じょうぶ‐こうぞう〔ジヤウブコウザウ〕【上部構造】
上部構造
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上部構造(じょうぶこうぞう、独: Überbau, 英: superstructure)は、カール・マルクスの著作『経済学批判』(独: Zur Kritik der Politischen Ökonomie)の序言(Vorwort)[3][4]等で提示された史的唯物論の基本概念のひとつ[5][6]。それによると時代の生産総体と経済(下部構造)に規定される法律的・政治的社会構造であるとされた。
- ^ 柳和久 2009, p. 219.
- ^ 農林水産省 & 農村振興局 整備部 地域整備課 2023, p. 65.
- ^ Marx, Karl. “Zur Kritik der Politischen Ökonomie Vorwort” (ドイツ語). pp. Vorwort. 2009年8月10日閲覧。
- ^ 『経済学批判』序 岩波文庫版 昭和31年
- ^ a b c d 阿部斉・内田満『現代政治学小辞典』有斐閣,1978年,p138.
- ^ 徳本正彦 マルクス、エンゲルスにおける「上部構造」と「イデオロギー」について On the Theory of Marx/Engels about "Superstructure" and "Ideologie"
- ^ a b c d ジェラール・デュメニル; ミシェル・レヴィ; エマニュエル・ルノー 井形和正,斉藤かぐみ訳 (2015). 100語でわかるマルクス主義. 文庫クセジュ. 白水社
- ^ a b c d e f 廣松渉「上部構造」『改訂新版 世界大百科事典』13巻,平凡社,2014年.
上部構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 15:02 UTC 版)
欄干は男柱の上に取付られた16基の擬宝珠で装飾される。西詰北側の擬宝珠には、橋の安全を願う萬度麻(まんどぬさ)という御札が納められている。この擬宝珠は仏教的な名称を嫌う神宮内部では葱花型金物と呼ばれている。造替にあたり他の部材が全て新調されても、擬宝珠だけは磨き上げられるのみで、擦り切れるまで繰り返し使用される。 近年は宇治橋の橋板の厚さを15cmにしているが、年間400万人前後の参拝客が通行するため橋板の摩耗が激しく、20年間では約6cm摩耗する。靴ではなく草履での通行が大部分であった明治以前はこれほど摩耗しなかったという。
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上部構造
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「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「上部構造」の解説
イギリスからの回航時、マストは船体後部に設置された単脚式の大檣1 本のみで、前部艦橋の後ろには信号燈のための簡素な支柱が装備されていた。しかし、リューリクの元の設計では船尾以外にグロモボーイのように戦闘司令塔前部に前檣を持つ、2 本マスト式になっていた。これには重量軽減という目的があったが、それ以上に、日露戦争直後に起こった「マストは1 本で必要かつ十分である」という当時一世を風靡していた思想によるものであった。この考えに従い、日露戦争後の一時期、艦隊装甲艦ツェサレーヴィチ、巡洋艦グロモボーイとボガトィーリは実際に後部の大檣1 本のみを装備していた。また、リューリクと同時期に建造されたアドミラール・マカーロフも船体中央部に1 本の大檣を持っていた。このほか、1907年時点でのアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイの設計や、1909年から1910年にかけて改装された小型の巡洋艦ジェームチュクも1 本マストを採用していた。前者はアドミラール・マカーロフ式で中央に1 本、後者はリューリク式で後檣のみであった。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1908年夏、ヴィッカースの工場での作業を終え、ロシアへ向かって出航するリューリク。マストが後檣1 本のみの状態。 1908年9月23日、ビヨルケズントにて皇帝ニコライ2世の視察を受けるリューリク。前部艦橋部に信号灯用の支柱が設置されている。 1912年、停止速度を取るリューリク。大檣と同じ高さの前檣が追加されており、大檣上にはバルト海海軍司令官旗が掲げられている。帆桁は前後ともに同じで、下の主帆桁が上檣桁より長い。 1915年から1916年の冬にレーヴェリにて撮影された、越冬中のリューリク。後檣は上檣桁だけになっており、前檣に残された主帆桁も大幅に短縮されている。 1917年のリューリク。前檣が三脚式に改修されており、継ぎ目に大型化した着弾観測用の前檣望楼が設置されている。 リューリクもこの時期の潮流に合わせて1 本マストの大型艦として建造されたが、この時期のロシア巡洋艦についてはマストの数が設計段階で右往左往しており、元の設計ではリューリク、アドミラール・マカーロフとも従来通りの2 本マストの予定であった。それが、1905年7月28日に新しく海軍大臣に就任したA・A・ビリリョーフ海軍中将の指令によって、リューリク、アドミラール・マカーロフ、それに改修工事中のオレークのマストは単檣式とされることになった。同年8月23日、海軍技術委員会はオレークのマストを1 本の低い軽量マストに変更する決定を採択した。続いて、バヤーンとパルラーダについての疑問が出されたが、これらは2 本マストのまま完成されることになった。こうなると、今度はリューリク、アドミラール・マカーロフ、それにオレークのマストを2 本に戻すべきかという疑問が生じた。