (45.42 m)、幅28 ft (8.53 m)

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摂津 (標的艦)」の記事における「艦型」の解説

河内型戦艦摂津河内)は、日本海軍最初の弩級戦艦である。河内摂津外観上の相違点艦首部で、河内垂直型摂津クリッパーであった河内型戦艦は、30連装砲塔6基12門を装備する主砲配置亀甲型であり、右もしくは左舷主砲を撃つとき反対舷の主砲使用できなかった(片舷へ主砲8門発射可能)。そのうえ前後の砲2基が50口径中央舷側の4基が45口径と、射撃指揮問題がでるものであった同時軍令部長東郷平八郎元帥が「前後の砲はより強化すべし」と主張したためであった実際の運用では12インチ50口径砲に減装薬使用することで、性能12インチ45口径砲に統一していた。また日本海軍次世代戦艦ひきつづき50口径12インチ砲を搭載する予定だったが、イギリス滞在中の加藤寛治中佐12インチ50口径砲の欠陥と13.5インチ口径新開発情報掴み、緊急報告をおこなう。この情報をもとに日本海軍12インチ50口径砲を搭載予定だった扶桑型戦艦と金剛型巡洋戦艦設計変更し14インチ45口径砲を搭載することになった当初秘匿名称は4312インチ砲)。

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改鈴谷型重巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

急速建造対応するために鈴谷型重巡洋艦船体線図利用した、改鈴谷型として計画された。1941年11月商議では防空指揮所の設置後部マストを第4砲塔直前移設することが記されている。 船体鈴谷型基本的に同じであるが、上甲板キャンバーわずかに増やされている。 主砲鈴谷型と同じ2号20cm連装砲5基、砲塔形式利根型と同じE3型、利根型では円錐台であったリング・サポートは、円筒形となっている。高角砲当時標準となる12.7cm連装高角砲4基、砲の形式はA1型だった。機銃鈴谷型と同じ25mm機銃連装4基、13mm機銃連装2基の計画であるが、もし重巡洋艦として竣工したら、時期的に考えて機銃は更に増備されたと思われる魚雷発射管最上型、利根型の3連装4基から、改装後妙高型、高雄型と同等の4連装4基に強化されている。建造進んだ1番艦(第300号艦)では、さらに航空兵装を廃止し5連装発射管5基に変更されといわれる。このときの詳細な計画残されていないが、おそらく従来発射管位置の4カ所に加え後部マスト直前に1基追加したものと思われる。これら雷装強化夜戦での使用重視されたことがうかがわれる防御は、機関部については舷側長さ76.70mに渡り艦底向かって内側20°の角度付けた傾斜装甲で、上部100mmNVNC甲鈑から下部の30mmCNC甲鈑連なるテーパード・アーマーを施した水平防御中甲板水平部30mmCNC、傾斜部60mmCNC甲鈑前後隔壁部は105mmNVNC甲鈑とした。弾火薬庫は、舷側機関部同様の方法上部140mmNVNCから下部の30mmCNCに連なるテーパード・アーマー、水平部下甲板に40mmCNC、前後隔壁部は95mmから140mmのNVNC甲鈑取り付けた。舵取機室は舷側100mmNVNC、前後隔壁50mmCNC、水平部中甲板に30mmCNC甲鈑防御した機関鈴谷型利根型と同様の艦本式ボイラー8基、艦本式タービン4基の組み合わせである。ボイラー蒸気圧温度計画では20kg/平方cm300度であるが、鈴谷型利根型と同じ22kg/平方cm300度とする文献もある。利根型では高雄型までと同様に前部機械室タービンで外軸のスクリュー回転させていたが、本型では鈴谷型と同じ前部と内軸を結ぶ形とした。推進器直径は3.9mで最上型、利根型の3.8mから0.1m大きくなる計画だった。

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川内型軽巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号C-33。球磨型長良型(以下は従来表記)からの主な変更点は、以下の通り

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天龍型軽巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

天龍型の艦型は同時計画江風型駆逐艦(または磯風型駆逐艦)と似ており、駆逐艦艦型を拡大したになっている設計においても巡洋艦ではなく大型駆逐艦標準として各部分が計画された。基本計画番号C33、設計河合定二だった。

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初鷹 (急設網艦)」の記事における「艦型」の解説

マル3計画艦で、「白鷹」の改良型石炭燃料・レプシロ機関白鷹型(速力16ノット)に対し初鷹型(速力20ノット)は石炭重油混燃(重油節約のため)・タービン機関となった九六式防潜網24組6カイリ分、または九三式一型機雷100個を搭載可能。 先行2隻(初鷹蒼鷹)は、連装毘式四十粍機銃を艦前部後部一基ずつ装備対空対潜艦戦闘に対応可能という触込みだったが、低性能のため「若鷹」は四十口径三年式八糎高角砲搭載した

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蒼鷹 (急設網艦)」の記事における「艦型」の解説

竣工時の艦型は初鷹型急設網艦#艦型を参照。 「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると、1944年(昭和19年)4月10日時点で25mm連装機銃前部40mm連装機銃直後後部40mm連装機銃後方それぞれ機銃台を設けて1基ずつ増備した。対潜兵装は九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機装備探信儀には水流覆が装備されていた。

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若鷹 (急設網艦)」の記事における「艦型」の解説

若鷹」はマル4計画艦の仮称艦名102号艦。初鷹3番艦だが、基本計画番号初鷹型1番艦「初鷹」と初鷹2番艦「蒼鷹」のH12に対して若鷹」はH12b(H12B)と異なる。船体寸法同一であるが船首楼甲板延長するなど船体若干違いがある。前檣と後も、本艦はやや後方傾斜している。また兵装に関して差異がある。先行2隻(初鷹蒼鷹)では対空対潜双方に対応可能な兵装として連装毘式四十粍機銃を2基装備していたが、性能不足のため「若鷹」はこれを四十口径三年式八糎高角砲とした。 防潜網九六式二型防潜網24組(6カイリ分)を搭載可能。「一般計画要領書」によると先行の2隻と違って機雷搭載計画しておらず、掃海装備搭載した太平洋戦争中漸次レーダー増設対空兵装強化おこなった。「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると1944年(昭和19年)3月16日時点で25mm連装機銃2基(艦橋前と艦尾付近に機銃台を設け1基ずつ)、13mm連装機銃2基(煙突直後機銃台を設け左右1基ずつ)、九四式爆雷投射機1基、九三式水中聴音機装備探信儀には水流覆を取り付けた。また「終戦時日本海軍艦艇」によると最終時には艦橋天蓋22号電探装備されていた。 艦首損傷時の修理艦首部が約4m(または5から6m)短くなり、商船タイプ揚錨機が装備された。

