昭和20年とは? わかりやすく解説

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昭和20年 (きのととり 乙酉)

昭和20年
年(年号)
1928年 (昭和3年) ■初の普通選挙実施
1932年 (昭和7年) 五・一五事件
1936年 (昭和11年) 二・二六事件
1941年 (昭和16年) ■対英米宣戦布告
1945年 (昭和20年) ポツダム宣言受諾
昭和20年
1946年 (昭和21年) 日本国憲法公布
1951年 (昭和26年) サンフランシスコ講和条約
1953年 (昭和28年) テレビ放送開始
1956年 (昭和31年) 国際連合加盟
1960年 (昭和35年) 東京タワー完成
1960年 (昭和35年) 日米新安保条約調印
1964年 (昭和39年) 東京オリンピック


昭和20年
幸田 露伴 1867年1947年(慶応3年昭和22年) 78
川上 貞奴 1871年1946年(明治4年昭和21年) 74
長谷川 如是閑 1875年1969年(明治8年昭和44年) 70
荒木 貞夫 1877年1966年(明治10年昭和41年) 68
大河内 正敏 1878年1952年(明治11年昭和27年) 67
吉田 茂 1878年1967年(明治11年昭和42年) 67
鏑木 清方 1878年1972年(明治11年昭和47年) 67
永井 荷風 1879年1959年(明治12年昭和34年) 66
石井 柏亭 1882年1958年(明治15年昭和33年) 63
福原 信三 1883年1948年(明治16年昭和23年) 62
高村 光太郎 1883年1956年(明治16年昭和31年) 62
鳩山 一郎 1883年1959年(明治16年昭和34年) 62
石橋 湛山 1884年1973年(明治17年昭和48年) 61
東条 英機 1884年1948年(明治17年昭和23年) 61
安田 靫彦 1884年1978年(明治17年昭和53年) 61
三浦 環 1884年1946年(明治17年昭和21年) 61
武者小路 実篤 1885年1976年(明治18年昭和51年) 60
平塚 らいてう 1886年1971年(明治19年昭和46年) 59
山田 耕筰 1886年1965年(明治19年昭和40年) 59
谷崎 潤一郎 1886年1965年(明治19年昭和40年) 59
柳 宗悦 1889年1961年(明治22年昭和36年) 56
古今亭 志ん生 1890年1973年(明治23年昭和48年) 55
山川 菊栄 1890年1980年(明治23年昭和55年) 55
近衛 文麿 1891年1945年(明治24年〜昭和20年) 54
西条 八十 1892年1970年(明治25年昭和45年) 53
早川 徳次 1893年1980年(明治26年昭和55年) 52
加藤 シヅエ 1897年2001年(明治30年平成13年) 48
淺沼 稲次郎 1898年1960年(明治31年昭和35年) 47
土方 与志 1898年1959年(明治31年昭和34年) 47
溝口 健二 1898年1956年(明治31年昭和31年) 47
近衛 秀麿 1898年1973年(明治31年昭和48年) 47
吉野 源三郎 1899年1981年(明治32年昭和56年) 46
田河 水泡 1899年1989年(明治32年平成元年) 46
阪東 妻三郎 1901年1953年(明治34年昭和28年) 44
小林 秀雄 1902年1983年(明治35年昭和58年) 43
近藤 真柄 1903年1983年(明治36年昭和58年) 42
古川 縁波 1903年1961年(明治36年昭和36年) 42
美濃部 亮吉 1904年1984年(明治37年昭和59年) 41
堀 辰雄 1904年1953年(明治37年昭和28年) 41
榎本 健一 1904年1970年(明治37年昭和45年) 41
朝永 振一郎 1906年1979年(明治39年昭和54年) 39
湯川 秀樹 1907年1981年(明治40年昭和56年) 38
大岡 昇平 1909年1988年(明治42年昭和63年) 36
黒澤 明 1910年1998年(明治43年平成10年) 35
三島 由紀夫 1925年1970年(大正14年昭和45年) 20才

1945年

(昭和20年 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 03:40 UTC 版)