1907年1月11日にI・M・ジコーフ海軍大将が海軍大臣に就任すると、1905年7月28日の決定は無効であるという決定が下された。 1908年初頭には、海軍総司令部は2 本マストへの方向転換を始めた。「射撃管制の便宜のため、2 本マスト」とし、「それぞれに高さ100 ftの位置に長距離射撃の管制のための観測所を設置する」という基本方針が定められた。さらに、同年6月26日付けの海軍総司令部から海軍大臣への報告書では、「すべての軍艦について同一のシルエットを得ることと射撃管制のため、艦船に2 本の軽量マストを設置するということへの、海軍大臣の承認を請願する」と記された。この請願は承認され、リューリク、アドミラール・マカーロフ、オレークともに1 本のマストを追加して2 本マストとすることになった。 1909年1月8日に海軍大臣がS・A・ヴォエヴォーツキイ海軍中将に交代し、同年2月にI・K・グリゴローヴィチ海軍中将がその副大臣に就任すると、グリゴローヴィチはマストは1 本式を採用すると確認した。同年3月17日にクルィローフ技師は、アドミラール・マカーロフは船体中央部に1 本の大檣、リューリクとオレークは船尾に1 本の大檣を持ち、後2者はさらに戦闘司令塔付近に信号燈用の支柱を持つ、という報告をした。結局、これらの艦は単檣式で竣工したのである。 しかし、大型艦は単檣とするという風潮は長くは続かなかった。実際に運用してみると、第2マストの廃止はまったく失敗であったということが明らかになった。大檣が航法艦橋から離れていたため、艦隊での航海におけるタイムリーな信号の発信について困難が生じる場合があった。リューリクは信号燈用の支柱を持っていたものの、アドミラール・マカーロフにおいてこの不具合は特に顕著で、しばしば的確な信号の発信がまったく不可能ですらあった。第2マストの欠如はまた、射撃補正に必要な第2の観測所を艦に設置できないという問題を生じた。報告書によれば、「空中電線容量」の減少のために「無線連絡も縮小された」。また、問題はマストだけではなかった。上層甲板に設置された艦橋も「完全な役立たず」であった。至る所ひびが入り、至る所で甲板から剥がれており、半年ほどのあいだ、艦橋の下へ水が自由に出入りするのを防ぐため、錆を促進するために部分的に塗料を塗られていた。 一方、2 本マストで完成されたバヤーンとパルラーダでは、それぞれのマストに固定式の観測所が設置され活用されていた。このような設備がリューリクやアドミラール・マカーロフにもあるべきだと考えられたが、その理由のひとつには、皇帝自身がそれを命じたということもあった。1909年夏には、海軍副大臣はリューリクとアドミラール・マカーロフの上層甲板上の艦橋を、バヤーンやパルラーダのような「寄木式の」木製艦橋に換装するという指令を出した。 数々の問題解決ためにリューリクやアドミラール・マカーロフへ前檣を設置する改修工事が施されることになった。リューリクでは、1910年の修理の際に戦闘司令塔後部に単檣式の軽量マストが設置された。その喫水線からマスト先端までの高さは、大檣と同じ45.7 mに合わせられた。中程には、小さいながらも観測所が設けられた。この改修工事は、大した困難は生じなかった。後年、1917年に修理を受けた際には前檣は三脚式に改修され、左右に脚を広げた2 本の支柱が追加された。その構造ははるかに頑丈になり、新しい空間にはより正確な着弾補正計算を行うための前檣望楼が設置された。 マストの変更が行われた関係で、その帆桁も変更を受けた。当初、艦は両檣に長い主帆桁と上檣桁を持っていた。その後、戦時中に上檣桁は無線アンテナのために残されたが、主帆桁は前檣望楼下の1 本だけに変更された。短縮された前檣の主帆桁は、信号旗や可動風船の掲揚のために使用された。 なお、リューリクの大檣と後部艦橋とのあいだには1 基の探照燈が設置されていた。のちには、前部の戦闘司令塔横のウイング上に左右に1 基ずつ探照燈が設置された。
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上部構造
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「キーファーマルクトの祭壇画」の記事における「上部構造」の解説
精巧に彫られた上部構造には、マリア、アレクサンドリアのカタリナ、バルバラの各聖女が描かれており、上部には預言者の胸像に挟まれた聖アグネスの彫像が位置し、その上には聖ヘレナの彫像が冠されている。丁寧に作られた彫像は、個別にデザインされ、衣服や属性に大きな違いがある。上部構造自体は中央パネルの各聖人の上にそびえ立つ3本の主要な小尖塔を含む11本の小尖塔で構成されている。何度か変更されており、他の祭壇画の要素が取り入れられている。もともとは純粋に建築的な構成であり、植物的な要素は含まれていなかった。また、人物像がもともと上部構造の一部だったのか、それとも別の方法で配置されたのかについても疑問が残されている。
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上部構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 10:15 UTC 版)
上部構造は、床構造と主構造から成り立つ。床構造は床版(しょうばん)や床組(ゆかぐみ)によって形成され、通行する交通を支える役目を持つ。主構造は主桁など、床構造を支えて荷重を下部構造に伝達する役割がある。吊橋や斜張橋では主塔やケーブルも上部構造に含まれる。さらに、車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干・らんかん)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とをつなぐ支承(ししょう)や道路と橋梁の境にあたる伸縮継手も上部構造に含まれる。
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