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乾行 (砲艦)」の記事における「艦型」の解説

3バーク砲艦機関は横置2筒機械推進スクリュー・プロペラだった。機関1872年(明治5年)から翌年にかけて撤去された。 右上表の要目は主に『薩藩海軍史』と『帝国海軍機関史』による。その他の文献による船体主要寸法以下の通り明治元年公文類纂』:長さ27間(49.09m) 『日本近世造船史 明時代』:長さ177 ft (53.95 m)、幅23 ft (7.01 m)、吃水10 ft (3.05 m)

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天城 (スループ)」の記事における「艦型」の解説

木造スループ、または砲艦排水量については色々な値が伝えられている。 計画:1,030トン 竣工時:1,000英トン 公試時:1,066英トン 1894年6月時:926英トン 936英トン その他に1,500英トン数値もあるが、他と値が離れている。

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第二丁卯」の記事における「艦型」の解説

第一丁卯姉妹艦機関同一であるが、1874年(明治7年)の『公文類纂』によると船体寸法差違がある。多く文献船体寸法第一丁卯同一としており(など)、主なその値は以下の通り。 『日本近世造船史 明時代』:長さ126 ft (38.40 m)、幅21 ft (6.40 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m)(第一丁卯吃水空欄)。 『日本海軍艦船名考』(1928):長さ126尺(38.18m)、幅21尺(6.36m)。 『日本海軍史』第7巻:長さ39.4m、幅6.6m、吃水2.4m。 排水量第一丁卯同一125トンとする文献が多い(など)。『幕末蒸気船物語』によると、船体寸法に対して明らかに小さいという。兵装については砲8門としている文献が多い(など)。

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第三号駆潜艇」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号K4第1号型と比較して復原性能を考慮し一般艤装第1号型の使用実績参考にした。また建造中に第四艦隊事件教訓により、船体構造改正された。

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第百一号型輸送艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号J39。連合国軍側揚陸艦艇では中型揚陸艦(LSM)に近い規模であり、LST-1級戦車揚陸艦半分程度排水量である。全般的な設計としては、強行輸送という用途応じ高速性能強兵装の一方で戦時下における量産性への配慮がされている。

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回天丸」の記事における「艦型」の解説

排水量1,678トン400馬力長さ70.10m、幅10.46m。大砲左右に40ライフル砲を5門ずつ、前面50ライフル砲1門の合計11門。プロイセン製造されイギリス改装機関汽罐武装イギリス製だった。ダンツィヒ(Danzig)号、イーグル(Eagle)号、回天丸と名前が変わった

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猿島 (敷設艇)」の記事における「艦型」の解説

計画番号H5b。船体兵装は「夏島」(計画番号H5)と同一であるが試験的にマンディーゼル主機とした。このため速力幾分落ちた航続距離は2倍近く伸びている。この主機性能満足のいくものでその後測天型、平島型敷設艇の他、駆潜艇海防艦などの小艦艇主機積極的に採用された。 建造中に起きた友鶴事件により復元性改善工事実施固定バラスト80トン搭載するなどし、1939年(昭和14年)には船体補強工事行い公試排水量は647.1トン増加した大戦中に機銃増備実施した思われるが、詳細判っていない。

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和泉丸」の記事における「艦型」の解説

暗車(スクリュープロペラの意味)、汽船との記録があるが、その他建造所原名要目などの詳細不明である。乗員明治元年時に41人と記録が残る。

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立象丸」の記事における「艦型」の解説

2帆船船体和洋混形だった。乗員秋田県からの返還時(明治4年11月)で士官相当3名、他12名の計15名、また同年11月24日報告乗員17名の記録がある。要目等記録残っていない。

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敏捷 (練習艦)」の記事における「艦型」の解説

建造所竣工日、要目などの詳細は現在に伝わっていない。練習艦とされたことからおそらく「満珠」「干珠」と同じ程度帆走旧式であったろうと推定される。 『明治27・8年 戦時書類 巻1 明治29年』によると要目は表の通り2層甲板、3帆船船首楼持ち、中前後甲板室があり、船橋は後前にあった。船材は木で主に米松使われている。しかし『日本海軍艦船名考』では鋼としている。

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富士山 (スループ)」の記事における「艦型」の解説

(機関撤去後は三)シップリッグ型(またはバーク型)木造スループである。 主機文献に「ヂレクトエクチーブエンジン(Direct active engine)」(直動機関)とあり、気筒径は40インチ行程28インチ1/2。これを2基装備し、2軸推進だった。ボイラー円缶2基を装備した1876年(明治9年)10月機関撤去された。

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春日丸」の記事における「艦型」の解説

32本煙突木造外輪船で、直立艦首としており、近代的な容姿をしていた。速力16ノットが可能で、当時汽船としては非常に高速の船だった。日本海軍では燃料消費の点から9ノット使用しており、艦種報知艦(通報艦)とされた。 主機揺動機械1基であり、日本の艦船揺動機械明記されているのは春日丸最初だった。

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清輝」の記事における「艦型」の解説

3バーク型の砲艦、またはスループ になる。

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明石 (工作艦)」の記事における「艦型」の解説

専従艦種として建造されたため、艦内17ある工場には海軍工廠にすら配備していないドイツ工作機械など最新114台が設置されていた。そのため修理能力は非常に優れ連合艦隊平時年間修理35工数の約40%を処理できる計算であり、文字通り移動する海軍工廠であった小倉竜朗技術大尉明石造船主任)は「あらゆる修理工事可能だった」と回想している。 船体は平甲板型として艦内工場面積を稼ぐと共に上甲板構造物をなるべく置かず露天作業場面積確保した上甲板設置され作業用電動デリック(クレーン)は、前部マスト10トン1台、艦橋後壁の両舷に5トン1台ずつ、後部マストに揚艇用を兼ねて10トン1台、中央部右舷23トン1台の計5台を配置した。また艦内工場にも第1機械工場に3トン天井クレーン、第1鋳造工場に5トン天井クレーン鍛冶および鈑金工場に3トンジブクレーンがそれぞれ1台設置された。煙突は2本あり、後部主機であるディーゼル機関排気用の消音器2本と補助煙突1本を1つにまとめたもの、前部艦内工場からの排気用だった。 自衛用の武装として、艦首甲板に12.7cm連装高角砲各1基計4門を装備その他に艦橋直後シェルター甲板上に25mm連装機銃左右1基ずつ装備した明石には艦自体乗員のほか、工作従事する工作部員(造船科員、機関科員、海軍技師)も乗艦していた。

