すいじょうき‐ぼかん〔スイジヤウキ‐〕【水上機母艦】
水上機母艦
水上機母艦
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詳細は「水上機母艦」を参照 水上機を搭載し、その行動基地としての役割を持つ軍艦。水上機以外を搭載する航空母艦が登場する前の第一次世界大戦当時、航空母艦とは水上機母艦を指すのが一般的であった。
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水上機母艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:36 UTC 版)
「大日本帝国海軍艦艇一覧」の記事における「水上機母艦」の解説
若宮 [I](←二等海防艦←輸送船←英船レシントン)※類別上は最後まで航空母艦のまま。 能登呂(←運送艦(給油艦)) 神威(←運送艦(給油艦)) 千歳型(→航空母艦):千歳 [II] - 千代田 [III] 瑞穂 日進 [III] 秋津洲型:秋津洲 [II] - 千早 [III](未成)
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水上機母艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:26 UTC 版)
船体は平甲板型で、乾舷が高く直線的な船体をしている。また、復原性確保のためバルジを装着した。 2隻とも呉海軍工廠の建造艦で、両者に外見上の違いはほとんど無い。わずかに蒸気捨管の配置や舷窓配置に違いが見られるだけという。ただ、構造上、「千代田」は第四艦隊事件の教訓により上甲板が補強され、上甲板には厚鋼板が用いられた。 艦上機の帰着甲板として長さ100m、幅20mが最小限の大きさとして要求された。構造物の設計研究のために実際に作ってみることにしたが、復原性の観点から長さを40m弱とし、甲板上に25mm機銃、探照燈などを搭載して機銃甲板と称した。後述するように、帰着甲板の下に甲標的積み込み用ハッチが設けられたため、帰着甲板は甲標的積み込みに必要な高さとされた。 対空兵装は以下の通り。主砲として12.7cm連装高角砲2基を艦首に背負式に搭載。対空機銃は計画通り25mm連装機銃6基を搭載。艦橋の前方に1基、左右に1基ずつ、残り3基は帰着甲板(機銃甲板)の後方に装備した。 搭載機 九五式水上偵察機24機、同補用4機を搭載する計画だった。甲板には運搬軌条3条が前後に走っており、後部射出機の内側には艦内の格納庫から水偵を上げるリフトが装備された。連続射出可能とするため、上甲板の駐機スペースを広く取り、射出機4基を備えて30分間で連続射出可能とされた。ただし、上甲板に並べられる水偵は20機程度で24機を並べるためには艦を更に大きくする必要があったため、断念された。 ロンドン海軍軍縮条約では、航空機3機まで搭載する場合では射出機は片舷1基の計2基まで、航空機4機以上搭載の場合は射出機無しという制限があった。このため、射出機2基を搭載し、2基は後に増設できるように考慮されたが、軍縮条約破棄後の竣工となったので、計画どおり射出機4基を搭載して竣工した。 航空機揚収用クレーンは帰着甲板後方支柱の後方に左右1基ずつ、艦尾の左舷よりに折り畳み式クレーン1基を装備した。 実際の運用では1938年10月時に「千歳」は8機を搭載、中国進出時の「千代田」は9機を搭載といわれる。機種としては九五式水上偵察機以外では、千歳の公試時の写真では九四式一号水上偵察機を搭載、1940年頃の千代田は九四式二号水上偵察機の搭載も確認される。また、ミッドウェー海戦の頃の千歳の写真では零式観測機と零式水上偵察機を搭載している。 機関 千歳型は、上記のように高速給油艦の任務も考慮されていたことから、自艦の燃料消費を抑えて補給用重油の搭載量を増す必要があった。また、甲標的母艦としては速力29ノットが要求されたため、主機はディーゼルとタービンの併用が採用された。全力運転での出力56,800馬力のうちタービンは1基22,000馬力、ディーゼルは1基6,400馬力を受け持ち、フルカン・ギアで接続した。 ボイラーとタービンは初春型駆逐艦と同様のものを搭載した。初春型の場合タービン1基で21,000馬力の計画だったが、公試で15%増までの過負荷に耐えられることが確認されたので、本型では力量を22,000馬力として計画された。ボイラーは4基の搭載を考慮、速力を20ノットに制限するために軍縮条約中はボイラー2基のみを搭載する計画だった。建造中に軍縮条約を破棄したので、ボイラー4基搭載、速力29ノットで竣工した。 一方、ディーゼルは11号10型を2基搭載した。1基6,800馬力の予定だったが、その使用実績から途中で1基6,400馬力に計画を変更した。このため、ディーゼルのみで基準速力16ノットを出すことができなくなり、タービンに比較的大型の巡航タービンを追加して併用することになった。 ボイラー用の煙突は艦内で前方に曲げ、前部マストの直後に設置した。缶室(ボイラー室)直上の上甲板は搭載機用のスペースとなっている。一方、ディーゼルの排気筒は帰着甲板の後部支柱まで導いた。