1945年(1945 ねん)は、西暦グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年昭和20年。


注釈

  1. ^ ドイツ史では、第二次世界大戦での敗北によってナチ政権が崩壊、戦後の再建が開始したことからこの終戦を「Stunde Null零時)」と表現する(サーラ・スヴェン「ドイツと日本における「終戦」「敗戦」「解放」の記憶」『ヨーロッパ研究』第7巻、大阪国際大学、2008年3月、5-28頁、NAID 40016029760 
  2. ^ 文庫化時に『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』に改題。

出典

  1. ^ ジョージ・ワシントンが米国初代大統領に就任/今日は?”. 日刊スポーツ (2023年4月30日). 2023年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月30日閲覧。
  2. ^ フランス料理のスター、ロブション氏死去 ミシュラン星30以上”. BBCニュース (2018年8月7日). 2020年11月7日閲覧。
  3. ^ 興雄, 村瀬. 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク. 2021年2月16日閲覧。
  4. ^ コードウェイナー・スミス『人類補完機構全短編 1 スキャナーに生きがいはない』早川書房、2016年、85-87,95,100,101,109頁。ISBN 978-4-15-012058-0 
  5. ^ 佐藤大輔『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』角川書店、2003年、5,9-12,71-75,82-86,346頁。ISBN 978-4-04-373201-2 
  6. ^ 井上純弌F.E.A.R.『エンゼルギア 天使大戦TRPG』エンターブレイン、2003年、127,128,136頁。ISBN 978-4-7577-1469-4 
  7. ^ 広崎悠意『高機動幻想ガンパレード・マーチ』メディアワークス、2001年、21,22頁。ISBN 978-4-8402-1724-8 
  8. ^ 『アルファ・システム サーガ』樹想社、2004年、111頁。ISBN 978-4-87777-052-5 
  9. ^ 芝村裕吏アルファ・システムAの魔法陣 ルールブック ~ガンパレード・マーチ篇~』エンターブレイン、2008年、204,205,234頁。ISBN 978-4-7577-4453-0 
  10. ^ 笹本祐一『ARIEL〔11〕』朝日ソノラマ、1996年、30-38,86-92頁。ISBN 978-4-257-76783-1 
  11. ^ タイトー、往年のアーケードゲームの名作が帰ってきた! PS2「彩京シューティングコレクションVol.1 STRIKERS 1945 I&II」 - GAME Watch。2004年4月23日、2016年6月4日閲覧。
  12. ^ 高橋ヨシキ『アイアン・スカイ』竹書房、2012年、45-51頁。ISBN 978-4-8124-9094-5 
  13. ^ SuperLite 1500シリーズ ストライカーズ1945II - サクセス公式サイト、2020年12月27日閲覧。
  14. ^ ゲーム紹介 - 『ストライカーズ1945 PLUS Portable』公式サイト、2016年2月11日閲覧。
  15. ^ ゲーム版『ゲートキーパーズ』第019話より。
  16. ^ 笹本祐一『妖精作戦』東京創元社、2011年、205頁。ISBN 978-4-488-74101-3 


「1945年」の続きの解説一覧

昭和20年(1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/07 08:49 UTC 版)

京城日本人世話会」の記事における「昭和20年(1945年)」の解説

8月25日 - 京城内地人世話会発足9月2日 - 「会報」を発行9月15日 - 「京城日本人世話会」と改称9月28日 - 法律相談部を設置し職員を置く。 10月1日 - 罹災救済病院設置10月20日 - 倭奴掃蕩本部なる団体から「残留日本人告ぐ」というビラがばら撒かれる10月23日 - 本格的な引揚が始まる。 10月25日 - アメリカ軍政庁倭奴掃蕩本部対し不穏ビラ撒いたことに警告発する12月1日 - 旧朝鮮総督府京城案内所吸収12月11日 - 「みなし児収容所」を開設12月30日 - 38度線上にある延安青丹派遣隊を送る。

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昭和20年(1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 14:38 UTC 版)

第一四一海軍航空隊」の記事における「昭和20年(1945年)」の解説

1月8日要員撤退のため、一航艦附属転籍翌日より台湾へ撤退開始

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昭和20年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 20:20 UTC 版)