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伊十六型潜水艦」の記事における「艦型」の解説

当初乙型潜水艦として建造予定であったが、水上偵察機搭乗員の不足が明らかになり、水上偵察機搭載廃止したその代わり魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、また魚雷搭載数20本に増やし魚雷兵装強化した船体乙型と同じとなる予定だったが、建造を急ぐため伊七型潜水艦(巡潜3型)の線図流用した。その他主機甲型乙型潜水艦と同じものを搭載している。

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千鳥型水雷艇」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号F46。

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伊五十二型潜水艦」の記事における「艦型」の解説

1942年昭和17年)の昭和17年計画マル追計画)により5隻の建造計画され、3隻が竣工した丙型潜水艦ではあるが艦型は乙型改2潜水艦計画番号S37C)の航空設備撤去した船型である。計画番号がS37Dであることからもそれがわかる。(乙型潜水艦計画番号はS37、一方丙型潜水艦はS38である。)乙型格納筒のあった艦前部には14cm砲1門を搭載し後部甲板合わせて2門とした。魚雷発射管乙型改2と同じく艦首に6門、ただし魚雷本数17であった1944年昭和19年後半伊53後部14cm砲を撤去し回天4基を搭載した。この時期22号電探逆探設置推定される1945年昭和20年)に入り前部14cm砲も撤去し甲板に2基の回天追加搭載したこのころ13号電探シュノーケル装置装備実施した思われる改⑤計画計画され丙型潜水艦計画番号S49Bのうち、15隻を丙型改として建造する予定だったが、すべて建造取り止めとなった

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長良型軽巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

球磨型軽巡洋艦改良型として設計され球磨型船型主要寸法機関出力速力備砲機雷搭載量変更無い。艦型は球磨型軽巡洋艦#艦型も参照球磨型からの主な変更点は以下のとおり

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球磨型軽巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

設計主任天龍型続いて河合定二造船少監で、1917年(大正6年)に設計まとまったイギリス海軍後期C級軽巡洋艦D級軽巡洋艦手本としたイギリス式軽巡洋艦であり、直線的な船体艤装簡素なもので、各所駆逐艦式の考え適用された。加えて日本海軍では艦隊決戦備えて強力な砲力、魚雷兵装1号機雷敷設設備通信設備備えた司令部施設が必要であり、水雷戦隊旗艦として36ノット要求されその他に波の荒い太平洋で作戦のために凌波性求められた。 艦の構造前部から記述すると、艦首甲板上に主砲の14cm砲を単装砲架背中合わせ1番・2番主砲を1基ずつ計2基を搭載、その背後露天操舵艦橋竣工時から三脚式の前部マスト左右に3番・4番主砲を1基ずつ配置した船体中央部等間隔に立つ3本煙突前後から挟み込むように53.3cm魚雷発射管連装前後に片舷1基ずつ計4基8門を配置した煙突周囲には丈の低い通風筒が立ち並び舷側部は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビッドが片舷3組ずつ計6組運用された。8cm高角砲は1番煙突の両舷に片舷1基ずつの計2基が配置された。

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秋津洲 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説

秋津洲」は排水量5000トン程度であり、大型飛行艇1機を艦上整備するという構想には無理があった。当初の計画では、艦尾スロープから大型飛行艇ウインチ船体後部飛行艇収容区画引き揚げる計画だった。ところが川西航空機開発した二式飛行艇重量31トン)をウインチ引き揚げるのは無理という判断により、設計変更して艦尾35トン電動クレーン装備した。このクレーン秋津洲型の最大特徴となった艦内には航空隊員用の居住施設飛行艇搭載する魚雷36本)・爆弾機銃弾等の弾薬庫軽質油タンク工作施設備え通信設備充実していた。なお秋津洲型は大型飛行艇艦上収容した場合搭載機航行中損傷したり、あるいは操艦そのものが困難となるため、揚収中は航行しない事を前提運用されている。 「秋津洲」が施していた特異な迷彩塗装は、同艦の初代艦長黛治夫大佐影響であった第一次ソロモン海戦後のラバウルで、第八艦隊参謀長大西新蔵少将本艦迷彩の事を「厚化粧みたいにゴテゴテ塗ってきたな」と指摘した時には攻撃力がないから、昆虫のように保護色したんですよ」と黛艦長説明している。またラバウル停泊時、空襲回避するため、連日爆撃から航海士が米重爆水平爆撃クセ見抜き、黛艦長進言、独自の回避行動実践した。これは停泊中に空襲受けた場合に、両舷の錨を右舷側に偏らせ150mの所まで錨鎖伸ばしておき、敵機仰角38になった時に前進一杯号令すると艦が急速に右舷側に動いて回避できるという方法であったソロモン諸島行動する時には座礁すれすれの場所を通ることで米潜水艦襲撃防いでいる。黛は単艦指揮官として工夫を「秋津洲兵法」、航海方法については「秋津洲戦場航海術」と称していた。 機関2210ディーゼル4基を搭載2組ずつフルカンギアで接続し2軸とした。その他補助缶にホ号艦本式缶空気過熱器付)2基を搭載した電源は200KVAディーゼル発電機2基、2770KVA同1基を搭載交流電源だった 大戦中は飛行艇用の広い後甲板クレーン利用して魚雷艇数隻を搭載し前線へ輸送行った1944年昭和19年3月横須賀海軍工廠損傷修理行った際に21号電探前部マスト上に1基装備機銃増備25mm3連装機銃6基、同単装3挺となった。また後甲板軌条3組設けて魚雷艇または大発などの運搬設備設けた日本海軍1944年前半工作艦船のほとんどを喪失したため、同年8月呉海軍工廠臨時工作艦任務のための改造行った

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古鷹型重巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

ワシントン条約定められた「基準排水量一万トン」は、8インチ砲6門という戦闘必要な門数を確保する最小排水量として定められた。しかし本型は、以下に述べ数々新機軸で、その最小とされた排水量以下でそれと同等となる武装持たせることとなった

