「千代田」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 14:57 UTC 版)
1940年(昭和15年)8月20日、原田は「千代田」艦長に就任する。千代田の艦種は水上機母艦であったが、実際は敵艦隊への奇襲を実施する予定であった特殊潜航艇「甲標的」の母艦である。原田は責任者として日米開戦直前の特殊潜航艇搭乗員の訓練にあたった。原田は酒豪で、また親分肌でもあり、血気にはやる少壮軍人の教育には適任であったという。原田は「甲標的」の戦力化に努めたことで「特殊潜航艇育ての親」と言われる。この時の訓練は、特殊潜航艇を艦隊決戦において使用することを想定したものであったが、艦隊決戦が生起しない場合の特潜の使用法が課題となった。そうした中で岩佐直治、松尾敬宇ら搭乗員から特殊潜航艇による開戦劈頭に敵の港湾に侵入して攻撃する実行案が原田に提出された。原田はこの計画案をさらに具体的な案にして軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀・有泉龍之助中佐に相談して同意と所見を得て、連合艦隊司令長官・山本五十六大将にこの甲標的の作戦を意見具申した。山本はこの一死奉公の奇襲案に感激したが、攻撃後の収容が困難なため採用しなかった。岩佐らがさらに改善策を作り、連合艦隊水雷参謀の有馬高泰中佐を通じてさらに数回陳情して採用に至った。 1941年(昭和16年)12月8日、佐々木半九大佐が指揮する特別攻撃部隊は、潜水艦5隻、特殊潜航艇5隻で構成され真珠湾攻撃に参加。岩佐直治、横山正治ら特殊潜航艇搭乗員9名が戦死して九軍神と呼ばれることとなった。原田は捕虜となった酒巻和男を含め十軍神とするよう働きかけたが認められなかった。1942年(昭和17年)6月、MI作戦に従事、その後キスカ島への輸送任務に従事した。 同年11月1日、少将へ昇進。南東潜水部隊指揮官としてラバウルを基地に指揮をとり、増援遮断や潜水艦輸送を実施した。
※この「「千代田」」の解説は、「原田覚」の解説の一部です。
「「千代田」」を含む「原田覚」の記事については、「原田覚」の概要を参照ください。
- 「千代田」のページへのリンク