昭和19年前半の行動
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「岸波 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年前半の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月19日、空母雲鷹が米潜水艦の雷撃で大破し、駆逐艦の護衛でサイパンから横須賀に回航される。岸波と沖波は29日に柱島泊地を出港、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹救援に向かった。雲鷹を護衛中の重巡高雄(2月1日、雲鷹と合流)や他の駆逐艦と合流した。2月7日、雲鷹と岸波をふくむ護衛部隊は横須賀に到着した。 2月10日、夕雲型駆逐艦長波単艦になっていた第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊(駆逐隊司令福岡徳治郎大佐)に岸波、沖波、朝霜が編入され、同駆逐隊は夕雲型4隻となった。福岡大佐は、31駆司令駆逐艦を岸波に指定した。長波は前年のラバウル空襲で受けた損傷を呉海軍工廠において修理中のため、第31駆逐隊は当面3隻で輸送作戦に投入された。 第31駆逐隊は26日に広島・宇品を出港し、マリアナ諸島にむかう第29師団を乗せた安藝丸(11,409トン)、東山丸(8,666トン)、崎戸丸(9,247トン)の3隻を護衛した。29日未明に米潜水艦に襲撃され、被雷した崎戸丸が沈没、安藝丸も魚雷1本が命中して戦死者30名を出した。崎戸丸沈没により歩兵第18聯隊長の門間健太郎大佐以下約2,000名が戦死、生存者は1720名で、歩兵第18連隊の軍旗は岸波に移った。岸波と朝霜は米潜水艦を攻撃、朝霜の爆雷攻撃で米潜水艦トラウトを撃沈した。沖波は東山丸と安藝丸を護衛し、サイパン島とグアムに送り届けた。岸波と朝霜に救助された崎戸丸生存者も、6日になりサイパンへ上陸した。 第31駆逐隊の3隻は横須賀に帰投後、松輸送に従事した。3月20日、東松三号特別船団の輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出港、25日にサイパン行の山陽丸を分離し、28日トラック泊地に到着した。その後も第31駆逐隊は船団護衛を行い、5月上旬にリンガ泊地へ進出、14日からはタウイタウイ方面で対潜警戒に従事した。
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