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艦型

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葛城 (空母)」の記事における「艦型」の解説

艦名奈良県にある葛城山にちなん命名された。艦名明治時代葛城 (スループ)続いて二番目となる。太平洋戦争出撃機会がなく、終結後復員輸送活躍した雲龍型ネームシップ雲龍とは以下のような差異がある。 対空機銃座の形状が、簡易化により半円形ではなく台形平面になり、その支柱角形となっている。防煙シールド付3連装機銃雲龍天城で4基だったのに対し本艦では前方の2基だけ装備された。 艦橋前面羅針艦橋下の外面天城までは曲面だったが、工事簡易化のため平面構成となった。また天城葛城艦橋構造物が後方延長され信号マストはその構造物上に立つになった主機生産遅滞した為、葛城阿蘇駆逐艦用の主機流用し、それを2隻分搭載した。そのため、機関出力が約4800馬力低下し速力も約2ノット低下した。なお、主機変更に伴う余剰空間には重油タンク増設した。 対空噴進砲十二糎二八連装噴進砲)を改良型三十連装とするなど、対空兵器増備対潜のため、艦橋後部信号短縮喫水が10cm浅く排水量330トン小さい。

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孟春 (砲艦)」の記事における「艦型」の解説

3トップスル・スクーナー型で鉄骨木皮砲艦。右表の船体主要寸法は主に明治4年記録材料海軍省報告書第一』、明治元年明治7年の『公文類纂によった他の文献での主要寸法以下の通り。 『佐賀藩海軍史』:長さ22間半余り(40.91m強)、幅3間半余り(6.36m強) 『帝国海軍機関史』:長さ132 ft (40.23 m)、幅22 ft (6.71 m) 『日本近世造船史 明時代』:長さ131 ft (39.93 m)、幅22 ft (6.71 m)、吃水7 ft 7 in (2.31 m) 『日本海軍艦船名考』:長さ131尺(39.70m)、幅22尺(6.67m) 『日本海軍史』第7巻:長さ44.5m、幅6.6m、吃水2.5m 『日本軍艦史』(1995年):長さ39.9m、幅6.6m、吃水2.2m

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速吸 (給油艦)」の記事における「艦型」の解説

航空機搭載のため、「速吸」は「風早」とは大きく違った艦型となった船体中央の船橋楼甲板が無い2島型で、船首楼甲板延長してその後端に軍艦型の艦橋三脚式の前部マスト置いた中央上甲板上の高さ約5m位置に幅21.5mに渡って甲板設置し甲板上に軌条ターンテーブル設け航空機6機と補用機1機を搭載した。その右舷前端にはカタパルト1基を設けたが、上端の高さを甲板の高さと一致させて運用容易にした。 船体中央部が主に重油タンクとされたが、船艙区画最後部には空母と同じ構造全溶接の軽質油(ガソリン)タンク設置されその後方は自艦用の重油タンクとした。後部マストは2本とし5トンデリックがそれぞれに設けられ航空機搭載用と横曳き給油用の兼用とされた。また給油設備として蛇管通路左舷寄り前後全通し設けられた。補給用の糧食庫や弾薬庫などは船首楼下部設けられ甲板上には3m角の小型艙口縦に2個設け取り扱いのためのゴールポストと3トンデリック2基が艦橋前に設置された。 船体後部通常のタンカー同様に船尾楼甲板設けられ機関室などが設置された。 対空兵装は「風早」より強化され高角砲は12.7cm連装砲を艦の前後それぞれ1基ずつ置いた機銃25mm3連装機銃艦橋両側に1基ずつ置き、艦尾煙突直後フラット設けて連装機銃1基を置いた。また艦側の要求により竣工後に25mm3連装機銃後部マスト前方の上甲板上に左右それぞれ1基、煙突付近の上構造物上に左右それぞれ1基の計4基、その他単装機銃若干(約8挺から12挺)増備したとされる電探兵器装備していた。 改マル五計画で建造予定だった鷹野型給油艦では搭載機を倍の14機とする計画だったが、戦況の悪化建造取り止めとなった

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橋立 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説

主砲の32cm(38口径)単装砲は前部甲板据え付けられ、「厳島」と艦形似ているが、副砲以下の装備若干相違がある。 修理用の艦内工場設けた1902年(明治35年)月にボイラー全て宮原水管缶に変更した

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厳島 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説

建造にいたる経緯については、松島参照主砲であるカネー社製32cm(38口径)単装砲は、松島違い前部甲板据え付けられたため、艦形としては収まりがよい。また、副砲以下の装備について若干相違がある。

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高雄丸 (日本海軍)」の記事における「艦型」の解説

2ブリック型の鉄製外輪船機関はイギリス・グランドサンアルグで製造された。要目表の値は『記録材料海軍省報告書第一』の明治7年艦船総数表、『帝国海軍機関史』などに依った。その他の文献での要目以下の通り。 『近世帝国海軍史要』:排水量1,191英トン日本海軍艦船名考』:排水量1,191英トン日本近世造船史 明時代』:トン数1,422トン長さ219 ft (66.75 m)、幅32 ft (9.75 m)

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伊良湖 (給糧艦)」の記事における「艦型」の解説

艦型は三島型の商船構造である。 食料補給25,000人に20日分の要求のところ、艦型の問題から14日分とされたが、設計では要求をなるべく満たすよう努力され、獣肉19日分、魚肉約17.8日分、野菜約18.8日分、新漬物などが搭載可能であり、それら専用冷蔵庫装備その他に貯糧庫や味噌庫、旧漬物庫などが設置された。また現地調達した食料冷凍するための冷凍庫製氷設備設置された。艦内工場は、酒保販売する菓子清涼飲料生産設備があり、生パンパン菓子餅菓子及焼饅頭最中羊羹、飴、ラムネ[要曖昧さ回避]及アイスクリーム製造室があり、更に豆腐蒟蒻製造室、新漬製造室もあった。 その他に洗濯設備として1日夏服400着を処理できる洗濯室火熨斗(ひのし)室も設けられた。また通信監査としての任務考慮され長波短波兼用の九二式受信機30台(計画では32台)を設置した揚貨装置としては2トン電動ジブクレーン8基、前部10トンデリック1基、後部20トンデリック1基、冷蔵品揚卸装置1式を装備後部デリックを更に1基増備する計画もあったため、後部支柱は門型とされた。艦載艇配給用として12m糧食配給艇3隻、12m真水配給艇1隻、その他5隻の計9隻の搭載計画された。ただ8隻搭載とする文献もあり、1944年作成略図でも艦載艇は8隻のみが描かれている。 主機当初ディーゼルエンジン搭載する計画であったが、この場合でも給糧艦であるため大型補助ボイラー搭載する必要があり、機関容積重量ともに増大するために断念された。その他レシプロエンジンタービン1軸の案も検討されたが、いずれも問題点があり断念された。搭載され主機タービン新設計とすると時間要するため、敷設艦津軽と同じものとなったボイラー燃料行政上、将来的重油枯渇する問題があることから重油石炭混焼(文献によっては石炭専焼)とされた。このため煤煙石炭粉塵食品混入することを防ぐために各種工夫がされた。排煙内の煤の量を少なくするため、なるべく大きなボイラー搭載して燃焼度下げ、また排煙速度下げて煙突内で煤を除去しよう煙突直径太くした。更に排出された煤が遠く拡散するように煙突高くされ、その高さは水面上約28mとなった兵装として高角砲12cm高角砲2門の計画であったが、12cm連装高角砲2基4門となった機銃は25mm連装機銃艦橋両舷に1基ずつ装備されあ号作戦後の1944年6月以降に3連装機銃3基が増備された。