第三十一戦隊」の記事における「昭和20年」の解説

1945年(昭和20年)1月初旬連合軍リンガエン湾進出し上陸作戦開始したルソン島の戦い)。南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将)は第三十一戦隊所属艦を含めた第二遊撃部隊水上突入作戦命じたが、第52駆逐隊)が空襲水上艦艇による攻撃撃沈された。1月8日大川内長官第三十一戦隊残余)の進出命じた翌日には取り消し駆逐隊第二遊撃部隊から除かれた。第三十一戦隊司令部台湾高雄市移転した。各艦は、南西方面から内地台湾へ撤退開始する香港修理中の駆逐艦「梅」1月20日高雄港到着し姉妹艦)と合流したルソン島からの航空兵撤収作戦で、1月31日「梅」空襲により沈没駆逐艦」も損傷した2月5日第五艦隊戦時編制からのぞかれて解隊され、第二遊撃部隊残存部隊は新編第十方面艦隊司令長官福留繁中将)に編入された。ただし、第三十一戦隊戦時編制において連合艦隊付属戻された(高雄警備府部隊付属)。そして、同年3月15日には日本列島内海西部所在第二艦隊司令長官伊藤整一中将)に編入された。ただし、スラバヤ修理中の「五十鈴」は損傷のため3月25日付で第十方面艦隊編入され第三十一戦隊から除かれ駆逐艦として大柄な秋月型駆逐艦の「花月」が第三十一戦隊与えられた。第三十一戦隊旗艦駆逐艦「竹」を経由して花月となった4月初旬天一号作戦における第三十一戦隊は、豊後水道通過する海上特攻隊を援護するため、呉鎮守府麾下の呉防備戦隊応援部隊と共に対潜掃討実施する坊ノ岬沖海戦)。4月6日午後3時20分、海上特攻隊(大和二水戦、第三十一戦隊)は徳山沖を出撃した。午後4時20分、第三十一戦隊花月)は解列し、以後待機部隊として第11水雷戦隊司令官指揮下に入った坊ノ岬沖海戦主力艦艇を失った第二艦隊4月20日付で解隊されると、第三十一戦隊は再び連合艦隊直属となった同じく第二艦隊所属していた第二水雷戦隊解隊されて、残存駆逐艦(第7駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊)は第三十一戦隊編入され本土決戦準備進められる中、同年5月20日第三十一戦隊(第17駆逐隊欠)と軽巡北上」(人間魚雷回天母艦)を基幹として海上挺進部隊軍隊区分設置され本土決戦時の上陸船団攻撃任務充てられることになった。しかし、燃料不足行動極めて制限されていた。同年7月15日には最後水雷戦隊である第十一水戦隊新造駆逐艦練習部隊)が解隊されたため、第三十一戦隊日本海軍唯一駆逐艦上の艦艇多数擁する水上戦部隊として終戦の日迎えた

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昭和20年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:21 UTC 版)