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水上機母艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 09:46 UTC 版)
「能登呂 (水上機母艦)」の記事における「水上機母艦」の解説
水上機母艦への改造はワシントン軍縮条約直後の1923年(大正12年)に計画され、翌1924年(大正13年)に佐世保海軍工廠で工事が行われた。 艦橋前後の上甲板に艙口を覆う木甲板フラットを設けて水上機の搭載位置とし、その上方には鉄骨木板張りの天蓋を設けた。天蓋は右舷側が開放されており、そこから水上機を収容した。水上機揚収用のデリックは前後のデリック・ポストを補強、延長してそれぞれに1基ずつ設けた。射出機は当時の軍縮条約の制限で装備されなかった。後甲板には発動機調製所が設けられ、最前部のサンマータンクを改正して第2甲板に軽質油庫を設けた他、兵員室や飛行機用の諸工場も設置した。 船首楼直後には飛行機への遮風のために隔壁が設けられ、空気抵抗が増したため速力がいくらか低下した。また天蓋を設置したために艦橋からの前方視界が悪くなり、改造完成直後に前部マスト部分にパイロット・ハウスが設置されている。 上述のように給油艦としての装備はそのままで、給油艦兼水上機母艦として使用された。 1937年(昭和12年)に改装が行われ、天蓋は撤去された。
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水上機母艦
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「大日本帝国海軍航空隊一覧」の記事における「水上機母艦」の解説
1943年10月1日、最後まで残っていた特設水上機母艦「君川丸」、「国川丸」、「山陽丸」が特設運送船となり、水上機母艦の飛行機隊は消滅した。 水上機母艦「若宮」飛行機隊 水上機母艦「能登呂」飛行機隊 水上機母艦「神威」飛行機隊 水上機母艦「千歳」飛行機隊 水上機母艦「千代田」飛行機隊 水上機母艦「瑞穂」飛行機隊 水上機母艦「日進」飛行機隊 特設水上機母艦「神川丸」飛行機隊 特設水上機母艦「聖川丸」飛行機隊 特設水上機母艦「君川丸」飛行機隊 特設水上機母艦「国川丸」飛行機隊 特設水上機母艦「相良丸」飛行機隊 特設水上機母艦「香久丸」飛行機隊 特設水上機母艦「山陽丸」飛行機隊 特設水上機母艦「讃岐丸」飛行機隊
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水上機母艦
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「第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧」の記事における「水上機母艦」の解説
艦名場所日付原因補足出典ガネット (Gannet, AVP-8) バミューダ諸島沖北緯35度50分 西経65度38分 / 北緯35.833度 西経65.633度 / 35.833; -65.633 (ガネット (Gannet, AVP-8)) 1942年6月7日 U-653(英語版)の雷撃 ラングレー (Langley, AV-3) チラチャップ南方南緯08度58分 東経109度02分 / 南緯8.967度 東経109.033度 / -8.967; 109.033 (ラングレー (Langley, AV-3))) 1942年2月26日 高雄航空隊の空襲 救難断念の上、駆逐艦「ホイップル(英語版)」および「エドサル」により処分 ソーントン (Thornton, AVD-11) 沖縄北緯24度24分 東経128度58分 / 北緯24.400度 東経128.967度 / 24.400; 128.967 (ソーントン (Thornton, AVD-11))) 1945年4月5日 給油艦「アシュタブラ」および「エスカランテ」と衝突 ハルクに転用され1945年5月2日退役、8月13日除籍。船体は1957年7月に琉球政府に移管
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