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第一号型輸送艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号J37

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河内 (戦艦)」の記事における「艦型」の解説

艦型は薩摩型戦艦安芸拡大発展型で、30(12インチ)連装砲塔6基12門を装備するが、砲塔全て船体中心線上に配置されていないこのため片舷に向けられる主砲は8門であった。また当時予算都合軍令部長東郷平八郎意見により、艦前後のみ50口径12インチ連装砲塔とし、中央部の4基は45口径12インチ連装砲塔とした。 同型艦摂津との識別点として河内艦首直線艦首であり、一方摂津のそれはクリッパー型だった。摂津艦首クリッパー型に変更する決定した時、河内は既に工事進行していたため変更は困難で、直線艦首のままとされた。また主機であるカーチスタービン川崎造船所製造された。安芸に対して機関部強化して約1,000馬力増大しており、排水量は1,000~1,500トン増えたにもかかわらず安芸」と同等速力維持できた。

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厳島 (敷設艦)」の記事における「艦型」の解説

1923年大正12年)度計画日本海軍にとって、設計段階から敷設艦として建造した最初の艦。当初軍令部遠洋作戦南洋諸島)での運用想定し排水量3,000トンから4,000トン敷設巡洋艦希望したが、予算の関係で2,000トンほどの艦型となる。中甲板機雷敷設軌条6条が設置され艦尾投下口が設けられた。機雷五号機雷場合500個(六号機雷場合300個)を搭載可能。荒天時敷設考慮して機雷全て艦内収容した主機に、潜水艦用のラ式一号ディーゼル採用新潟鉄工所製)。日本海軍水上艦ディーゼル採用は、給油艦剣埼」に続いて2艦目。戦闘艦艇としては最初試みとなる。ディーゼル三基のうち両舷二基は、第一次世界大戦の賠償艦であるドイツ潜水艦U125ディーゼル流用した敷設時の操舵性を良くするために、日本海軍艦艇としては珍しい三軸推進となった。またエルツ採用操舵性向上のためで日本海軍艦艇では珍しかった。2,000トンほどの艦型で機雷搭載量航続力、砲力を優先したため、速力犠牲になり17ノット(計画)になった船体はフラッシュデッキ型で、艦橋から後方中甲板のほとんどが機雷となっているため、一部居住区上甲板はみ出し格好になる。 強行敷設での敵駆逐艦排除想定し主砲には日本海軍軽巡洋艦標準的な50口径三年式14cm砲で、単装3基を備える。艦橋シェルター甲板上に1基、後部マスト前後の上甲板上に各1基を配置した艦橋両側のシェルター(セルター)甲板上には四十口径三年式八糎高角砲装備排水量2,000トン割には有力な砲力もっていた。 爆雷投射機は試験的に最大射程約1,500m遠距離爆雷投射機1基を装備日本海軍では唯一の装備になった装備位置後部甲板中心線上で旋回可能、俯仰射程調整する装塡演習砲に似た形状だった。

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白鷹 (急設網艦)」の記事における「艦型」の解説

第一次世界大戦威力発揮した潜水艦対す対策一環として港湾基地水道展開する防潜網機雷浮標のついた網)が考案され、これを短時間敷設する専用艦種急設網艦)が求められた。「白鷹」は大正12年計画当初計画時は5,000トン級艦だったが、最終的に駆逐艦並の基準排水量1,345トン縮小された。1929年昭和4年)、本艦燕型敷設艇(燕、と共に完成した軍艦であるため御紋章をそなえるが、艦首端に防潜網収用装置があるため、御紋章艦首両側ついている基本計画番号はH-2と推定されている。 一四防潜網急設網、九〇式機雷240個つき)6カイリ分、もしくは五号機雷100個を搭載できた。 船体艦首シアはほとんど無く上甲板舷側には低いブルワーク艦尾まで続き艦尾大きく後方張り出していた。艦内一般配置吹雪型駆逐艦準じて計画され艦橋マスト同型準じている。網庫は前部船艙甲板に2カ所、後部下甲板に2カ所、同船甲板に3カ所、敷設軌道は片舷に内側か浮標設置用、九〇式機雷用、五号機雷及び沈錘設置用の3条、両舷で計6条が艦尾まで導設され、網の敷設ために船首楼甲板上甲板はほとんどが木甲板となっていた。艦尾には網設置指揮所を設けた備砲四十五口径十年式十二糎高角砲3門、盾は無く甲板に1門、後部上構上に2門が前後設置された。また12mm単装機銃1挺は艦橋前の機銃台上設置した復元性能は日本海軍艦艇の中で一番悪く搭載艇の揚げ降ろしだけで艦が揺れたという話が伝わっている。

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第一号型駆潜艇」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号K3。船体長さの割に乾舷の高いフラッシュデッキ型の船型で、当初上甲板ブルワーク設け不釣り合いな大型艦橋をもっていた。 舵は21度下開き傾斜2枚舵装備した当時海軍技術研究所研究旋回圏が小さくなるとされたが、実際に旋回不良のため以後駆潜艇通常の1枚舵に変更された。小型艦艇では舵が水面近くなるために不利であり、第1号公試時に度々舵が水上露出したという。

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第五十一号型駆潜艇」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号は第51号と第52号がK5A、第53号がK5B。