涼月 (駆逐艦)」の記事における「昭和20年」の解説

1945年(昭和20年)はじめもしくは1944年末ごろ、艦橋左右に機銃台を増設し25mm3連装機銃2基を増備した(合計7基)。また前マスト上の21号電探撤去し、跡に22号電探1基・13号電探1基を設置13号電探合計2基)。 1945年(昭和20年)2月下旬第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将海兵45期)及び指揮下二水戦各艦は北号作戦日本帰投2月20日附で人事異動おこなわれ涼月水雷長は澤岡信男大尉から岩越朴雄大尉交代涼月機関長桑原堅志少佐から原田三大尉(当時夕雲型駆逐艦朝霜機関長)に交代する2月21日41駆(涼月冬月)は正式に第二水雷戦隊司令官指揮下に入った3月1日、第41駆逐隊司令として夕雲型駆逐艦風雲初代艦長等歴任した吉田正大佐海兵50期)が着任する3月10日附で杉谷大佐涼月艦長)は第52駆逐隊司令転任涼月艦長として平山敏夫中佐海兵55期平山は、夕雲型駆逐艦早霜沈没時の艦長)が着任した呉軍港空襲 3月19日呉軍港空襲では、広島湾にて戦艦大和艦長有賀幸作大佐)の護衛についた第二艦隊大きな被害はなかった。 3月29日海上特攻隊(指揮官伊藤整一第二艦隊司令長官/海軍中将海兵39期)とともに三田尻沖に移動した。敵水上艦隊との戦闘が行われる場合、第41駆逐隊冬月涼月)は第一遊撃部隊(1YB)第一部隊(1NB)となり、大和の直衛艦として行動する予定だった。 3月26日倉橋二郎少佐涼月砲術長)を第36号海防艦長丁型海防艦)に、平田茂男大尉当時雲龍型航空母艦笠置艤装員)を涼月砲術長とする人事発令される倉橋によれば平山涼月艦長)や第二艦隊司令部意向により、しばらく様子を見ることになったという。また沖縄への出撃際し生還見込めないことから涼月主計長を退艦させている。 坊ノ岬沖海戦 詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 4月6日15時海上特攻隊(第一遊撃部隊)は、第二艦隊長官伊藤整一中将指揮下、第一航空戦隊大和)、第二水雷戦隊軽巡矢矧〉、第17駆逐隊磯風雪風浜風〉、第21駆逐隊朝霜初霜〉、第41駆逐隊冬月涼月〉)という戦力徳山出撃対潜警戒第三十一戦隊午後4時以降分離帰投)。少なくとも3隻(磯風涼月冬月)は煙突菊水マーク描いていたという。1950分からの第一警戒航行序列では、涼月大和旗艦)の右側占位した。 翌4月7日6時第三警戒航行序列に切り替わってからは、大和後方位置した同日午前中夕雲型駆逐艦朝霜(第21駆逐隊司令小滝久雄大佐座乗)が機関故障により落伍12時30前後アメリカ軍機に襲撃され沈没した涼月からは朝霜のマストだけが見えていたという。 12時32分、アメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)からの艦載機第一波やってくる度重なる転舵輪形陣崩れる中、涼月大和左舷後方位置して掩護続けた第一波攻撃により、矢矧第二水雷戦隊旗艦)は被雷して航行不能浜風(第17駆逐隊)は沈没した第一波空襲終わりに近づいてきた13時8分(涼月艦橋電気時計停止時間。実際被弾時間不明)、空母エセックス (USS Essex, CV-9) のSB2Cヘルダイバー」4機から投じられ150キロ爆弾のうち一発艦橋前に命中して船首楼甲板上甲板右舷外板大破口が生じ、他の二発が後方への至近となった命中弾により火災発生し海図方面違いの5残して全て焼失通信装置失いジャイロコンパス破損した。一番砲塔二番砲塔大破し弾薬庫は一番砲塔のもの以外は全て浸水した艦内電源断たれたため消火活動開始するまでに時間がかかり、二番砲塔誘爆招いてしまったという。冬月1315分に『涼月火災中ナルヲ認ム』と記録している。この時点第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員被害はなく、第二罐室による20ノット発揮可能だった操舵装置破壊速力指示機の故障により涼月右旋回を続けていたが、このとき、大和左舷回頭したため、2隻は50m程まで接近した涼月側は後進をかけ、衝突直前回避されている。涼月からは大和に舵故障の旗流信号(D旗)が上がっているのが見られた。 13時30分頃よりアメリカ軍機動部隊艦載機第二波攻撃はじまったアメリカ軍攻撃隊の報告によれば当時第二艦隊健在大和直衛群(大和冬月初霜雪風)、航行不能矢矧第二水雷戦隊旗艦)および同艦救援磯風(第17駆逐隊)に分離しその間軽巡洋艦1隻が航行していた。涼月軽巡洋艦誤認したものとみられる。この攻撃大和矢矧沈没航行不能となり、損傷受けた磯風自力北方むかった作戦中止後 涼戦闘続行不能判断した涼月艦長平山は、大和沈没後の14時30分頃から単艦で帰投開始通信装置破損しており、作戦中止命令受信できなかった。涼月被弾により艦首沈下前方傾斜10度)、中央部海面から甲板まで数十cmという状態で前進する船体潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇後進強速の回転数20回転プラス)」の紙を機械室や罐室にはりつけた。9ノット速力安定して発揮。 この時、空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) のTBFアヴェンジャー」が魚雷放ってきたものの、命中しなかった。海図焼失ジャイロコンパス破損状況ながらも涼月日本本土目指した。その際涼月側では大和沈没直後に『たまたま近づいてきた駆逐艦』に手旗信号方向教えてもらい、北東針路をとった……としているが、酒匂初霜艦長)の回想では初霜(第21駆逐隊)が涼月後方について針路指示したとなっている。14時55分、涼月は「右舷至近大破火災 目下消火中」と打電したものの、火災一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦発見されることを誰もが恐れていたという。夜になって実際に雷撃されたが、艦尾前方通過していったという回想も残されている。15時15分、初霜に対して突入作戦続行かどうか信号交信したが、「不明」との返事をもらう。次いで15時25分には冬月に対して二軸運転で航行可能な旨を報じた17時30分、涼月洋上停止して応急修理を行う磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と遭遇した同時刻、矢矧艦長原為一大佐沈没後、初霜救助されていた第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、遊撃部隊指揮吉田正大佐(第41駆逐隊司令冬月座乗)から継承した初霜二水司令部)は磯風曳航準備進め陽炎型駆逐艦雪風(第17駆逐隊)に対し磯風処分下令した。第17駆逐隊および雪風磯風曳航意見具申二水司令部初霜)は却下し磯風雪風処分された。 また二水司令部初霜)は冬月に対しても『涼月護衛至急佐世保回航セヨ』と命ずるが、同時に状況ニ依リテハ涼月処分シテ差支ナシ』とも通達している。 日没後、涼月護衛もしくは処分するため冬月捜索開始したが、見つけることは出来ず、すでに先行していると推定された。 4月8日朝、冬月各隊単独帰投中の涼月掩護要請した。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬262度140海里地点北上しているのが発見される昼前には1隻の漁船漁船改造特設掃海艇とも、駆潜艇とも)から「われ貴艦の側方護衛する」と手旗信号おくられ涼月乗組員一同苦笑させた。 14時30分、ついに佐世保帰投する。帰着遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還佐世保海軍工廠サイレン鳴らして歓迎した。 しかし佐世保入港時に後進から前進切り換えたことで浸水進行係留中にも浸水が止まらなかったので大急ぎタグボート手配され18時30分第七船渠収容することができたが、排水待ちきれず第七船渠内で着座してしまった。 大破した前方区画のうち、前部弾薬庫区画内部から防水処置がされたため沈没免れる。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業行った3名の乗員は、後に酸欠死している状態で発見された。また涼月砲術によれば、3名のうち江藤虎蔵(二等主計兵曹)は短刀自決していたという。本海戦において涼月戦死者57名、負傷者34名(35名とも)を出した