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八重山 (敷設艦)」の記事における「艦型」の解説

戦時には前進基地進出して機雷敷設対潜哨戒などを行い平時には訓練用途を考慮された。このため1929年昭和4年)に竣工した厳島」に対し、より小型化・浅喫水進めている。重油石炭混焼罐と往復同式機関搭載した2軸艦で、計画速力ロンドン海軍軍縮条約上限20ノット。これは前進基地への急速進出企図した為である。 船体先に建造された「厳島」が平甲板船体(フラッシュ・デッカー)を持つのに対し本艦船首楼型となる。船首楼甲板左舷教練機の揚収用軌道1条があるために艦首にほとんどシアがない。甲板にはリノリウムはほとんど張らず大部分滑り止め甲板になっていた。上甲板舷側ブルワーク覆われているのは「白鷹」や燕型敷設艇と同様である。艦橋構造も「白鷹」や「厳島」同様、駆逐艦似たものになった機雷は、六号機雷185個(前部機雷庫に35個、後部50個、上甲板100個繋止)を搭載した機雷庫にある機雷機雷昇降筒で上甲板上げられる前部機雷左右舷に1条ずつある軌道後部送られ後部機雷庫より後方軌道が4条に増えそのまま艦尾から投下される艦尾には敷設指揮所が設けられた。 主砲12cm高角砲前後に1門ずつ搭載、2門とも高雄型と同型シールド付いていた。12mm機銃艦橋前のシェルター(セルター)甲板上に左右並べて設置した。

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瑞穂 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説

特殊水上機母艦瑞穂」は、千歳型と同じ②計画属し計画要領は同じで、船体主要寸法同一である。ただ後述するように主機ディーゼルのみとし、速力22ノット計画した。これは主機出力制限して軍縮条約での制限20ノットとする考えだったと思われる航空兵装と甲標的搭載艤装千歳型とほとんど同様であるが、主缶(メイン・ボイラー)の煙突が必要無いので格納庫士官居住区などが改良されて補用機が4機増し常用24機、補用8機となった水上機カタパルト発進する。また千歳型が発着甲板試験のために設置した天蓋廃止支柱左右に渡したフラットのみを設置した。その他甲標的搭載備えたクレーンは、千歳型の場合片舷2基で共吊りしたが、本艦場合甲標的クレーンは片舷1基のみとなっている。 1940年昭和15年)、艦尾ハインマット装備した。これはドイツ考案実用化され、水上機母艦神威実験が行われたもので、航行のまま水上機を揚収できるものだった。「神威」では8ノットまでの揚収に成功し千歳型や大和型にも搭載計画があったが結局神威」と本艦以外は装備されなかった。使用のたびに大量真水洗浄してから格納せねばならず、使用機会は制限された。 兵装高角砲千歳型の2基から本艦は3基(艦橋前に1基、艦橋両舷に2基)に増設された。艦橋前の高角砲を1番、艦橋左舷側砲を2番艦橋右舷側砲を3番砲と呼称する。25mm連装機銃も、同じく千歳型の6基に対し瑞穂型は10基に増強された。機銃のうち4基は艦橋への機銃掃射考慮して艦橋周辺配置し残り支柱上に3基ずつ配置した甲標的母艦改造され場合千歳型と同様甲標的12基を搭載搭載可能水上機24機から12機に減少する一説開戦後改造されたとする説明もあるが、開戦後本艦のみを改造する意味が無く改造行われなかったとするのが正しいと思われる

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鴻型水雷艇」の記事における「艦型」の解説

千鳥型では度重なる改善工事速力27から28ノットまで低下したため、本型では速力を30.5ノット回復させ、復原性航洋性を備えることにした。 船体新し線図用いており、千鳥型と艦首形状異なる。千鳥型より全長で6.5m長くなるなど一回り大きな船となった艦橋改装後千鳥型と同じ2層構造であるが、羅針艦橋天蓋固定式とし(千鳥型はキャンバス)、トップには3m測距儀装備された(千鳥型は2m測距儀)。千鳥にあった羅針艦橋前面波返し装備されていない中国進出時には羅針艦橋周囲防弾板が装備された。 缶(ボイラー)は千鳥型と同じ空気余熱器付のロ号艦本式缶蒸気条件千鳥型と同じ圧力30kg/平方cm温度350高温高圧蒸気使用した主機艦本式タービン2基、タービン高中低圧の3筒になり(千鳥型は高低圧の2筒)、出力19,000馬力(千鳥11,000馬力)にアップした。このタービンは後に松型駆逐艦主機採用されている。機械室については、千鳥型では変則的な縦隔壁で機械室左右に分けてタービン1基ずつを装備していたが、本型では機械室タービン2基を装備その後方を発電機室とする通常の配置になった。 砲は改装後千鳥型と同じ12cm砲3門だが、新たに十一年式12cm砲(通称M型砲)を採用した。この砲は仰角55度までの射撃が可能で(千鳥搭載通称G型砲は仰角33度)、これは上陸作戦での射撃考慮したと言われている。なお千型で船首楼甲板にあった装填演習砲は本型では後甲板移されている。 魚雷兵装新たに九四式53cm3連装発射管開発し1基装備、防盾(シールド)も装備してした。予備魚雷無く魚雷3本搭載魚雷は六年式魚雷、または八九式魚雷だった。 後甲板にある爆雷兵装掃海具などは千鳥型に準じている。ただ爆雷投射機は千鳥型の片舷砲(K型砲)2基から本型では九四式爆雷投射機(両舷砲、Y型砲)1基になった。また爆雷投下台は千鳥型の4基から本型では6基に強化された。爆雷千鳥型と同数18個を搭載する太平洋戦争中掃海具撤去爆雷投射機と爆雷投下軌道増設し爆雷48個に増載した。 レーダー太平洋戦争中装備した終戦時残存した「雉」の場合羅針艦橋後部信号所取り付け架台設けて22号電探1基を装備前部マスト13号電探1基を装備した