※この「昭和20年」の解説は、「涼月 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「昭和20年」を含む「涼月 (駆逐艦)」の記事については、「涼月 (駆逐艦)」の概要を参照ください。


昭和20年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 01:16 UTC 版)

南西方面艦隊」の記事における「昭和20年」の解説

1945年(昭和20年)1月初頭連合軍大船団をルソン島リンガエン湾派遣し6日より同湾への艦砲射撃開始した1月8日日本海軍は第13航空艦隊南西方面艦隊よりのぞき(大川内長官兼務職をとかれ、南西方面艦隊長官専任)、第一南遣艦隊司令長官田結穣中将兼任とした。同日附で第二航空艦隊解隊された。 マニラ海軍守備隊陸軍方針従わず2月初頭以降マニラ市街戦により壊滅、第31特別根拠地隊司令官岩淵三次少将マニラ海軍防衛部指揮官)は2月下旬戦死した2月5日遊兵化した東南アジア方面部隊再編するため、日本海軍第五艦隊司令長官志摩清英中将)を解隊する。第五艦隊残存戦力基幹として、第十方面艦隊司令長官福留繁中将)が新編された。第一南遣艦隊第二南遣艦隊第四南遣艦隊第十三航空艦隊第十方面艦隊移管した。3月10日には第四南遣艦隊解隊された。 1945年(昭和20年)5月8日第一航空艦隊連合艦隊復帰した6月15日附で解隊)。5月29日小沢治三郎中将連合艦隊司令長官就任した小沢中将大川内中将南西方面艦隊司令長官)は海軍兵学校同期生だったが、大川内の方が先任順位が上であった。先任者を後任者指揮下に入れないという日本海軍慣例のため、南西方面艦隊小沢指揮系統からはずされて、大本営直轄部隊切り替えられた。最終的に南西方面艦隊指揮したのは、第三南遣艦隊のみになっている終戦時にはセブミンダナオなどの主要拠点失い壊滅状態に陥っていた。

※この「昭和20年」の解説は、「南西方面艦隊」の解説の一部です。
「昭和20年」を含む「南西方面艦隊」の記事については、「南西方面艦隊」の概要を参照ください。

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