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樺型駆逐艦」の記事における「艦型」の解説

基本計画番号 F23設計は急速建造対応するために桜型駆逐艦基本計画番号 F10)の図面流用し一部改正のみにとどめた船体同一であるが、後述機関改正の他、型が計画排水量600トンから桜の実際で80トンとなったことから各部重量配分改め計画排水量665トンとした。 主機型と同一レシプロ3基3軸、主缶(メイン・ボイラー)は型がイ号艦本式缶混焼)5基のところ、後部の2基は初採用ロ号艦本式缶石炭専焼)とし、前部の3基は大型ロ号艦本式缶重油専焼)2基に代えて缶を一つ減らした。缶1基分の余った機関前方スペース重油タンクとして重油60トンを増載し航続力増大、また重油タンク上部准士官室とされて居住性多少改善された。外観上はボイラー改正のため3本煙突すべての太さ間隔が違うのが特徴になっている。なお一部の艦では、竣工後に重油タンクからの漏洩が見つかっている。 兵装型と同一で、艦首甲板12cm砲1門を搭載突撃時の駆逐艦制圧用に前方火力重視している。8cm砲は2番煙突左右に1門ずつ、3番煙突後方の1段高プラットフォームに1門、後甲板に1門の計4門を搭載した魚雷発射管前部マスト直後後部マスト直前連装発射管を1基ずつ計4門を搭載予備魚雷前部用4本、後部用2本となっている。 後甲板には後に連繋機雷である一号機雷乙型大正10年制定)の敷設軌道設置された。

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広乙級防護巡洋艦」の記事における「艦型」の解説

建造決定時にタイプシップが一回り小型コンドル級(フランス語: Classe Condor)に変更されたが、実際に建造された艦はさらに一回り小型となり、全長71.63m、全幅8.23m、吃水3.96m、設計排水量1,000t、マスト3本のうち前檣と後鋼製中央木製で、帆走可能だった推測され前檣には信号、後には斜があった。船首部には砲塔はなくタートルバック甲板となっていた。 三番艦については更に小型になっており、全長71.01m、全幅8.02m、吃水3.5mで。公試時の福靖(元の広丁)の速力はさらに低下機関出力2,000馬力で12.4ktを記録慣熟航海設計通りの2,400馬力発揮すれば13.4ktに達すると見込まれたが、それでも広乙、広丙よりも低い数値であった。また同型艦3隻共に座礁して失われており、ほぼ同時期に建造畝傍同様にタンブルホーム構造英語版)の船体に背の高い帆走マストがあった為、操舵性、復原性に難があったと推測される

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千代田 (防護巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説

本艦舷側装甲を持つことから日本初装甲巡洋艦(Armored cruiser)として扱われることもあるが、その装甲範囲水線部に帯状の狭い代物イギリス海軍の「オーランド巡洋艦」と同じくBelted cruiser(帯甲巡洋艦、または装甲帯巡洋艦和訳)である、と中川努は述べている。また『海軍軍備沿革』では鋼甲帯巡洋艦としている。砲熕としてアームストロング社の4.7インチ速射砲2門を初め搭載した。 艦の構造前部から記述すると、水面下衝角付き水線部に35.6cm水中魚雷発射管1門が付く艦首艦首甲板上に主砲12cm速射砲は防盾の付いた単装砲架で1基、頂上部見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。その背後両脇船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋配置され船体中央部に1本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。煙突後方中央マスト一本立ちその左右舷側大小さまざまな張り出し設けられ、そこに12cm速射砲を片舷4基を配置し挟み込まれるようにその間に4.7cm速射砲を3基配置した後部甲板上に後部マスト12cm速射砲後ろ向きに1基が配置された。[要出典] 防水区画と各室が計84あり、間接防御向上していた。

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艦型

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日進 (水上機母艦)」の記事における「艦型」の解説

艦型はだいたい瑞穂型と同じ、船体主要寸法千歳型、瑞穂型より長さ、幅共に若干大きくバルジ設けられなかった。また艦尾水線部にナックル付けて旋回性能の向上をねらった復元性能を考慮し250トン固定バラスト搭載軽荷状態ではGM値が不足するので800トン海水補填する必要があった。 機関は、千歳型が採用していたタービンディーゼルエンジン併用をやめ、瑞穂型と同じよう主機ディーゼル機関のみとし、1軸につき13号10ディーゼル2基と13号2型1基をフルカンギアで接続し、それを2組搭載した大鯨型の搭載した11号ディーゼル大きな問題があり、それを改良した試作機大和型戦艦主機として考えられていて、1937年には一応優秀な結果残していたが、まだ不十分な点もあった。このため大和型への搭載見送られ日進ディーゼルエンジンはこれを流用した将来戦艦超大和型戦艦等)にディーゼル搭載する布石だったという。速力28ノット発揮可能で、日本海軍大型ディーゼル搭載艦としては初めての成功だった。 前述のように日進型は当初機雷700個を搭載可能な大型敷設艦として計画された。敷設艦駆逐艦仮装巡洋艦との交戦想定するため、先行3隻(千歳千代田瑞穂)の12.7cm高角砲ではなく50口径三年式14cm砲連装砲を三基、最上巡洋艦同じよう並び方配置している。25mm機銃は3連装4基をクレーン支柱排気筒の上装備後述のする通り前部カタパルト搭載せず、その基台附近に4基を増設した。 水上機母艦としてカタパルト(射出機)4基を計画していたが、兼甲標的母艦としての竣工時は2基に減らしていた。また当時標準的な射出機である呉式2号5型ではなく1式2号11型装備された。これは特殊偵の搭載予定していたためである。また搭載機種変更によりリフト千歳型(九四式偵、九五偵を搭載)より若干大きく、7.5mx12mとなった日進建造途中水上機母艦から甲標的母艦変更された(前述)。1941年昭和16年)春頃、日本海軍甲標的母艦改造され千代田で、甲標的発進実験成功する日進建造には、その実績が十分考慮された。舷側横付けした甲標的艦内収容するため、片舷2基(前部40トン後部20トンで、両舷合計4基)の重量クレーン装備千歳型と同様に吊り式で約50トン甲標的収容した。なお、そのうち左舷前部の1本だけアーム長さを12mとし、停泊時に飛行艇甲板揚げられるように考慮した甲標的母艦中央部には、クレーン釣り上げた甲標的艦内収容するための開口部ハッチ)がある。日進格納庫ハッチ長さ26m・幅6mで、艦内格納庫には四列のレール備える。このうち中央二列が進水敷設用で、高さ4m・幅2.5mのトンネル艦尾まで抜けている。艦隊決戦の際には、艦尾水密防扉(高さ4m・幅3m)を開放して甲標的発進させることが出来る。甲標的母艦時、甲標的最大12隻、水上偵察機9〜12機を搭載可能であった。しかし、艦隊決戦の場で甲標的発進させる機会訪れなかった。日進は、クレーン活用して高速輸送艦として運用された。

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艦型

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東艦」の記事における「艦型」の解説

マスト2本いわゆるブリッグ呼ばれる船である。左は本艦装甲配置示した図である。本艦基本構造艦首に鋭い形状衝角(ラム)を持つ木造船体に2本の帆走マスト一本煙突を持つ装甲ブリッグである。船体上の2本のマストには本格的な帆走設備整えられており、蒸気機関発明されとは言え機関技術信頼性がこの時期では未知数で、長期航海時には帆走を行うのが普通であり、本艦の帆の総面積750平方メートルもあった。艦首水面下衝角コードネームの「スフィンクス(Sphinx)」の名の通りスフィンクスの顎のように艦首水線面から、先端部を皮膜した衝角水中に7mも突出していた。 これは、後の「リッサ沖海戦」でも行われた衝角攻撃(ラミング)」を行うために特化した設計である。衝角攻撃とは、大砲発明されていない時代敵艦船体効果的に破壊するために舳先相手舷側突っ込ませて破壊する攻撃方法で、追突した時の衝撃よりも自艦をバックさせて舳先引き抜いた時に出来大破口からの浸水により短時間相手撃沈できる戦法である。大型大砲開発されとは言え、この時期砲弾性能低く効果的に敵艦無力化するには衝角攻撃主流であった。 他に船体形状で他にも目を引く艦尾形状特徴的で、当時としては非常に珍しかったクルーザースターン(巡洋艦型船尾)を採用していた。水面下では、舵と推進軸の周辺形状にはツイン・スケグを採用していた。ツイン・スケグとは、船底部からスクリュー軸を伝うように垂直に伸ばされ状の構造物設けそのままスクリュープロペラ背後に主舵を配置する形式の事で、スクリュー生じた水流真後ろに舵が配置されるために舵効き良くまた、スケグがスクリュー軸を囲って守るのでスクリュー異物巻きついて行動不能になるのを防ぐ効果もあった。

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艦型

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天城 (未成空母)」の記事における「艦型」の解説

軍艦天城(あまぎ)は、八八艦隊計画における天城型巡洋戦艦として、横須賀海軍工廠起工された。艦艇類別等級別表では天城赤城の順である。一般に天城型巡洋戦艦天城巡洋戦艦」と呼称される。一部資料では、赤城巡洋戦艦の名前を使用する書類上は「巡洋戦艦」であるが、実態は「巡洋戦艦速力戦艦火力防御力」を備えた新世代主力艦、すなわち高速戦艦である。 ワシントン海軍軍縮条約では、列強各国戦艦空母保有数が制限された。だが建造中の戦艦中止にする見返りとして、各国とも二隻まで建造中止になった戦艦空母改造することが認められ日本では巡洋戦艦として建造中だった2隻(天城赤城)を空母改造することにした。しかし、建造中の天城関東大震災により破損して廃棄されるこのためワシントン海軍軍縮条約建造中止決まっていた加賀型戦艦の「加賀」が「天城」に代わって空母改造された。呉海軍工廠建造中の「赤城」は、そのまま巡洋戦艦から空母改造された。

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艦型

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陸奥 (戦艦)」の記事における「艦型」の解説

1921年大正10年10月19日全力公試では排水量33,750トン87,479馬力で26.728ノットという、後の大和型戦艦に迫る速力発揮した長門とは後艦橋指揮場の形状異なり艦首フェアリーダー位置がやや先端向かっている。艦首連繋1号機雷連繋索を乗り切るための形状となっている。菊花紋章長門よりもやや高い位置にあった。これは、最終時まで変わらない区別となった新造時には長門舷側備え魚雷防御網ブーム新造時陸奥装備しておらず、主砲塔測距儀も、長門従来型「波式6メートル」から新式の「武式8メートル」という2メートルほど大型化したもの変更されているが、高速時の艦体震動のため、四番砲塔測距儀信頼性低かったまた、長門同じく艦橋吹き込む煙突排煙排熱処理が問題となり、長門のものよりも太いファンネルキャップが取り付けられたがあまり効果はなく、1924年大正13年3月屈曲煙突改装された。この屈曲煙突長門型戦艦特徴として知られており、艦橋の10m測距儀測距精度向上し煙突改造結果良好だったという。

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艦型

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津軽 (敷設艦)」の記事における「艦型」の解説

③計画艦のひとつで、基本計画番号H10。「沖島」(同H4)の改型に当たる。「沖島」の準同型艦としている文献も多い。九三式一型機雷600個を搭載した先行艦(沖島)との相違点友鶴事件第四艦隊事件による船体寸法艦内配置建造方法見直し沖島電気熔接だが、津軽は鋲構造)。 艦尾中甲板機雷投下軌条を、沖島2条から津軽では4条に増やし艦尾開口部四箇所増設主砲を、沖島50口径三年式14cm砲連装×2、計四門)から津軽では40口径12.7cm連装高角砲二基四門変更沖島の後巨大だったため、津軽では重心降下狙い縮小。 などである。その他に兵装としては8cm高角砲換えて25mm連装機銃装備艦橋トップ射撃指揮装置高角砲用の九四式高射装置となった方位測定室煙突後方移動後部マスト後方にあった探照燈後部マスト上部移されている。艦影は「沖島」より全体的に低くなった。 機雷用の設備として煙突前後両舷に機雷搭載用のハンギング・レールがあり、それぞれの直下機雷積込口(計4カ所)があった。艦内中甲板艦橋下あたりから艦尾までのほとんどが機雷格納となっていて、最大8条の機雷軌道敷設してあった。上述通り艦尾中甲板敷設軌道は4条となっていて、その他に艦尾上甲板にも2条軌道があった。また缶室(ボイラー室)前方下甲板船艙甲板それぞれ機雷庫が設けられた。 「沖島」とのもう一つ違いとして、航空基地補給考慮入れており、補給重油102トン航空用軽質油125トン機関室後方全溶構造タンク三個)、航空用潤滑油補給用の爆弾搭載した。そのため大戦中は輸送任務にも活躍した太平洋戦争中カタパルト搭載機撤去九六式二十五粍高角機銃十三ミリ連装機銃増備した他、レーダー装備したと言われる。「あ号作戦後の兵装増備状況調査」によると1944年昭和19年8月10日調べで、25mm3連装機銃は6基増備して計7基、同単装機銃は4基を増備、その他21号電探前部マストトップ装備していた。

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艦型

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夕張 (軽巡洋艦)」の記事における「艦型」の解説

基本計画主任平賀譲造船大佐藤本喜久雄造船少佐詳細設計行い基本計画番号はF42。基本計画番号のFは駆逐艦設計用いられるアルファベットであり、船体艤装機関などが駆逐艦式の考え設計された。

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